第15話「前夜」
ライブの前日、俺は眠れなかった。
布団の中で天井を見つめていた。1982年の夜だった。虫の音が聞こえる。どこかで犬が吠えている。静かだった。現代と違って、夜が本当に静かだった。
(明日か。)
明日、夜叉羅刻が初めてステージに立つ。
CLUB NOVAのステージ。対バン三組の一番手。
持ち時間二十分。
現代なら今頃何をしていただろう。
スマホで対バンのSNSを調べて、どんなバンドか把握して、お客さんの傾向を分析して、セットリストを最終確認して、ライブハウスの過去の動員数を調べて、先輩バンドの演奏動画を見て研究して。
全部できない。
(情報が、何もない。)
対バンのバンドがどんな音楽をやってるか知らない。お客さんが何人来るか知らない。CLUB NOVAのステージがどんな音響か、実際に立ってみないとわからない。
知らないことだらけだ。
現代の俺なら絶対に耐えられなかった。ライブ前日にこれだけ情報がない状態で眠れるわけがない。
でも。
(昔の人たちは、これが当たり前やったんやな。)
ZEROも凱もJUNEもDEADも、不安そうな顔はしていたけど、情報がないことに対して誰も文句を言わなかった。当たり前だからだ。調べる手段がないことを、最初から知っているからだ。
(すごいな、昭和の人たちって。)
情報なしで、準備なしで、ぶっつけ本番で、それでも前に進んでいく。
現代の俺はいつもスマホで調べてから動いていた。調べてから判断して、調べてから行動して、調べてからじゃないと不安で動けなかった。
でもこの時代の人間は、調べられないから、とりあえず動く。動きながら考える。失敗したらその場で修正する。
(それの方が、強いかもしれん。)
静かな夜の中で、俺はそんなことを考えていた。
虫の音が続いていた。
(明日、どんな景色が見えるんやろ。)
ステージから客席を見た景色を想像しようとした。でも想像できなかった。行ったことがある場所なのに、ステージ側から見た景色は全く別物のはずだ。
それも、行ってみないとわからない。
(怖い。)
素直にそう思った。失敗が怖い。ZEROの歌声を活かせなかったら怖い。凱と音が合わなかったら怖い。DEADのリズムに乗れなかったら怖い。
JUNEのベースに引っ張ってもらえなかったら怖い。
怖いということは、本気ということだ。
(俺、本気やったんや。)
気づいたら本気になっていた。この時代に、この五人と、本気でバンドをやっていた。
ふと、不思議な気持ちになった。
(俺、ここにいていいんかな。)
山田蓮として生きているけど、中身は霧島蓮だ。
この時代に本来いるはずじゃない人間だ。ZEROも凱もJUNEもDEADも、本物のこの時代の人間だ。俺だけが違う。
でも。
(俺がいなかったら、夜叉羅刻はなかった。)
ZEROと出会ったのは俺だ。凱を認めたのも俺だ。JUNEのベースラインの提案を活かしたのも俺だ。DEADのドラムに一番最初に「本物や」と思ったのも俺だ。
この五人が揃ったのは、俺がここにいたからだ。
(ええか、俺がここにいても。)
天井に向かって、心の中で呟いた。
返事はなかった。当たり前だ。
でも、なんとなく、ええ気がした。
翌朝、学校に行くと、ZEROが廊下で待っていた。
「眠れたか」
「あんまり」と俺は言った。
「俺も」
(ZEROも眠れんかったんや。)
「緊張してるんか」と俺が聞いた。
「してない」
「顔に出てるで」
「してない」
ZEROは断言した。でも目の下に薄くクマがあった。
昼休み、五人でいつもの公園に集まった。
誰も特別なことは言わなかった。いつも通りの昼飯を食べた。いつも通りの話をした。
でも空気が違った。
全員がどこかそわそわしていた。JUNEが珍しく飯を半分残した。凱がいつもより口数が少なかった。DEADはいつも通り無言だったけど、スティックを指でくるくる回し続けていた。
「DEAD」と俺が言った。
「…なんや」
「緊張してるか」
DEADはしばらく考えた。
「…してない」
「スティック回し続けてるで」
DEADはスティックを止めた。
「…少し」
全員が笑った。DEADが緊張を認めた。それだけで、場の空気が少し軽くなった。
「俺な」とZEROが言った。
「なんや」
「今日のライブ、絶対に忘れへんと思う」
「なんで」
「初めてやから」
それだけだった。でも全員が黙った。
ZEROの言う通りだった。初めてのステージは一回しかない。うまくいっても、失敗しても、それが俺たちの最初のライブだ。
「行こう」と俺は言った。
「ああ」とZEROが言った。
「ああ」と凱が言った。
「はい」とJUNEが言った。
DEADは無言で立ち上がった。
夕方、CLUB NOVAに向かった。
地下への階段を降りる前、俺は一瞬立ち止まった。
(情報もない。準備も足りない。でも行くしかない。)
それが昭和だ。それがこの時代だ。
そしてたぶん、それでいい。
(霧島蓮として果たせなかった夢を、山田蓮として果たしに行く。)
おかしな話だ。でも本当のことだった。
俺は階段を降りた。




