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レティシア ~小さな王女の国づくり~  作者: yurihina
1章 最初の改革
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7話 夕食

 旧役宅の扉が閉まると、蝶番の軋みが厚い板の向こうへ吸い込まれた。


 玄関前では護衛が立ち位置を変え、革靴が短く石を擦る。その音が落ち着くより先に、表通りのどこかで閂が落ちた。少し離れた家でも、木と金具が噛み合う音が続く。


 レティシアは窓辺に立ったまま、誰もいなくなった通りを見ていた。


 朝から馬車に揺られ、村へ入ってからは、受け取る者のいない笑顔を窓の外へ向け続けていた。村長と別れて旧役宅へ着くまで、もう一度くらい誰かが顔を出すのではないかと、どこかで期待していたのかもしれない。


 だが、通りに残っているのは、取り込まれなかった桶と、干しかけの布、それから閉じた戸ばかりだった。


 もう笑顔を見せる相手はいない。


 そう思った途端、口元に入っていた力が抜け、奥歯までようやく離れた。


 レティシアは窓から離れ、部屋の中央に置かれた椅子へ腰を下ろした。古い座面は真ん中だけ柔らかく沈み、十歳の身体には背もたれまでが遠い。それでも今日は、その余った深さに身体を預けられることがありがたかった。


「……この村には、ずいぶん戸が多いのう」


 向かいで帳面を開いたエルンが、筆先を整えながら答える。


「戸数調査は、明日にいたします」

「慰め方が独特じゃな」

「帳面係ですので」

「それは役目であって、性格の説明にはなっておらぬぞ」


 言い返しているうちに、玄関の扉が二度、短く鳴った。


 外の護衛がすぐに身じろぎする。エルンが返事をすると、扉が細く開き、一人の村人が大きな盆を抱えて入ってきた。


 冷えていた部屋へ、根菜と肉を煮た匂いが流れ込む。


 卓上へ置かれたのは、湯気の立つ煮込みと、厚く切られた黒いパン、水差しだった。二つの椀には同じ量が注がれ、匙の柄は座る者の側へ向けて揃えられている。


 盆を支える村人の指は、火のそばにいたためか節まで赤かった。袖口には湯気の湿りが残り、まだ温かな鍋から移してきたばかりだと分かる。


 扉の脇には、布で蓋をした籠も置かれていた。同じ香草の匂いが布越しに漂い、持ち手が中身の重さで片側へ傾いている。


 レティシアの目は、自分の椀より先にそちらで止まった。


「外におる者たちにも、食事は行き渡るのか」

「すでに手配されています」


 エルンの返事を聞いてから、レティシアは村人へ向き直った。


「ありがとう」


 村人は顔を上げなかった。


 空になった盆を抱え直す。その時、肩がほんのわずかに動いた。


 頭を下げたようにも見えた。


 ただ、盆の重さを持ち直しただけかもしれない。


 村人は何も言わず、籠を護衛へ渡すと、そのまま旧役宅を出ていった。廊下の先で短い声が交わされ、やがて扉が閉まる。


 レティシアはしばらく、その扉を見ていた。


 それから、卓の端を避けるように置かれた椀へ目を戻す。


「顔は見ぬのに、椀は倒れぬように置くのじゃな」

「丁寧な配膳でした」

「歓迎とは、まだ呼べぬ」


 匙の柄は、手を伸ばせばすぐ取れる位置にある。二人分のパンも、片方だけ小さくならないよう同じ厚さに切られていた。


「じゃが、これを敵意と決めるのも早い」

「そのように記録しますか」

「まだ書くな。今分かるのは、椀が丁寧に置かれたことだけじゃ」

「承知しました」


 煮込みの表面では、赤い根菜と白い根菜の間に、肉の脂が細く浮いている。湯気が途切れず立ち上り、空腹を思い出させる匂いが部屋へ満ちていた。


 レティシアが匙へ手を伸ばした、その時だった。


 腹が小さく鳴った。


 エルンの筆が止まる。


「今のは記録するな」

「まだ何も申しておりません」

「『まだ』とは何じゃ」

「今後の判断に関わるため、回答を控えます」

「腹の音一つに、ずいぶん慎重じゃな!」


 先ほどまで胸に積もっていた重さの一部が、怒鳴った拍子に少しだけ崩れた。


 レティシアは匙を取り、煮込みを口へ運ぶ。


 熱い。


 反射的に息を吸いかけたが、舌を焼くほどではない。柔らかく煮えた根菜が崩れ、その奥から肉と香草の味が広がった。肉も匙で切れるほど柔らかい。馬車が村へ着いてから火へかけた料理ではない。誰が食べるか知った上で、ずっと前から煮込まれていたものだった。


