第16話「初ライブ、惨敗」
CLUB NOVAのバックヤードは狭かった。
五人が衣装に着替えると、それだけでいっぱいになった。煙草の匂いと汗の匂いが混ざっている。
壁には先輩バンドたちのステッカーがびっしり貼ってあった。
「客、何人おるんやろ」と俺は言った。
「見てきた」とZEROが言った。
「何人や」
「…十五人くらい」
(十五人。)
CLUB NOVAのキャパは百人くらいだ。十五人では、スカスカだ。
しかも、この時代、対バンの関係者は客席に立っちゃいけない暗黙のルールがある。先輩バンドのメンバーやスタッフは、ライブ中はバックヤードか裏で待機する。
つまり、客席にいる十五人は、純粋に「客」だ。
(でもたぶん、俺たちを見にきた客はおらん。みんな後のバンド目当てや。)
そう思うと、胸の奥が少しだけ重くなった。
「まあ、最初はそんなもんやろ」と凱が言った。
「そうやな」と俺は言った。
JUNEは逆立てた髪の確認をしていた。DEADはスティックを握ったまま目を閉じていた。
ZEROは鏡の前に立っていた。自分の顔を見ていた。ナルシストだから鏡を見ているわけじゃなかった。真剣な顔をしていた。
(こいつも緊張してるんやな。)
俺はリハの後、フレーズの確認をしようと思いギターからシールドを抜いていた。メイクが終わったら少し練習しようと思っていたが、思いの外メイクに時間がかかってしまい、シールドを抜いたままなのを忘れていた。そうこうしているうちに、出番がきた。
「夜叉羅刻、出番です」
スタッフの声がした。
五人で顔を見合わせた。
「行こう」とZEROが言った。
俺たちはステージへ向かった。
そのとき、なぜか妙な感覚があった。
(俺、なんで今こんなに緊張してるんや。)
霧島蓮として生きていた頃、ライブはそれなりにやった。何回も経験した。ステージにも慣れていたはずだった。
なのに今、心臓が跳ねていた。手が少し震えていた。
(初ライブ、ちゃうのに。)
そう思いながら、ふと気づいた。
霧島蓮としてのライブは、いつも心の片隅で「いつかバンド解散するかも」「これで食っていけるかわからん」と思いながらやっていた。本気だったけど、どこかで自分を守っていた。
でも夜叉羅刻は違った。
本気で続けたい。本気で売れたい。本気で五人でやっていきたい。心の底から、そう思っているバンドだった。
(これ、本当の意味で、初ライブなんやな。)
そんな気づきが、ステージに上がる直前に来た。
ステージに出た瞬間、照明が眩しかった。
客席を見た。十五人。最前で腕を組んで立っている男が二人いた。座っている女の子もいた。明らかに「お手並み拝見」という目線だった。
(冷たい。)
体感温度が下がった気がした。
ステージから見る景色は、客席から見る景色と全然違った。照明が当たっていて、客席が暗くて、マイクスタンドとアンプと、DEADのドラムセットがある。
(ここが、俺たちの場所か。)
ZEROがマイクを握った。
「夜叉羅刻」
それだけだった。「よろしく」も「ありがとう」もなかった。それがこの時代のスタイルだった。バチバチの空気で、客に媚びない。やるかやられるか。それだけ。
DEADがカウントを叩いた。
演奏が始まる、はずだった。
俺がストロークを下ろした瞬間、音が出なかった。
(え。)
ギターから、何の音もしなかった。
一瞬、頭が真っ白になった。
(あ、シールド。)
繋ぐのを忘れていた。
凱が俺をちらっと見た。「お前、何しとんねん」という目だった。
俺は焦ってシールドを掴んで、ギターのジャックに突っ込んだ。
一小節遅れて、俺の音が入った。
(最悪のスタートや。)
凱の音と俺の音がずれていた。立て直すのに、二小節かかった。
ZEROが歌い始めた。
そのとき、もう一つの問題に気づいた。
(俺の音、聞こえへん。)
