6話 村に到着
紙の向こうへ出てから、最初にレティシアを迎えたのは、人の声ではなかった。
陽が山の端へ沈み、空の薄青が藍へ溶け始めたころ、馬車はリンデへ続く街道を進んでいた。王都を発ってから、馬へ水を飲ませ、車軸や革帯を確かめるたびに何度も止まり、その都度エルンは時刻と場所を帳面へ書き留めてきた。窓の外では石造りの建物が消え、畑が増え、いまは低い山影が道の先を囲んでいる。
朝から揺られ続けた腰には座席の硬さが残り、新しい革靴の中では足の指が窮屈に重なっていた。それでも眠る気にはなれない。
紙の上では指先に隠れた村が、もうこの街道の先にある。
草むらの奥で、一匹の虫が鳴いた。
すぐに畑の畦から別の声が応じ、石垣の隙間、木立の下、遠い水辺へと鳴き声が重なっていく。ひとつずつだった音は、いつの間にか数えられないほど増え、夕暮れの野を幾重にも満たしていた。
「凄いのう。王都の楽団より人数が多いぞ」
「虫でございます」
「所属を尋ねたのではない」
帳面から顔も上げない返事を聞き流し、レティシアは窓へ耳を寄せた。
車輪が土を踏む音も、馬具の金具も、馬車の軋みさえ虫たちの大合唱へ溶けていく。リンデの名が街道標へ現れてから何度も繰り返していた最初の挨拶が、その音の中で少しだけ遠のいた。
「わたくしを歓迎しておる」
「虫が、でございますか」
「そういうことにしておけ。最初の歓迎は、多い方がよい」
言っているうちに、道の先へ低い家々が見えてきた。
屋根の高さは揃わず、畑の向こうや道沿いへ間を空けて並んでいる。煙の上がる家もあれば、軒下へ農具を立てかけた家もある。王都の門前のような旗も、王女の到着を知らせる鐘もなかった。
それでも、人が暮らしている。
レティシアは外套の襟を直し、頬へ落ちた髪を耳へ掛けた。背中の白い結び目にも一度触れ、窓の外へ笑顔を向ける。
最初の畑にいた男は、馬車を見ても鍬を振るう手を止めなかった。
刃が土へ入り、同じ幅の土が畦へ返される。馬車の鈴も蹄の音も届いているはずなのに、顔はこちらを向かない。
忙しいだけかもしれない。
そう思った時、井戸端にいた女が桶を抱え、こぼれた水にも構わず家へ戻った。地面に残った水の筋は、戸口の直前で途切れる。
木を割る音が止まった。
窓の布が引かれ、軒先の道具が取り込まれる。肩で扉を押す者、子供を先に家へ入れる者、最後まで馬車を見ないまま背を向ける者。誰かが合図したわけでもないのに、馬車が進むほど通りから人の姿が抜け落ち、そのあとを追うように内側で閂が鳴った。
一つ。
少し離れて、もう一つ。
窓の外へ向けていた笑顔だけが、下ろすきっかけを失って残った。
「……皆、忙しいのかのう」
「その可能性はございます」
すぐ横の窓が閉じた。
その隣の戸も閉まり、向かいの家では大人の声が子供を呼び戻す。
レティシアは笑顔を消した。
「偶然にしては、息が合いすぎておるな」
エルンは否定しなかった。
閉じた戸は増えていく。それでも、なぜ閉められたのかは一つも分からない。帳面の数字を追っていた時と同じだった。目の前には結果だけが並び、そこへ至った理由はまだ見えない。
やがて、家と家の間から小さな顔が現れた。
年の頃はレティシアより少し下だろう。路地の陰から身体を半分だけ覗かせ、通りから人の目が消えて以来、初めて正面からレティシアを見た。
「お姉ちゃん、どこから来たの?」
「王都からじゃ。そなたは――」
名を尋ね終える前に、家から女が飛び出してきた。
母親らしい女は子供の肩をつかみ、叱りもせず、王女へ礼を取ることもなく、そのまま家の中へ引き戻す。レティシアと目を合わせようとさえしなかった。
「待て、まだ名を――」
扉が閉じ、内側から閂が落ちた。
上げかけた手が窓の外へ残る。
王女の名を使えば、あの戸を開けさせることはできる。母親へ子供を連れてこいと命じ、名前を答えさせることもできるだろう。
だが、それでは、あの子が自分から路地へ出てきたことまで命令の中へ押し込めてしまう。
レティシアはゆっくり手を下ろした。
「……名を聞きそびれた」
「空欄にしておきます」
「うむ。次は本人に聞く」
エルンは帳面を閉じず、そこに本当に一行ぶんの空白を残した。
馬車は村の奥へ進んでいく。
軒先で豆を選っていた女は籠を抱えて家へ入り、戸口に腰掛けていた老人は杖を引きずりながら奥へ消えた。窓の隙間から覗いていた子供の指も、大人の手に包まれ、引かれた布の向こうへ隠れていく。
ひとつ、またひとつと閂が落ちるたび、レティシアの胸にも小さな重みが積もった。
「嫌われておるのかのう」
「まだ判断できません」
「そうじゃな」
答えが早すぎたことに気づき、レティシアは閉じた戸を見直した。
「今分かるのは、わたくしたちを見て戸を閉めたことだけじゃ」
虫の大合唱は、村へ入る前と変わらず続いていた。
変わったのは、聞いている方だった。
さっきまで歓迎の楽団に思えた声が、いまは人の消えた通りと閉じた家々の隙間を埋めている。聞きたかった人の声がなくなったぶんだけ、虫の音はかえって近くなった。
