5話 馬車の中
馬車が動き出しても、レティシアは窓から身を乗り出したまま手を振り続けた。
外套越しの腹へ窓枠が当たり、石畳の継ぎ目を越えるたび身体が揺れる。朝、レオンに結び直された白い髪紐の端も頬の横で跳ねていたが、手を下ろす気にはなれなかった。
東門の前には、まだ兄が立っている。
一晩で揃えられた騎士たちは列を解き、替え馬や補給車も、馬車が門へ向かった頃には片づけが始まっていた。同行できるところまで支度を整えておきながら、レティシアが来ないでほしいと言えば、レオンは一言も責めずに残った。
その周りから人も荷も少しずつ消えていく中で、兄だけが黒馬のそばを動かなかった。
馬車が門楼の影へ入ると、蹄と車輪の音が高い石壁の間で幾重にも重なった。やがて朝日へ抜け、王都の外へ出る。石敷きだった道は土と小石に変わり、車輪の揺れも少し大きくなった。
城壁が遠ざかる。
門楼の旗が小さくなり、色まで見分けられなくなっても、レティシアは目を凝らした。レオンの姿は朝の光へ紛れながら、それでもしばらく門前に残っていた。
道が丘に沿って曲がった。
城壁も、門も、兄の姿も、一度に窓の外から消える。
上げたままの手だけが行き先を失った。
レティシアはしばらく何もない道の後ろを見つめ、それからようやく座席へ戻った。兄が結び直した髪へ触れると、結び目は東門で確かめた時と同じ場所にある。
「王都は、思ったより早く見えなくなるのじゃな」
向かいの席では、エルンがすでに帳面を開いていた。
「見えなくなっただけです」
「それを情緒と呼ぶには、ずいぶん固いのう」
「帰路の旅程も作成しております」
帳面の端から、往路とは別の細い紙片がのぞいている。日付と宿場らしい文字が並んでいた。
「それは情緒ではなく予定表じゃ」
「私なりの安心材料です」
エルンは帰路の紙片を、折れない位置へ差し直した。
慰めているのか、ただ予定を報告しただけなのか、相変わらず顔からは判別しづらい。けれど、戻る道まで先に用意してあると言いたかったのだろう。
「戻りたいわけではないぞ」
「承知しております」
「ただ、戻れる場所が見えなくなったのが、少し寂しいだけじゃ」
言ってから、レティシアは窓の外へ顔を向けた。
王都へ向かう荷車が、一行を避けて街道の端へ寄っている。野菜籠の隙間から青い葉が揺れ、御者は帽子を取って頭を下げた。
兄を王都へ置いてきても、王女を乗せた馬車は、それだけで周囲の人間を道の端へ動かす。
立派な顔をして黙っていることもできた。だが、兄には怖いと打ち明けたばかりである。今度は寂しさだけを隠すというのも、妙な意地に思えた。
エルンは何も言わず、座席脇の網棚へ手を伸ばした。
取り出したのは、レオンが非常食と言い張っていた焼き菓子の箱だった。
「一枚だけです」
蓋が開くと、蜂蜜と焼いた木の実の匂いが、馬車に満ちていた紙と革の匂いへ混じる。
「兄さまは、非常時のための菓子と申しておらなんだか?」
「予定外の感情的疲労が発生しましたので」
「寂しさは非常事態に入るのか」
「第一王子殿下には、そのように報告いたします」
焼き菓子へ伸びかけた手が止まった。
「待て。それでは次から菓子が倍になるぞ」
「何か問題が?」
レティシアは真剣に考えた。
エルンも、真面目な顔のまま待っている。
「……報告を許す」
「承知しました」
差し出された一枚を受け取り、半分だけかじった。長旅に耐えるよう固く焼かれた表面が小さく鳴り、その内側から蜂蜜の甘さが広がる。
胸の奥に残っていた寂しさが消えたわけではない。
ただ、名前をつけて口に出し、甘いものを一口食べたことで、抱えていられる大きさにはなった。
馬車が街道の石を踏み、大きく揺れた。膝の上へ、焼き菓子の欠片が一つ落ちる。
すぐに布が差し出された。
「最初から出しておけ。エルンは、わたくしが失敗するのを待っておったのか?」
「いいえ。失敗が起きたあと、広がらないよう備えていました」
すべての失敗を先回りして止めるのではなく、起きてから余計な被害へつながらないようにする。布一枚にも、エルンの仕事の順番が出ていた。
「父上がそなたを付けた理由が、少し分かってきたぞ」
「お役に立てて何よりです」
「褒めたわけではない」
「褒め言葉として記録します」
「勝手に意味を改めるでない」
エルンの筆先が、紙へ触れる寸前で一度止まった。
何を書いたのか、座席の向こうからは見えない。
レティシアは残りの焼き菓子を食べ終えると、前後の窓へ順に目を向けた。
先頭には騎馬の護衛。その後ろを馬車が進み、左右にも一人ずつ騎士がついている。さらに後方には荷車と、もう一組の護衛。前は街道を、左右は窓へ近づく者を、後ろは積み荷と追手を見る配置だった。
「兄さまを置いてきても、護衛はずいぶんおるのう」
「必要な人数です」