モニタースピーカーから、自分のギターの音が聞こえなかった。リハの時はちゃんと聞こえていた。でも今は、凱のギターとDEADのドラムばっかりが返ってきていた。
(凱、音上げすぎちゃうか。)
頭の中で疑った。でも本番中に文句は言えない。
自分のギターの音が聞こえないと、自分が何を弾いているかわからなくなる。指の感覚だけで弾くしかない。
(しんどい。)
それでも、なんとか演奏を続けた。
二曲目に入った。
客席は微動だにしなかった。
腕を組んだ男たち、座っている女の子、後ろの方で立っている数人。誰も体を揺らさない。誰も頷かない。
ただ、見ていた。
見定めていた。
(これが、対バンの客の目か。)
冷たかった。本当に冷たかった。
三曲目。
それでも動かなかった。
俺の頭は、もう半分パニックだった。シールドのこと、モニターのこと、客が動かないこと、全部が頭の中でぐちゃぐちゃになっていた。
ZEROだけは違った。
最後まで、声を張り続けた。届かないとわかっていても、最後の最後まで、客に向かって歌い続けた。
俺は弾きながら、ZEROの背中を見ていた。
(…こいつ、本物や。)
それだけだった。
二十分が終わった。
ZEROがマイクを離した。
何も言わなかった。
「ありがとうございました」も「お疲れ様でした」もなかった。
ただ、ステージを降りた。
俺たちもそれに続いた。
ステージを降りる瞬間、客席を見た。
拍手はなかった。
シーンとしていた。
腕を組んだ男たちは、もうステージを見ていなかった。次のバンドの準備を待っていた。
(…そうか。)
胸の奥が冷たくなった。
バックヤードに戻った。
誰も何も言わなかった。
しばらくして、凱がタオルで汗を拭きながら言った。
「まあ、最初はこんなもんやろ」
その瞬間だった。
「こんなもんでええわけないやろ」
ZEROの声が、バックヤードに響いた。
全員が静止した。
ZEROは壁を向いていた。拳を握っていた。
「客が一人も動かんかった。拍手も一個もなかった。俺の歌が十五人に届かんかった。それをこんなもんで済ませるんか」
「…いや、そういう意味じゃ」と凱が言いかけた。
「最初やから仕方ない、ってか」ZEROが振り返った。目が赤かった。「そんな言い訳したくない。俺は届かんかったんや。それだけや」
誰も何も言えなかった。
JUNEが小さく俯いた。凱が口を閉じた。DEADはZEROを見ていた。
俺も何も言えなかった。
ZEROは届かなかったことに怒っているけど、俺はそれ以前の問題だった。シールドを繋ぎ忘れて一小節遅れて入った男が、何を言えるんだ。
ZEROの言っていることは正しかった。最初やから仕方ない、は言い訳だ。客席が動かなかった事実は変わらない。
しばらくの沈黙の後、ZEROは息を吐いた。
「俺たちはまだ本物じゃない」
静かな声だった。でも、はっきりした声だった。
「本物になる」
それだけ言って、ZEROはまた壁を向いた。
俺はそのとき、初めてZEROを本当の意味で見直した。
ナルシストで、自信家で、思い込みが激しくて、独りよがりで。そういう男だと思っていた。
でも違った。
この男は、本気だった。本気だから、届かなかったことがこんなに悔しいんだ。本気だから、現実をちゃんと受け止めている。
(こいつと一緒にやってよかった。)
素直にそう思った。
その夜、次のバンドの演奏は客席で見られなかった。関係者は客席に出れない。だからバックヤードのモニターから漏れてくる音を、五人で聞いた。
そのバンドの演奏が始まった瞬間、フロアの空気が変わったのが、音だけで伝わってきた。
客が動いた。声を出した。
俺たちの時にはなかった反応が、簡単に起きていた。
俺はZEROを見た。
ZEROはモニターを真っ直ぐ見ていた。
その目に、悔しさと、羨ましさと、それから強い光があった。
(あの景色を、俺たちも作る。)
俺は何も言わなかった。
まだ届いていない。
でも、届く日が来る。
そのためにここにいる。




