9話 杭の向こう
山道の調査へ護衛を送り出したあと、レティシアは保管庫へ向かう途中で足を止めた。
掌には、村長から期限つきで借りた鉄の鍵がある。歩くたび角が指へ当たり、その重さが、まだ自分のものではないことを思い出させた。
被害帳簿には、壊された家と奪われた物が残っていた。保管庫を開けば、村に残る食料や道具の数も分かるだろう。
だが、失った物と残っている物だけでは、リンデの暮らしを知ったことにはならない。
被害を受けたあとも、この村で何が作られ続けているのか。それを先に見ておきたかった。
通りを外れて畑へ入ると、煮炊きの煙に代わり、湿った土と水路の匂いが濃くなった。革靴の下も石から柔らかな畦へ変わり、足音は土へ吸い込まれていく。
聞こえるのは、鍬が地面へ食い込む音、草を根ごと引き抜く音、収穫した作物が籠の中で重なる音だった。
そこに、人の声だけがない。
大人たちは腰を曲げて株元へ手を入れ、畝に沿って鍬を運び、満ちた籠を道際へ移しては空の籠と取り替えていた。レティシアとエルンが畦に立っても、誰一人として顔を上げない。
けれど、仕事の手も止まらなかった。
鍬は一定の間隔で土へ入り、畝には目立つ草が残っていない。水路から引かれた細い水は株の根元へ届き、収穫した作物は傷まないよう、葉を敷いた籠へ一つずつ収められていた。
急いで数だけを揃えた畑には見えない。
「働いておる」
「少なくとも、手は止まっておりません」
エルンの答えを聞きながら、レティシアは畑を見渡した。
「……困ったのう」
帳面へ向いていた顔が上がる。
「働いていることが、でございますか」
「怠けておるなら、原因が一つで済んだ」
「簡単な原因をご希望でしたか」
「望んではおらぬ。じゃが、ほんの少しは疑っておった」
口にしてから、葉を敷いた籠へ目を戻す。
王都の帳簿では収穫が減り、人も減り、割り当てへ届かない年が続いていた。どこかで、働く者まで仕事を投げているのではないかと思っていた。
だが、目の前の手つきは、その疑いを簡単に退けた。
働いていないわけではない。雑に済ませているのでもない。
ここまで手をかけている者たちへ、王都から「もっと働け」と命じれば、それで何が変わるのか。
「正直な申告として記録を――」
「するな」
「まだ筆を下ろしておりません」
「そなたは書く前から油断ならぬのう」
レティシアは畦を進み、ひときわよく育った一角の前で足を止めた。
同じ畝の中でも実が大きく、葉の色も濃い。株元の土は細かく砕かれ、根へ水を寄せるための浅い溝まで残っている。ほかと同じだけ働いて偶然こうなったのではなく、誰かが何かを変えた跡に見えた。
裾を押さえながら畦へしゃがみ込み、近くで作業する農民へ声をかける。
「ここは見事じゃな。そなたが育てたのか?」
返事はない。
「種を選んだのか。それとも、水の回し方を変えたのか」
農民はレティシアを見ず、大きく育った実を採った。そのまま、小さな実が入っている籠へ重ねる。
籠には、出来を分ける札も仕切りもなかった。
もう一度尋ねれば、答えるかもしれない。王女の問いだと告げれば、無視を続けることは難しくなるだろう。
だが、命じて引き出した言葉で、なぜ工夫したのかまで分かるとは思えなかった。
レティシアは立ち上がり、それ以上は追わなかった。
仕事そのものは粗末ではない。昨夜の料理と同じように、ここにも確かに手がかけられている。
それなのに、誰も出来のよさへ立ち止まろうとしなかった。
本当に違いを見ていないのか。
見ていても、喜ぶ理由がないのか。
それとも、王女の前で口にしたくないだけなのか。
今のところ、どれにも決められない。
「せっかく、これほど育ったのにのう」
呟きながら視線を移すと、少し先の畑で、一人の男が割り当ての境を示す杭のそばまで鍬を進めていた。
杭の手前までは草が抜かれ、土もきれいに起こされている。刃が杭へ触れる寸前で、男は鍬を返した。何度も同じ場所で止めてきたと分かる、迷いのない動きだった。
その向こうには、同じ高さの草が筋になって残っている。
さらに、杭の先を通る水路は縁が崩れ、流れ込んだ土に塞がれていた。その詰まりから先では水が細くなり、向こう側の畝だけ土の色が薄い。
鍬を数度入れれば、どけられそうな幅だった。
男も詰まりへ目を落とした。
それでも鍬を肩へ担ぎ、畑を離れようとする。
「待て」
男の足は止まらなかった。
レティシアは水路を指した。
「そこを直せば、向こうにも水が回るのではないか」
返事はない。
歩調さえ変えず、男は畦の先へ去っていった。
レティシアは杭と、塞がれた水路を見比べる。
「ここから先は、誰の仕事じゃ」
エルンが杭の印と、手元の記録を照らし合わせた。
「共用水路です。補修は畑仕事とは別の役務として割り当てられます」
「気づいた者が直してはならぬのか」
「本人の判断では行えません。補修を命じられた者が担当します」
「壊れておると分かっていても?」
「命令がなければ、動けません」
見つけることと、直すことの間に、誰かの許可が挟まっている。
杭の手前では畝の端まで土が湿り、向こう側では同じ水路に沿う土が途中から乾いていた。境を知らない水だけが、塞がれた土の隙間を探しながら細く流れている。
「杭は、畑の境を示すものじゃろう」
「そのはずです」
「手を止めるための壁ではない」
エルンの筆が帳面へ下りかける。
