4話 出発の朝
リンデへ発つ朝、王城の東門では、夜明けより先に一日が始まっていた。
前日の夕刻に王命が下りてから、まだ一晩も経っていない。門前へ運ばれた木箱には打ち込んだばかりの釘が光り、結ばれた縄の先には切りたての麻が細くけば立っている。御者は車軸へ油を差し、馬丁は蹄から手綱まで順に確かめ、締め終えた革帯を念のためもう一度引いた。
食料と着替えは木箱へ。地図と報告書は革袋へ。王命書は油紙で包み、封蝋が欠けないよう小箱へ収める。雨風で折れぬよう、地図の端には薄い板まで添えられていた。
その間を、エルンが帳面を手に行き来している。
昨夜の濃紺の官服ではなく、今朝は飾り気のない灰色の旅上着をまとい、書類鞄を肩から斜めに掛けていた。細い銀縁眼鏡の奥で、荷札と帳面を交互に追う。箱が一つ置かれるたびに筆が動き、封の向きが違えば自分で直し、ずり落ちた眼鏡は指の背で押し上げた。
王の間で一枚だけずれていた書類の角も、今朝はすべて揃っている。
レティシアは最後の木箱へ縄が回されるところまで見届けた。何を積んだのか知らなければ、道中で何かを失っても気づけない。遠くの村を自分の目で確かめに行くのだから、旅の支度まで誰かが整えたものとして眺めるだけにはしたくなかった。
濃紺の旅外套は、十歳の身体にはまだ少し重い。肩を動かすたび胸元の留め具が鳴り、新しい革靴の縁は歩くたび足首へ当たった。侍女には旅をするうちに馴染むと言われたが、痛いまま歩けば先に足の方が諦める、という意味ではないかと疑っている。
「よし。これで出られるな」
レティシアが満足してうなずいても、エルンは帳面を閉じなかった。
「まだ一名、確認が必要です」
「一名?」
筆先が、門柱の方を示す。
城壁の影に、レオンが立っていた。
濃い旅外套の下には剣帯。傍らの黒馬には長旅用の鞍が載せられ、毛布と水筒を入れた荷袋まで結ばれている。その後ろには、揃いの旅装をした騎士、替え馬、荷車が列を作り、最後尾の車には予備の槍まで積まれていた。
見送りにしては、あまりに本気である。
「兄さま。その荷は何じゃ」
「俺も同行する」
エルンが帳面を一頁戻した。
「第一王子殿下が同行される場合、王子付き護衛、替え馬、医官、通信員、補給車が追加となります」
レティシアは兄の後ろへ視線を送り、列の最後までたどった。自分をリンデへ運ぶ一行より、兄一人が加わることで増える者と荷の方が多い。
「兄さま一人を運ぶために、わたくしの一行より大きくなっておるではないか」
「第一王子の遠出には規定がある」
「王国最強も、規則には勝てぬのう」
「戦う相手ではない」
黒馬が鼻を鳴らし、白い息をレオンの肩越しへ吐いた。レオンは首筋を撫でて馬を落ち着かせると、妹へ向き直った。
「リンデは国境に近い。道も荒れている。治安についても、十分な報告がない」
「だから来るのか」
「お前は十歳だ」
「それは昨日も十歳じゃった」
「父上の許しが出たことと、安全であることは別だ」
過保護じゃ、と返すのは簡単だった。
けれど、門の向こうにある朝靄の道を、レティシアもまだ知らない。報告書には街道の長さや宿場の位置は書かれていても、実際の足場や、どこで何が起きるかまでは載っていない。見たことのないリンデを知るために出る自分が、見たことのない道を安全だと言い切るのもおかしかった。
「父上には申し出た」
レオンが黒馬の手綱を握り直す。
「お前が必要だと言うなら、同行を許すとのことだ」
騎士も馬も荷車も、レティシアが東門へ来る前から揃っている。
兄は許しを取るだけでは足りず、出発できるところまで準備を済ませていた。あとはレティシアが一言、来てほしいと言えばよい。
城壁を越えた風が、レオンの外套を膨らませる。
レティシアは、その端を指でつまんだ。
「本当は、来てほしい」
手綱を握る手が止まった。
「兄さまがおれば、怖くない」
「なら、行く」
返事と同時にレオンの足が鐙へ向かった。
「待て。まだ終わっておらぬ」
足が石畳へ戻る。
「来てほしいが、来てほしくないのじゃ」
「どちらだ」
「両方じゃ。最後まで聞け」
レティシアは兄の腰にある剣を見た。
訓練場では、並んだ騎士たちがレオンの短い助言だけで背筋を伸ばしていた。王国最強と呼ばれる第一王子が剣を下げて立つ前で、十歳の王女へ正面から「違う」と言える者が、リンデにどれほどいるだろう。
「兄さまがおれば、わたくしは安心できる。じゃが、向こうの者はそうではないかもしれぬ」
レオンの眉がわずかに寄る。
「兄さまの前で黙られたら、怖くて黙ったのか、納得して黙ったのか分からなくなる。兄さまが帰った途端に何もかも元へ戻るなら、わたくしはリンデを見たことにはならぬ」
帳面にないものを、自分の目で見に行く。
