7話 夕食
旧役宅の扉が閉まると、蝶番の軋みが厚い板の向こうへ吸い込まれた。
玄関前では護衛が立ち位置を変え、革靴が短く石を擦る。その音が落ち着くより先に、表通りのどこかで閂が落ちた。少し離れた家でも、木と金具が噛み合う音が続く。
レティシアは窓辺に立ったまま、誰もいなくなった通りを見ていた。
朝から馬車に揺られ、村へ入ってからは、受け取る者のいない笑顔を窓の外へ向け続けていた。村長と別れて旧役宅へ着くまで、もう一度くらい誰かが顔を出すのではないかと、どこかで期待していたのかもしれない。
だが、通りに残っているのは、取り込まれなかった桶と、干しかけの布、それから閉じた戸ばかりだった。
もう笑顔を見せる相手はいない。
そう思った途端、口元に入っていた力が抜け、奥歯までようやく離れた。
レティシアは窓から離れ、部屋の中央に置かれた椅子へ腰を下ろした。古い座面は真ん中だけ柔らかく沈み、十歳の身体には背もたれまでが遠い。それでも今日は、その余った深さに身体を預けられることがありがたかった。
「……この村には、ずいぶん戸が多いのう」
向かいで帳面を開いたエルンが、筆先を整えながら答える。
「戸数調査は、明日にいたします」
「慰め方が独特じゃな」
「帳面係ですので」
「それは役目であって、性格の説明にはなっておらぬぞ」
言い返しているうちに、玄関の扉が二度、短く鳴った。
外の護衛がすぐに身じろぎする。エルンが返事をすると、扉が細く開き、一人の村人が大きな盆を抱えて入ってきた。
冷えていた部屋へ、根菜と肉を煮た匂いが流れ込む。
卓上へ置かれたのは、湯気の立つ煮込みと、厚く切られた黒いパン、水差しだった。二つの椀には同じ量が注がれ、匙の柄は座る者の側へ向けて揃えられている。
盆を支える村人の指は、火のそばにいたためか節まで赤かった。袖口には湯気の湿りが残り、まだ温かな鍋から移してきたばかりだと分かる。
扉の脇には、布で蓋をした籠も置かれていた。同じ香草の匂いが布越しに漂い、持ち手が中身の重さで片側へ傾いている。
レティシアの目は、自分の椀より先にそちらで止まった。
「外におる者たちにも、食事は行き渡るのか」
「すでに手配されています」
エルンの返事を聞いてから、レティシアは村人へ向き直った。
「ありがとう」
村人は顔を上げなかった。
空になった盆を抱え直す。その時、肩がほんのわずかに動いた。
頭を下げたようにも見えた。
ただ、盆の重さを持ち直しただけかもしれない。
村人は何も言わず、籠を護衛へ渡すと、そのまま旧役宅を出ていった。廊下の先で短い声が交わされ、やがて扉が閉まる。
レティシアはしばらく、その扉を見ていた。
それから、卓の端を避けるように置かれた椀へ目を戻す。
「顔は見ぬのに、椀は倒れぬように置くのじゃな」
「丁寧な配膳でした」
「歓迎とは、まだ呼べぬ」
匙の柄は、手を伸ばせばすぐ取れる位置にある。二人分のパンも、片方だけ小さくならないよう同じ厚さに切られていた。
「じゃが、これを敵意と決めるのも早い」
「そのように記録しますか」
「まだ書くな。今分かるのは、椀が丁寧に置かれたことだけじゃ」
「承知しました」
煮込みの表面では、赤い根菜と白い根菜の間に、肉の脂が細く浮いている。湯気が途切れず立ち上り、空腹を思い出させる匂いが部屋へ満ちていた。
レティシアが匙へ手を伸ばした、その時だった。
腹が小さく鳴った。
エルンの筆が止まる。
「今のは記録するな」
「まだ何も申しておりません」
「『まだ』とは何じゃ」
「今後の判断に関わるため、回答を控えます」
「腹の音一つに、ずいぶん慎重じゃな!」
先ほどまで胸に積もっていた重さの一部が、怒鳴った拍子に少しだけ崩れた。
レティシアは匙を取り、煮込みを口へ運ぶ。
熱い。
反射的に息を吸いかけたが、舌を焼くほどではない。柔らかく煮えた根菜が崩れ、その奥から肉と香草の味が広がった。肉も匙で切れるほど柔らかい。馬車が村へ着いてから火へかけた料理ではない。誰が食べるか知った上で、ずっと前から煮込まれていたものだった。
飲み込むと、温かさが喉から胸へ落ちていく。
閉じた戸も、名を聞けなかった子供も、こちらを見なかった村長も消えはしない。