「今のは記録しますか」
「今のは苛立ちじゃ。結論の欄へ入れるな」
杭の前だけを見て制度が悪いと決めれば、帳面の数字だけで村を分かったつもりになるのと変わらない。
それでも、目の前の詰まりを誰も直さずに通り過ぎる理由が、怠けではないことだけは分かってきた。
別の畑では、農民が割れた農具の柄へ縄を巻いていた。すでに古い締め跡がいくつも残っている。その上から新しい縄をきつく重ね、手で何度か揺らして外れないと確かめると、ひびの残った柄をそのまま土へ戻した。
直したのではない。
今日、使えるようにしただけだった。
「エルン」
「何でしょう」
「リンデ独自の増産報奨はあるか。割り当ての外にある水路や農具を直した者へ、追加の支給を認めた例は」
「いずれも確認されておりません。多く採れた分を、育てた家へ余分に戻した記録もありません」
「余った分の販売は。本人の申し出による作付けの変更は?」
「どちらも許可が必要です。リンデで認められた例はございません」
問いを重ねている間にも、畑で働く手は止まらない。
大きな実は札のない籠へ入り、水は細いまま流れ、縄を巻かれた農具が再び土を起こしていく。
「『ない』ばかりが、ずいぶんよく揃っておるな」
「記録上は整然としています」
「整然と空っぽではないか」
「空欄ではなく、『該当例なし』と記されています」
「そういうところだけ立派に埋めるでない」
エルンの筆が一度止まった。
口元が、ほんのわずかに動いたように見える。
「今、笑ったか」
「確認されておりません」
「その返事は便利すぎるぞ」
追及しながらも、レティシアの視線は、よく育った畝へ戻っていた。
大きな実も小さな実も、同じ籠へ収められていく。
集めた作物が、病人や働けない者、不作の土地へ回されることは知っている。収穫をすべて育てた家へ戻せば、働けない者の椀から先に中身が消えるだろう。
それは必要だった。
皆から集め、足りない者へ回す仕組みまでなくしてよいとは思わない。
「集めることが悪いのではない」
レティシアは、まだ水の届いている畝を見た。
「これで今日を生きられる者がおる。冬への備えも、病人や働けぬ者へ回す分も要る。なくしてよい仕組みではない」
視線を杭の向こうへ移す。
細い水は、塞がれた土の下をかろうじて抜けていた。
「じゃが、一畝多く育てても、水路を直して収穫を増やしても、道具を長く使えるようにしても、その者の明日は変わらぬのじゃな」
「現行の規定では、いずれも個別の報奨にはつながりません」
「働けと命じておきながら、増やす理由は与えぬのか」
誰も休んでいない。
誰も仕事を放り出していない。
それでも、目にした範囲では、割り当ての外へ手を伸ばす者はいなかった。
杭の手前は、命じられた通りに耕されている。その正しさが、杭の向こうに詰まりを残しているのかもしれない。
だが、まだ仮説にすぎない。
多く作った家は、翌年の負担だけを増やされたのかもしれない。工夫へ使う時間そのものが残らないのかもしれない。以前、水路へ手を伸ばして止められた者がいる可能性もある。
一度、畑を歩いただけでは、どれにも印をつけられなかった。
「手は動いておる」
レティシアは、畑の端から端まで見渡した。
「止まっておるのは、その先じゃ」
またエルンの筆先が下りかける。
「原因として記録しますか」
「まだじゃ。今日一度見ただけで決めつければ、王都の報告書と同じになる」
「では、何を確認しますか」
「作った量、納めた量、各家へ戻された量を、同じ年、同じ家で追えるようにせよ」
一つずつ、必要なものを考える。
「できれば、翌年の割り当ても並べる」
「翌年の割り当てを?」
「多く作った家の暮らしが良くなったのか。何も変わらなかったのか。それとも、納める量だけを増やされたのかを見る」
エルンは書き取りながら、確認項目を読み上げた。
「作付け、収穫量、納入量、支給量、翌年の割り当て。同じ家を年ごとに照合」
「うむ」
「記録が分かれている場合は」
「集めよ。足りぬところは空欄のまま残せ。分からぬものを、都合のよい数字で埋めるな」
「承知しました」
帳面を閉じたエルンが、何も言わずに布を差し出した。
レティシアの指先には、畦へ手をついた時の土が残っている。
「頼んでおらぬぞ」
「帳簿を守るためです」
「わたくしの手ではなく、帳簿の心配か」
「両方です」
差し出された布を受け取る。
「ならば、最初からそう申せ」
「帳簿を先に申し上げた方が、受け取っていただけるかと」
「わたくしを何だと思っておる」
「帳簿より意地を張る方です」
「否定しづらい言い方をするでない」
指についた土を拭いながら、レティシアはもう一度、畑を見た。
よく育った作物。
杭の前で止まった鍬。
水を塞ぐ土。
今日だけ使えるよう、縄を巻き足された農具。
一番大きな実だけを見れば、よく働く村だと言える。
塞がれた水路だけを見れば、融通の利かない村にも見える。
どちらか一つを選べば、答えは簡単になる。
その簡単さを、結論にはしなかった。
畑で見えるのは、大きな実が、札のない籠へ収まるところまでだった。
「畑だけでは足りぬな」
「帳簿をつなぐ必要があります」
「働いた手の先を、帳簿で追うぞ」
畑を出れば、次は借りた鍵で保管庫を確かめる。
エルンが新しい頁を開いた。
その向こう、杭の先では、細くなった水が途切れず流れ続けていた。




