第18話「最悪のライブ、最高の夜」
七回目のライブの日だった。
楽屋で衣装に着替えながら、俺は妙に落ち着いていた。回数を重ねるごとに、ライブ前の緊張が少しずつ薄れてきていた。
(慣れてきたな。)
悪いことじゃない。でも、慣れすぎるのも怖い。
「今日も客入ってるで」とZEROが言った。
「何人や」
「三十五人くらい」
「増えてきたな」
「まだ足りん」
「それはそうやけど」
ステージに出た。
照明が当たった。客席を見た。三十五人。フロアは埋まってきている。最初の十五人から比べたら、確実に成長していた。
(よし。)
俺は客席に向かって、軽く顎を上げた。バンドマンの顔をしていた。客に媚びない、でも引き込む、そういう顔。
ステージに立つ自分を作り上げて、ここまで来た。
DEADがカウントを叩いた。
最初の曲は順調だった。凱のリフが決まった。
JUNEのベースが太い。DEADのドラムが部屋を揺らしている。
二曲目に入った。
そのとき、客席の端に見慣れた顔を見つけた。
麻子だった。
黒いワンピースを着て、友達と並んで立っていた。俺と目が合った瞬間、少し笑った。
(あ。)
その笑顔を見た瞬間、俺の中の「強者感」が、音を立てて崩れた。
(か、かわいい。)
普段なら、客と目が合っても余裕を見せる。「フン」って感じで、ステージの上から見下ろすくらいの態度を作る。
でも今は、無理だった。
頬が緩みそうになるのを必死で抑えた。
(ダメや、ステージ上やぞ。バンドマンの顔せえ、俺。)
その瞬間だった。
俺の指が、盛大にずれた。
(あ。)
押さえるはずのフレットと全然違うフレットを押さえていた。ギターから、曲とは全く関係のない不協和音が鳴った。
凱が俺を見た。目が「何しとんねん」と言っていた。
ZEROがこっちを見た。歌いながら、目だけで「お前今何した」と言っていた。
JUNEが俺を見た。「大丈夫ですか」という顔をしていた。
DEADは前を向いたまま叩き続けていた。動じていなかった。さすがだった。
俺は即座に立て直した。でも一瞬の隙は確実にあった。
(やってしまった。)
三曲目。
立て直そうとした。集中しようとした。麻子の方を見ないようにした。
見ないようにしながら、結局ちらっと見た。
麻子がこっちを見ていた。
(やっぱり可愛い。)
見ないようにした。
でも気になった。
気になりながら弾いていたら、今度はMCのタイミングで俺が前に出すぎて、シールドが引っ張られてギターから抜けかけた。
(あ。)
ガクンという音がした。
全員が俺を見た。
客席も俺を見た。
麻子も俺を見た。
(穴があったら入りたい。)
俺は素知らぬ顔でシールドを挿し直した。凱が小さく舌打ちした。ZEROが「大丈夫か」という顔をした。JUNEが苦笑いした。DEADは相変わらず前を向いていた。
なんとか最後まで演奏した。
楽屋に戻った瞬間、凱が言った。
「お前、今日何しとったんや」
「すまん」
「二回もやらかしたやろ」
「すまん」
「なんで」
「…集中力が途切れた」
凱は俺をじっと見た。
「女か」
「違う」
「顔に書いてある」
(書いてあるんかい。)
ZEROが腕を組んで言った。
「まあ、演奏は最終的にまとめたからええ」
「ええくない」と凱が言った。
「ええ」
「ええくない」
JUNEが間に入った。
「まあまあ、次から気をつければ」
DEADが静かに口を開いた。
「…女は怖い」
全員がDEADを見た。
「DEADもそういう経験あるんか」と俺が聞いた。
DEADはしばらく考えた。
「…ない」
「じゃあなんで知っとるんや」
「…なんとなく」
(なんとなくて。)
ライブが終わって、片付けをしていると、後ろから声がした。
「ねえ」
振り返ったら、麻子だった。
(近っ。)
距離が近かった。普通、客が出演者に話しかける時は、もう少し遠慮がちな距離感がある。でも麻子は、俺のすぐ目の前まで来ていた。