エルンは旅上着の内側にある短剣と、合図用の笛を示した。書類鞄からは、退避路を記した地図と非常用の銭が出てくる。
そこまでは分かる。
続いて任命状、王印付きの決裁書、旅程表、支出帳、予備の帳面まで確認し始めると、どう見ても武器の話ではなくなった。
「山賊にも任命状を見せるのか?」
「支出に不備があれば、多少は動揺するかもしれません」
「不備がなければ?」
「その時は護衛の仕事です」
短剣の鞘には、何度も抜き差ししたような傷がほとんどない。
「そなたが剣を抜いた時は、どうすればよい」
「殿下がお逃げになる合図です。私が戦うより、退路を確保して護衛を動かす方が、生きて帰れる可能性は高いので」
「もう少し頼もしく言えぬのか」
「最も頼もしい使い方を申し上げております」
剣を振るうことだけが役目ではない。
格好よさより、生きて戻れる可能性を選ぶ。東門でレオンに言われた言葉が、馬車の中では別の形を取っていた。
自分で確かめることと、一人で抱えることは違う。
「よい」
レティシアはうなずいた。
「ならば、エルンが剣を抜いたら、わたくしは迷わず逃げる。じゃが、その前に笛を吹け。大きくじゃぞ」
「吹きます。笛に感情は込められませんが」
「音量の話じゃ!」
御者台の方から咳払いが聞こえた。
笑いを隠し損ねた音にしか聞こえない。
エルンは何事もなかったように、別の帳面を開いた。表紙にはリンデの名があり、頁の端には人口、収穫、税、配給と書かれた紙片が挟まれている。
「では、現況を確認します」
さっきまでの軽いやり取りが終わると、レティシアも座り直した。
「人口は、十年前の六十四パーセントまで減少。報告上の主な要因は、王都や近隣地域への移住と、出生数の減少です」
差し出された報告書には、移住、出生数減少、死亡、世帯数が、同じ幅の欄へ整然と並んでいた。
「間違ってはおらぬ」
レティシアは移住の欄を指でたどる。
「じゃが、人が去ったから人口が減った、では、空になった椅子を数えたのと同じじゃ。知りたいのは、なぜ立ち上がり、何を求めて出ていったかであろう」
「移住は結果であると同時に、次の悪化を招く原因でもあります。働き手が減り、残った者の負担が増える。生産が落ちれば、さらに人が去る」
「なるほど」
レティシアは報告書の余白へ、丸い線を引いた。馬車の揺れで形は少し歪んだが、端と端はつながった。
「結果が次の原因になって、輪を作っておる」
描いた輪には、始まりを示す印がない。
「知りたいのは、最初に何がこれを回したかじゃ」
「その記録はありません。出生数が減った理由についても、明確な記載はございません」
出生数の欄へ目を落とした。
「食べさせられぬのか。住む家がないのか。先の暮らしが見えぬのか。どれか一つと先に決めず、本人たちへ聞こう」
筆先が紙の上で止まる。
「去った者だけではない。残った者が、なぜ残ったのかもじゃ」
エルンの筆が動き、新しい行を加えた。
「去らぬ理由まで失えば、次に減るのは、今おる者じゃ」
「記録しました」
レティシアは報告書を膝の上へ戻した。
「国は、去った人数を数えられるのに、去る前の一言は聞いておらぬのじゃな」
窓の外では、一人の農夫が畑を歩いていた。肩へ鍬を担ぎ、馬車へ一度だけ顔を上げる。王家の紋章を認めると道の端へ寄り、そのまま通り過ぎるまで待っていた。
「報告書は嘘をついておらぬ。ただ、正しく同じ場所で止まっておる」
「書類上の道は平坦ですので」
「そういう意味ではない。分かって申したであろう」
「推測は記録いたしません」
思わず笑いが漏れた。
「そなたの説明が平らなのではない。報告書が平らなのじゃな」
「私の名誉が回復しました」
「失っておったのか?」
「先ほど殿下がお奪いになりました」
「それは悪かったのう」
まるで悪いと思っていない声だった。
エルンも、それ以上は追及しない。
レティシアは窓の留め金を外した。
車輪と蹄の音が一段近くなり、春の風が客室へ流れ込む。湿った土と草、それに遠くで耕された畑の匂いが、紙と革の空気を押しのけた。
エルンは帳面の頁がめくれないよう、端を手で押さえる。
王都の石や香油とは違う匂いだった。
頬の横で、白い髪紐の端が風に揺れる。
「王都で読めるものは読んだ」
窓の外には、道端へ積まれた枝があり、低い畑の石があり、王女の馬車へ顔を上げたあと、また仕事へ戻る人がいる。
まだ記録へ入っていないものが、紙より先にそこへ存在していた。
「次は、紙の向こうへ行く番じゃ」
エルンが新しい頁を開いた。
レティシアは窓の外へ目を向けたまま続ける。
「数字は、人が減ったことを教えてくれる」
道の先は、まだ見えない。
「わたくしが聞きたいのは、数字になる前の声じゃ」
馬車は、その声が残っている場所へ進んでいった。




