8話 渡された鍵
昨夜、レティシアは決めた。
今夜は食べる。明日は聞く。
温かな煮込みを食べ、眠りにつく頃には、朝になれば何かが少し変わっているような気もしていた。食事を運んだ者が声をかけてくるかもしれない。村長から、閉じた戸の理由を聞けるかもしれない。
だが夜が明けても、旧役宅へ届いたのは人の声ではなかった。
窓の外で桶が井戸の縁へ当たり、家畜を出す戸が開き、鍬が土へ下ろされる。村の朝は確かに始まっている。それでも、旧役宅へ向く足音も、昨夜の食事について話しに来る者もいなかった。
暮らしは動いているのに、こちらとの間だけが昨日のまま閉じている。
待っていても答えが来ないなら、自分から近づくしかなかった。
レティシアは侍女の手を借りずに旅服の襟を整え、旧役宅を出た。玄関前には帳面を抱えたエルンが待っており、その後ろへ護衛の靴音が続く。
通りの先で、一枚の戸が開いた。
昨日、馬車へ声をかけてきた子供が、年の近そうな二人と一緒に路地の陰から顔を出している。三人とも頬に土がつき、頭だけを壁から縦に並べていた。隠れているつもりなのだろうが、あまり向いていない。
レティシアが小さく手を振ると、一番前の子供の手がおずおずと上がりかけた。
その肩を、大人の腕が後ろへ引いた。
別の家でも、戸口から覗いていた子供が抱き上げられる。扉の隙間に残っていた指先まで家の奥へ消え、閂が落ちる。
レティシアは、最後の戸が閉じる前に手を下ろした。
昨日より早く下ろせた。
少しもうれしくなかった。
「昨日より大きく聞こえるのう」
「昨日は馬車の中でしたので」
「正しいことを申せばよいというものではないぞ。そなたは慰めに向かぬ男じゃな」
「帳面係ですので」
「ならば帳面に、慰めの欄を作れ」
「記載する事実がございません」
「そなた自身が原因であろう!」
エルンは帳面へ何も書かなかった。
子供四人。応答なし。保護者が連れ戻した。
書けば、事実はそれだけで済む。だが、上がりかけた手も、その前にこちらを見ていた顔も、同じ一行の中から消えてしまう。
今はまだ、消さずに覚えていたかった。
通りを進んでも、昨日と同じように人の顔が消えていった。鍬を持つ者は地面から目を上げず、軒先にいた者は道具を残したまま家へ入る。桶の水も、干しかけの布も、朝の仕事そのものは止まっていない。ただ、王女が歩く場所だけ、人が暮らしの表から抜け落ちていく。
残された道具は、どれもすぐ戻れる位置にあった。
自分たちが通り過ぎるのを待っている。
顔を見なくても、それだけは分かった。
昨日は馬車の窓から眺めた通りを、今日は自分の足で歩いている。戸までの距離も、閂の音の近さも、同じ景色とは思えなかった。
やがてレティシアは、通りの中ほどにある一軒の家の前で足を止めた。
窓は不揃いな板で塞がれ、戸口は大きく歪んでいる。土壁には黒い焦げ跡が残り、その周囲だけ色の違う新しい土で塗り直されていた。割れた柱には継ぎ木が当てられ、崩れかけた軒は縄でどうにか支えられている。
板の幅も、打たれた釘の間隔も揃っていない。
手に入る物を寄せ集め、雨風を防ぐことだけを先にしたのだろう。
直そうとした跡は、いくつもある。
それでも、直りきってはいなかった。
レティシアは焦げた壁へ手を伸ばしかけ、触れる前に止めた。
これは、見物するために残された被害ではない。
誰かがいまも暮らしている家だ。
戸口の土は何度も踏まれて固くなり、塞がれた板の隙間からは、煮炊きの煙が細く漏れている。
その時、内側で閂が外れた。
歪んだ戸から、弓を肩へ掛けた若い女が出てくる。裾は歩きやすい長さまで上げられ、革靴には乾いた泥がついていた。弓にはすでに弦が張られ、腰の矢筒を確かめる手にも迷いがない。
すれ違いざま、女はレティシアを一度だけ見た。
「少し、聞きたいことがある」
返事はなかった。
礼もなく、歩みさえ緩めない。護衛の間をまっすぐ抜け、村外れへ向かっていく。道を譲ったのは、護衛の方だった。
追えば、もう一度声をかけられる。
王女の名を使えば、足を止めさせることもできるだろう。