それでも、強張っていた身体の内側へ、もう一度あの戸の前に立つための力が戻ってきた。
目の奥に浮いた熱を、レティシアは椀の湯気へ顔を寄せて隠した。
「熱すぎましたか」
「ちょうどよい」
もう一口すくう。
「ちょうどよいから、困っておる」
エルンは続きを急かさず、筆を置いたまま待った。
「冷たい顔ばかり見せておいて、料理だけ温かいとは、ずるい村じゃ」
「この料理が、村全体の意思によるものかは未確認です」
「分かっておる。今のは感想じゃ」
煮込みの中へ匙を入れる。底から持ち上がった肉が、湯気の下でほろりと崩れた。
「これも、この村の味なのじゃな」
もう一口食べる。
「うまい。これは記録せよ」
「味覚は、客観的な記録に適しません」
「ならば、『殿下は二口目から発言が減った』と書け」
「すでに三口目でございます」
「数えておったのか!」
「客観的な記録ですので」
「そなたの帳面は、食事中まで油断ならぬのう」
パンをちぎり、硬い外皮を煮込みへ沈める。汁を吸ったところだけが柔らかくなり、噛むと麦の味が濃くなった。
最初は多いと思った椀も、エルンが書類を一束まとめ終える頃には底が見えていた。
その時になって、向かいの椀へほとんど手がつけられていないことに気づく。
湯気はもう細くなり、匙は置かれた時と同じ向きのまま。煮込みの表面には、薄い膜が張り始めていた。
「エルン、先に食べよ」
「こちらを整理してから――」
「紙は冷めても困らぬ。食事は困る」
「紙は、もともと温かくありません」
「そこを論じる暇があるなら食べよ」
それでもエルンの手は、開いた帳面から離れなかった。
帳面を閉じよ、と命じれば済む。
だが、一緒に食べてほしいのは、仕事としてではなかった。
レティシアは匙を椀へ置いた。
「……一人では、この味の話ができぬ」
エルンの手が止まる。
「ご命令ですか」
ほんの少し迷ってから、レティシアは首を振った。
「頼みじゃ」
エルンは何も言わなかった。
乾ききっていない文字の上へ紙を挟み、筆を収め、帳面を閉じる。向かいの椅子を引いて座ると、置かれたままだった二本目の匙がようやく煮込みへ入った。
レティシアはそれを見届けてから、残していたパンをもう一度汁へ浸した。
「どうじゃ」
エルンは一口食べ、飲み込む。
「よく煮込まれています。塩加減も適切です」
「帳面のように食べるでない。うまいと申せば済む話じゃ」
「うまいです」
「最初からそう申せ」
外から、村へ入る前に聞いた虫たちの声が届いた。
姿の見えない楽団は、夜になっても演奏をやめない。閉じた戸も、誰もいない通りも関係なく、草むらや水辺から声を重ねている。
レティシアは杯を両手で包み、しばらく耳を澄ませた。
「まだ歓迎してくれておる」
今度は、虫だと訂正されなかった。
「はい。先ほどより賑やかです」
横目で見ると、エルンは帳面へ手を戻さず、煮込みをもう一口食べていた。
レティシアは杯を口元へ寄せたが、その奥に浮かんだ笑みまでは隠せなかった。
*
食事を終える頃には、一日の疲れが急に身体へ戻り、瞼まで重くなっていた。
空になった二つの椀を前に、エルンが再び帳面を開く。レティシアは机へ頬杖をつきかけ、王女らしくないと思い直して座り直した。
「今日の記録じゃ」
エルンの筆先が、紙の上で待つ。
「歓迎なし。夕食あり。理由は未確認」
短い一行が帳面へ加わる。
「それだけですか」
「それだけじゃ」
レティシアは閉じた玄関の方へ目を向けた。
「戸を閉めた理由も、食事を出した理由も、まだ聞いておらぬ。分からぬことを、分かった顔で書くでない」
「承知しました」
エルンはその下を埋めず、明日、聞き取ったことを書き加えられるだけの余白を残した。
レティシアは小さくあくびをする。
「今夜は食べる。明日は聞く」
「その前に眠る、が抜けております」
「それは今から足す」
外では虫たちの声が続き、玄関の向こうでは護衛が交代する足音がした。しばらくして、食器を重ねる音が一度だけ響く。
閉じた戸は、今夜も閉じたままだった。
それでも旧役宅には、空になった二つの椀と、明日を書き足すための余白が残った。