そのために、見えるものまで兄の強さで変えてしまいたくなかった。
レティシアは、旅装の騎士、替え馬、医官、補給車へ目を向けた。
「それに、兄さまは第一王子じゃ。わたくし一人の護衛ではない」
兄を連れていけば、王国最強の剣だけではなく、その剣を守り、動かすための一団まで王都を離れることになる。
しばらくして、レオンの手から力が抜けた。
張っていた手綱が少し垂れ、黒馬が自由になった首を動かす。
「分かった」
短い答えだった。
レティシアが顔を上げると、レオンはもう同行を迫る顔をしていなかった。
「ただし、護衛から離れるな。単独で動くな。エルンが止めた時は、その場で止まれ」
「待て。最後だけ範囲が広すぎるぞ。エルンが止めれば、何でも従えというのか」
「危険があると判断した時だ」
「……それなら、うむ」
すぐそばで紙を擦る音がした。
「記録しました」
エルンは帳面から顔を上げない。
「まだ一つも破っておらぬぞ」
「ですから、今のうちに記録しております」
「破ると決めつけておらぬか?」
「判断材料は過去の行動です」
今度はレオンまで反論しなかった。
荷台では最後の箱へ布が掛けられ、護衛騎士たちが次々に馬へ上がり始めている。
「報告は毎日――」
レオンが言いかけたところで、エルンが遮った。
「毎日早馬を出せば、報告より先に馬が尽きます。緊急時を除き、定期便ごとが現実的です」
レオンはほんの一拍だけ黙った。
「では、定期便ごとだ」
「ずいぶん大きく退いたのう」
「必要な修正だ」
意地を張って無理を通すのではなく、正しいと分かればすぐに直す。その切り替えの早さも、レティシアが兄にかなわないところだった。
レオンは黒馬の手綱を近くの騎士へ渡し、妹の前へ膝をついた。剣の鞘が石畳へ当たらないよう腰を少しずらすと、二人の目の高さが揃う。
「自分で確かめることと、一人で抱えることは違う」
「分かっておる」
言い切ったあと、レティシアは少し考え直した。
「……いや、分かろうとしておる」
「それでいい」
レオンの視線が、白銀の髪へ移った。
急いだ旅支度で結び目が片側へ寄り、細い一房が風のたび頬へ貼りついている。
「待て」
「今度はなんじゃ」
レオンは手首へ巻いていた白い紐を外した。
必要な時にたまたま持っていた、という言い訳はもう苦しい。おそらく最初から、妹の髪が乱れることを見越して巻いていたのだろう。
剣を握り続けて硬くなった指が髪を解き、旅外套の襟へ挟まらない高さで束ね直していく。
「その結び方では、最初の宿まで持たない」
「兄さまは髪結いとして同行するつもりだったのか」
「必要なら」
「王国最強の使い方として、ぜいたくすぎるのう」
「お前の髪は手強い」
髪を引かず、それでいて風や馬車の揺れではほどけない。結び目が収まると、レティシアは言い返す代わりに白い紐へ触れた。
レオンは立ち上がり、荷台の隅に置かれた小箱を指す。
「それも持っていけ」
蓋を開けると、布に包んだ焼き菓子がきれいに並んでいた。蜂蜜を塗ったものも、木の実を練り込んだものも、レティシアが先に選ぶ品ばかりである。
非常時に備えたにしては、好みが正確すぎた。
「非常食だ」
「甘い菓子がか?」
「疲労時には必要だ」
一つ取ろうとした指の前で、蓋が閉じた。
「今は駄目だ」
「まだ門も出ておらぬからか」
「分かっているなら聞くな」
小箱は荷台の奥へ収められた。
どこに入ったかだけは、正確に覚えた。
*
東の空から朝日が昇り、城壁の影が濡れた石畳の上をゆっくり退いていった。
門楼の松明が消され、代わりに馬具の金具と馬車の窓が光を返す。御者が手綱を取り直し、護衛たちは鞍の上で姿勢を整えた。
門番の手が重い閂へかかると、それまで別々に響いていた足音や作業の声が止まり、東門を静けさが満たした。
本来ならレオンとともに出るはずだった騎士たちは、まだ旅装のまま列の外へ残っている。一晩で揃えた替え馬も荷車も、これから片づけられるのを待っていた。
それだけの支度を、兄は黙って整えていたのだ。
エルンが銀縁の眼鏡を押し上げ、懐中時計へ目を落とす。
「レティシア殿下。出発時刻です」
「うむ」
馬車へ向かい、踏み台へ足をかける前に、結び直された髪へ触れた。
外套も革靴も、まだ身体へ馴染んでいない。
髪だけは、いつもの位置へ収まっていた。
馬車へ乗り込み、扉を閉める前に振り返る。
「帰ったら、今度こそ一本取るぞ!」
レオンは黒馬の横に立ったまま答えた。
「待っている」
扉が閉じる。
御者の合図で馬が歩き出し、車輪が夜露の残る石畳を回り始めた。東門の下へ入ると、蹄と車輪の音が高い石壁の間で重なり、朝の王都へ大きく響く。
窓の向こうで、レオンの姿が少しずつ遠ざかっていった。
朝日の中に残った兄の手首には、いつもの白い紐がなかった。