だが、命じて止めたあとに返ってくる言葉が、その女自身のものかは分からない。
レティシアは追わず、焦げた壁へ向き直った。
「エルン。この傷に、王都の報告で思い当たるものはあるか」
「リンデ周辺の山道に現れる武装集団、山狼衆による被害と似ています。村の荷や街道の馬車を襲い、家屋を壊した記録もあります。ただし、人数、拠点、指揮する者はいずれも未確認です」
塗り直された土には、押しつけた指の跡が残っていた。
誰が塗ったのか。何日かかったのか。その間、どこで眠り、何を食べたのか。
王都の報告書にある「家屋損壊」という一行からは、何一つ分からない。
「山狼衆と呼び、被害を一行へまとめれば、王都までは運べる」
レティシアは焦げ跡から目を離さなかった。
「じゃが、ここにおる間まで、それで分かった顔をするでない」
戸の向こうで、床板が鳴った。
板の隙間から若い男がこちらをうかがっている。
しばらくして外へ出てきたものの、家の中を隠す位置からは動かなかった。背後で戸が閉じても、閂の落ちる音はしない。
麻の上着は肘のところですり切れ、片方の袖口には乾いた土がついていた。両手を見える位置へ下ろし、護衛ではなく、まっすぐレティシアの顔を見る。
「今の話、本気ですか」
「本気じゃ」
「なら、俺が見たことだけなら話します」
男は一度、閉じた戸へ目をやった。
「ここは、俺たちの家です」
「そなたは?」
「トーマといいます」
レティシアは名を覚え、次の問いへ移る。
「村の者に代わって話せるか」
「無理です」
ためらいのない返事だった。
「俺がこの村へ来たのは半年前です。ここで何が積もってきたのか、全部は知りません。俺が話せるのは、自分で見たことだけです。ほかの人が何を思っているかは、その人に聞いてください」
村全体の気持ちを、都合よく一人へ背負わせない。
レティシアには、その答えの方が信じられた。
「ならば、この家のことを聞く。山狼衆に襲われたのか」
「戸と窓を壊され、食料を奪われました。この家だけじゃありません。死人も、怪我人も出ています。名前と被害は帳簿に残っています」
死人と口にした時だけ、トーマの声がわずかに遅れた。
名は挙げず、帳簿にあるとだけ続ける。
「山狼衆が最後に消えた方角は?」
トーマは戸口から離れず、村外れの畑を抜けて木立へ入る細い道を指した。
「あちらです。村へ入る時は、いつもあの道が使われています」
先へ伸びる轍は、坂の途中で木々の影へ消えていた。
「被害の帳簿と、保管庫の鍵を借りたい」
「鍵は村長が持っています。俺が聞いてきます」
「頼む」
トーマは閉じた戸の前をいくつも通り過ぎ、村長の家がある方角へ急いだ。
焦げた家の前で待っていると、護衛が立つぶんだけ道が狭くなり、荷車が一台、畑側へ大きく膨らんで通っていく。レティシアはすぐエルンへ合図し、護衛ごと壁際へ寄せた。
話を聞きに来た者が、村の暮らしを塞いでどうする。
しばらくして、トーマが戻ってきた。
分厚い帳簿を胸へ抱え、もう片方の手には大きな鉄の鍵を持っている。走ってきたらしく息は上がっていたが、帳簿を傾けず、鍵も地面へ当てないよう手首を上げていた。
「村長から借りてきました。日が落ちる前に返してほしいそうです」
村長自身は来なかった。
添えられた言葉も、返却の期限だけだった。
それでも、閉じた戸の向こうから鍵は渡された。
「うむ。助かった」
レティシアは帳簿と鍵を受け取った。
革表紙は手の幅より厚く、鉄の鍵は十歳の掌からはみ出すほど長い。二つが腕の中でぶつかり、鈍い音を立てる。
持てるかどうかなら、持てる。
このまま歩けるかどうかは、少し怪しかった。
隣からエルンの手が差し出される。
「帳簿をお持ちします」
「鍵は、わたくしが持つ」
「両方お持ちになるのでは?」
「判断は、情報が増えれば変わるものじゃ」
「今回は、重量という情報が増えましたな」
「そこまで正確に申すでない」
帳簿だけを渡すと、分厚い革表紙は最初からそこへ収まる予定だったように、エルンの腕へ安定した。