そこへ一羽の鶏が、道端からのんびり歩み出た。
御者が慌てて手綱を引く。馬が鼻を鳴らして止まっても、鶏は逃げるどころか道の真ん中に立ち、王家の紋章をつけた馬車を見上げていた。
護衛の剣も、王女の名も、この一羽には戸を閉める理由にならないらしい。
「エルン。歓迎の数は?」
「人間零名。鶏一羽。虫は集計不能です」
「鶏は一名と数えよ。あれは逃げなかった」
「では、歓迎者一名。羽毛あり」
「その注記は要るのか?」
鶏が一声鳴く。
「本人は不服そうじゃぞ」
「数え方ではなく、馬車を止められたことへの抗議かと」
鶏がようやく道端へ退くころ、一人の老人が通りの先へ姿を見せた。
色の褪せた上着の裾には土がつき、節の太い両手は身体の前で重ねられている。迎えの列も案内役もなく、道の中央に立つのはその老人一人だけだった。
王都からの早馬で、幼い王女が視察に来ることは伝わっていたはずだ。
老人を村長と見て、レティシアは馬車を止めさせた。
窓越しに名を告げるのではなく、扉を開けて地面へ降りる。新しい革靴の底へ、王都とは違う柔らかな土がついた。護衛がすぐ後ろへ位置を変え、エルンも帳面を持って続く。
式服ではなく旅装とはいえ、王女が村長へ出向く形になった。誰かが先に止めるかもしれないと思ったが、護衛もエルンも黙っていた。
レティシアは老人の前まで自分の足で歩き、姿勢を正す。
「わたくしはレティシア・アルヴェイン。王都から、この村の視察に参った」
王家の名を告げたあと、自分から頭を下げた。
「まだ分からぬことばかりじゃ。よろしく頼む」
返事はすぐには来なかった。
顔を上げても、村長の視線は地面へ落ちたまま動いていない。逃げるわけではない。かといって、レティシアへ近づこうともしなかった。
「滞在場所には、旧役宅を準備しています」
返ってきたのは挨拶ではなく、必要な用件だけだった。
「そうか。村のことを、いろいろ教えてもらえると助かる」
「旧役宅は、この先になります」
村長は通りの先を手で示した。
それだけで、口を閉じる。
沈黙の隙間へ、虫の声が入り込んだ。一度、二度、別の音が重なっても、村長は顔を上げない。
王女を前に立たせたまま黙っていることへ、何も感じていないはずはない。それでも言葉が出ないのか、出さないのかは分からなかった。
ここで待ち続ければ、いずれ何かを話すかもしれない。
だが、それは王女を待たせているという圧力に耐えきれず、絞り出した言葉になる。
兄を王都へ置いてきたのは、そういう答えを聞くためではなかった。
「……うむ。迎えに出てくれたこと、礼を申す」
レティシアはもう一度だけ、浅く頭を下げた。
「話は、また改めよう」
馬車へ戻ると、村長は道を空けた。すぐ横を通り過ぎても、その顔は最後まで上がらなかった。
王女の名を使えば、頭を上げさせることはできる。
歓迎する気持ちまでは、命じられない。
*
村長の姿が後ろへ流れ、閉じた戸ばかりの通りへ戻ってから、レティシアは座席へ深く腰を下ろした。
「歓迎されぬ王女というのも、ずいぶん身軽でよい」
「荷物の重量は変わっておりません」
「そういう意味ではない」
すぐに言い返したものの、いつもの勢いは続かなかった。
窓の外では、村長が立っていた場所ももう見えない。代わりに閉ざされた戸と、急いで取り込まれた道具が後ろへ流れていく。
「……戸を閉められるのは、思ったより堪えるのう」
「はい」
「そこは否定せぬのか」
「否定すれば、殿下が傷ついたことまで、なかったことになります」
エルンは慰めようとも、まだ嫌われたと決まったわけではないと繰り返そうともしなかった。
傷ついた。
それは、戸を閉めた理由とは別に、いま確かなことだった。
レティシアは膝の上で指を組む。
「ならば、傷ついたまま考える」
閉じた戸を一つずつ見た。命じて開けても、その向こうの者が話したいと思うわけではない。
「どうすれば、向こうから開けてもらえる」
「まず、村長に閉じた理由を尋ねます。その後は、話してくれる者を探し、誰が何を見たのかを順に確かめるしかありません」
「では、わたくしが聞く。エルンは、誰から何を聞くか、その順番を考えよ」
「承知しました」
通りの両側へ、閉ざされた戸が続いている。
歓迎されるために来たわけではない。それでも、戸の向こうにいる者から何も聞けなければ、帳面を見に来た時と同じところで止まってしまう。
「歓迎がないなら、仕事で作る」
レティシアは窓の外を見たまま言った。
「向こうから戸を開けたくなる理由を」
「今のは、少し格好よく書け」
「公的な表現を検討します」
「そこは素直に格好よいと申してもよいところじゃぞ」
馬車は、誰も頭を下げない通りを旧役宅へ進んでいく。
閉じた戸。
取り込まれた農具。
戸口まで続き、そこで途切れた水の跡。
紙の向こうへ来ても、聞きたかった声は、まだ閉じた戸の向こうにあった。