 飲み込むと、温かさが喉から胸へ落ちていく。


 閉じた戸も、名を聞けなかった子供も、こちらを見なかった村長も消えはしない。


 それでも、強張っていた身体の内側へ、もう一度あの戸の前に立つための力が戻ってきた。


 目の奥に浮いた熱を、レティシアは椀の湯気へ顔を寄せて隠した。


「熱すぎましたか」

「ちょうどよい」


 もう一口すくう。


「ちょうどよいから、困っておる」


 エルンは続きを急かさず、筆を置いたまま待った。


「冷たい顔ばかり見せておいて、料理だけ温かいとは、ずるい村じゃ」

「この料理が、村全体の意思によるものかは未確認です」

「分かっておる。今のは感想じゃ」


 煮込みの中へ匙を入れる。底から持ち上がった肉が、湯気の下でほろりと崩れた。


「これも、この村の味なのじゃな」


 もう一口食べる。


「うまい。これは記録せよ」

「味覚は、客観的な記録に適しません」

「ならば、『殿下は二口目から発言が減った』と書け」

「すでに三口目でございます」

「数えておったのか!」

「客観的な記録ですので」

「そなたの帳面は、食事中まで油断ならぬのう」


 パンをちぎり、硬い外皮を煮込みへ沈める。汁を吸ったところだけが柔らかくなり、噛むと麦の味が濃くなった。


 最初は多いと思った椀も、エルンが書類を一束まとめ終える頃には底が見えていた。


 その時になって、向かいの椀へほとんど手がつけられていないことに気づく。


 湯気はもう細くなり、匙は置かれた時と同じ向きのまま。煮込みの表面には、薄い膜が張り始めていた。


「エルン、先に食べよ」

「こちらを整理してから――」

「紙は冷めても困らぬ。食事は困る」

「紙は、もともと温かくありません」

「そこを論じる暇があるなら食べよ」


 それでもエルンの手は、開いた帳面から離れなかった。


 帳面を閉じよ、と命じれば済む。


 だが、一緒に食べてほしいのは、仕事としてではなかった。


 レティシアは匙を椀へ置いた。


「……一人では、この味の話ができぬ」


 エルンの手が止まる。


「ご命令ですか」


 ほんの少し迷ってから、レティシアは首を振った。


「頼みじゃ」


 エルンは何も言わなかった。


 乾ききっていない文字の上へ紙を挟み、筆を収め、帳面を閉じる。向かいの椅子を引いて座ると、置かれたままだった二本目の匙がようやく煮込みへ入った。


 レティシアはそれを見届けてから、残していたパンをもう一度汁へ浸した。


「どうじゃ」


 エルンは一口食べ、飲み込む。


「よく煮込まれています。塩加減も適切です」

「帳面のように食べるでない。うまいと申せば済む話じゃ」

「うまいです」

「最初からそう申せ」


 外から、村へ入る前に聞いた虫たちの声が届いた。


 姿の見えない楽団は、夜になっても演奏をやめない。閉じた戸も、誰もいない通りも関係なく、草むらや水辺から声を重ねている。


 レティシアは杯を両手で包み、しばらく耳を澄ませた。


「まだ歓迎してくれておる」


 今度は、虫だと訂正されなかった。


「はい。先ほどより賑やかです」


 横目で見ると、エルンは帳面へ手を戻さず、煮込みをもう一口食べていた。


 レティシアは杯を口元へ寄せたが、その奥に浮かんだ笑みまでは隠せなかった。


     *


 食事を終える頃には、一日の疲れが急に身体へ戻り、瞼まで重くなっていた。


 空になった二つの椀を前に、エルンが再び帳面を開く。レティシアは机へ頬杖をつきかけ、王女らしくないと思い直して座り直した。


「今日の記録じゃ」


 エルンの筆先が、紙の上で待つ。


「歓迎なし。夕食あり。理由は未確認」


 短い一行が帳面へ加わる。


「それだけですか」

「それだけじゃ」


 レティシアは閉じた玄関の方へ目を向けた。


「戸を閉めた理由も、食事を出した理由も、まだ聞いておらぬ。分からぬことを、分かった顔で書くでない」

「承知しました」


 エルンはその下を埋めず、明日、聞き取ったことを書き加えられるだけの余白を残した。


 レティシアは小さくあくびをする。


「今夜は食べる。明日は聞く」

「その前に眠る、が抜けております」

「それは今から足す」


 外では虫たちの声が続き、玄関の向こうでは護衛が交代する足音がした。しばらくして、食器を重ねる音が一度だけ響く。


 閉じた戸は、今夜も閉じたままだった。


 それでも旧役宅には、空になった二つの椀と、明日を書き足すための余白が残った。

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