鍵はレティシアの掌へ残したまま、トーマへ向き直る。
「ついでに、村を案内してくれぬか」
「それは無理です」
「なぜじゃ」
「王女様と一緒に歩いているところを嫁に見つかったら、家から追い出されます」
トーマは、先ほど弓を背負った若い女が向かった道へ目をやった。
「そなた、自分で見たことだけを話すと申したばかりであろう」
「半年も一緒に暮らせば、見なくても分かることがあります」
レティシアは少し考えた。
「……案内は頼まぬ」
「助かります。帳簿と鍵は、日が落ちる前に俺へ返してください」
「承知した」
返却の約束を確かめると、トーマは歪んだ戸の向こうへ戻っていった。
木が擦れる音を立てて戸が閉じる。
だが、今度は閂が下りなかった。
*
エルンが被害帳簿を開くと、濃さの違う文字が頁いっぱいに並んでいた。日付の脇へ寄せた追記、書き直された数字、太い字の間へ後から差し込まれた細い字。乾く前に閉じたのか、向かいの頁へ墨が移っているところもある。
記されているのは、死者や負傷者だけではなかった。壊れた家、奪われた食料や薬まで続き、同じ家の名が日付を変えて何度も現れる。一度戸を壊され、直し終える前にまた食料を奪われ、その次には薬を失っている家もあった。
一つずつなら、戸と食料と薬は別の被害として数えられる。だが家の名を縦に追えば、その家は何度も立て直しかけ、そのたびに次の被害を受けていた。奪われているのは物だけではなく、元の暮らしへ戻るための時間でもある。
「失われたものと、今すぐ足りぬものを分けよ」
エルンは自分の記録帳を開き、左右の頁へ別々の見出しを置いた。左には過去の損失、右には現在の不足を書き込んでいく。
「被害の記録は、失われたものを消さぬために要る。もう一つは、残った者を今日生かすためじゃ」
「何を確認しますか」
「壊れた家の数。奪われた食料と薬。働けぬ者がおる家。今日食べる分が足りぬ家。次の荷が届く日」
レティシアは被害帳簿から、まだ何も書かれていない右の頁へ視線を移した。
「急ぐからといって、昨日を小さくするな。じゃが、昨日を数えるために、今日を遅らせることもするな」
「承知しました」
開いた帳簿の向こう、村外れの坂からは、濃い木立へ一本の道が続いていた。通りから見える範囲でも草は高く、曲がり角の先は山の影へ消えている。
レティシアは護衛隊長を呼ばせた。
「村と旧役宅の警戒を薄くせず、あの山道を調べる者を出せるか」
隊長は残る護衛と、道へ出せる人数を見回した。
「可能です」
「山狼衆を追うな」
レティシアは掌の鍵を握り直した。
「次の襲撃が来る道を探せ」
隊長はすぐには動かず、命令の続きを待った。
「新しい足跡、使われている脇道、見張りに使えそうな場所だけを確かめよ。山狼衆を見つけても近づくな。攻撃も、捕縛もするでない」
「敵を発見した場合も、場所だけ確かめて戻るのですね」
「深く踏み込むな。危険だと判断したなら、何も見つけておらずとも戻れ」
隊長の目を見る。
「何も持ち帰れぬことより、帰らぬことの方が困る」
探索範囲、接触禁止、撤退の判断。
隊長は一つずつ復唱してから、数名の護衛を連れて山道へ向かった。残る者は旧役宅と通りへ分かれ、空いた場所を埋めるように立ち位置を変える。
閉じた戸は開かなかった。
畑にいる者も、顔を上げない。
ただ、遠くで鍬の音が一つ止まった。
探索へ向かう足音が山道へ消えるまで、土を打つ音は戻らなかった。
「エルン。顔を上げた者は?」
「おりません。ただ、鍬を止めた者が一名」
レティシアは掌にある鍵へ目を落とした。
鉄の角から、朝の冷たさはもう消えている。
自分の手で温まっただけだ。
村長が心を開いたわけでも、王女を信じたわけでもない。分かっているのは、日が落ちるまでという期限つきで、保管庫の鍵が手元へ来たことだけだった。
「零ではないな」
「一名です」
保管庫を開ける鍵は、もう手の中にある。
村の戸を開く鍵は、まだない。
レティシアは鉄の鍵を握り直した。
ならば、いま開けられる方から開くことにした。