「今日もよかったよ」
「お、おう」
声が裏返った。
(あかん、声裏返った。)
「途中、なんかあったやろ」
(見とったんかい。)
「気のせいやろ」
「私と目合った瞬間に音間違えたよね」
(見抜かれてる。)
「気のせいや」
麻子は少し笑った。
その笑顔で、俺の口元がまた緩みそうになった。
必死で堪えた。
「ねえ」と麻子が言った。
「なんや」
「次のライブ、いつ?」
「来月の頭やけど」
「日にち、教えて」
(えっ。)
麻子はバッグから手帳を取り出した。手帳。本気で次のライブを書き込もうとしている。
(こ、これは。)
俺は内心驚いた。
(積極的すぎる。)
現代の感覚なら、ここで「次のライブ来てね」って俺から誘うのが普通だ。それで女の子が「うん、行く」って言うか「予定見てみる」って濁すか、その辺で駆け引きがある。
でも麻子は、自分から「日にち教えて」と言ってきた。手帳まで取り出した。
(現代やったらこんなグイグイ来ぃひんぞ。)
俺は心の中でツッコんだ。
現代なら、マッチングアプリで何往復もメッセージして、やっとデートまでこぎつける。LINEで返信が遅いだけで「脈なしかも」って諦める。直接会って手帳出して「日にち教えて」って言われる経験、現代の俺にはなかった。
「来月の頭、五日や」
「五日ね」
麻子は手帳に書き込んだ。
「あと、これも」
麻子は手帳のページをちぎって、何かを書いて俺に渡した。
紙には電話番号が書いてあった。
(え。)
「うちの電話番号。次のライブの前、確認したかったら電話して」
(積極的すぎるって!!)
心の中で叫んだ。
現代なら、LINE交換するのに何回かやり取りして、向こうの友達と一緒に飲みに行って、自然な流れで交換する、みたいな手順を踏む。
でも麻子は、初対面に近い距離で、手帳のページちぎって電話番号渡してきた。
これが昭和なんや。
(やばい、心の準備が追いつかん。)
俺は紙を握りしめた。
「あ、ありがとう」
「じゃあ、また来月」
それだけ言って、麻子は友達と一緒に帰っていった。
俺はしばらくその背中を見ていた。
頬が、ちょっと熱かった。
楽屋に戻ると、凱とZEROが俺を見ていた。
「お前、顔」と凱が言った。
「顔?」
「デレデレしてるで」
(あ。)
「してへん」
「してる」
ZEROも頷いた。
「お前、さっきのステージのオーラと、今の顔、別人やな」
JUNEが俺の顔を覗き込んだ。
「あ、ほんとですね。すごく緩んでます」
DEADが無言で頷いた。
(やめてくれ全員で見るのは。)
「電話番号もろたんやろ」と凱が言った。
「なんで知ってるんや」
「見えた」
「うるさい」
ZEROが意味深に笑った。
「初めてやろ、こういうの」
「…まあ」
「初々しいな」
「うるさいって」
JUNEがフォローするように言った。
「でも、可愛らしいですよね、こういう蓮さんも」
「JUNE、お前まで」
DEADが小さく頷いた。
「…可愛い」
(DEADまで。)
俺は荷物を抱えて、楽屋を出た。
ポケットに入れた紙を、こっそり確認した。
電話番号が書いてあった。
(マジか。)
まだ信じられなかった。
帰り道、凱が隣を歩きながら言った。
「名前聞いたんか」
「麻子っていうらしい」
「そうか」
「なんや」
「気をつけろよ」
「何をや」
凱は少し考えてから言った。
「このシーン、狭いから」
(このシーン、狭いから。)
その言葉の意味が、そのときはよくわからなかった。
俺は麻子の笑顔を思い出していた。
頬が、まだ少し熱かった。
ポケットの紙が、なんだか妙に重く感じた。
(来月、電話してみるかな。)
そんなことを考えながら、夜道を歩いた。
来月のライブが、急に楽しみになった。
それまでに、シールド抜けないように気をつけよう。
そんなことも、ついでに考えた。




