3話 王の間
学習室を出た時には、十歳の贈り物は決まっていた。
夕刻の王の間には西日が差し込み、玉座へ続く深紅の絨毯を長く照らしている。その両脇には、宝石を散らした小箱、異国の布、金具のついた絵本、色鮮やかな硝子細工が並べられ、どの品にも贈り主の札が添えられていた。飾りの豪華さまで、王家との近さを競っているようだった。
侍女たちに髪も服も整え直されたレティシアは、深紅の式服の裾を持ち上げ、白い靴で品々の間を歩いていた。
どれも立派だった。手に取れば、きっと美しいとも思う。
けれど、欲しいものはそのどこにもない。
頭に残っているのは、午後に開いた人口記録だった。五年前と現在の数字。その差が国内でもっとも大きかった、小さな村の名。
リンデ。
贈り物を一つ見るたび、考えは同じ場所へ戻っていった。
玉座から娘の様子を眺めていた王が、やがて口を開く。
「学習担当が嘆いておったぞ。姫に教えるのは、なかなか骨が折れるとな」
レティシアは足を止め、父を見上げた。
「父上。十歳の祝いに、先生の愚痴を贈るつもりか?」
「王宮でも珍しい品であろう」
「本人からなら、いつでも聞けるぞ」
列席していた者たちの口元がわずかに緩んだ。
レティシアは絨毯の両側を示す。
「もっと美しいものが、すぐそこに山ほどあるではないか」
王が一度そちらへ目を向けると、浮かびかけていた笑みは揃って礼儀正しい顔へ戻った。
兄なら、笑った者を午後の鍛錬二倍にするところだ。父は何も言わない。ただ見るだけで足りるらしい。
「では、祝いらしい話をしよう」
王は玉座を下りかけ、そこでレティシアの右手へ目を止めた。
「その前に、その指はどうした」
見られて初めて、墨が残っていることに気づいた。
爪の脇から指先へ細い黒い筋が走り、親指の付け根にも小さな染みがある。侍女たちは髪も式服も整えたのに、午後の帳面へ触れていた跡だけは見落としたらしい。
「少し書きすぎただけじゃ」
「誕生日まで学んでおったのか」
「途中でやめれば、誕生日のわたくしだけ昨日より愚かになるではないか」
王は玉座を下り、懐から白い布を取り出した。
「手を出せ」
「自分で拭ける」
「知っている」
それなら布だけ渡せばよい。
そう言おうとした時には、父の掌が目の前で待っていた。
レティシアは少し迷い、しぶしぶその上へ指を乗せる。
王は布を親指へ巻きつけ、爪の脇から黒い筋を拭い始めた。書状へ署名し、国の命令を下す手が、今は娘の指を一本ずつつまんでいる。侍女より力が強く、教師より手つきが不器用で、指の間を拭われるたびに少しくすぐったい。
「動くな」
「手は動かしておらぬ」
視線だけで次の贈り物を見たつもりだったが、肩までそちらへ傾いていたらしい。王の空いた手が身体を正面へ戻した。
「身体もだ」
「細かいのう」
文句は言ったが、手は引かなかった。
最後の指から墨が消えると、王は黒くなった布を折り畳んだ。
午後に追った数字も、リンデの名も、その布へ移りはしない。消えたのは指についた跡だけだった。
「これでよい」
王は布をしまい、改めて娘へ向き直る。
「それで、何が欲しい」
ようやく来た。
レティシアはきれいになった指先を一度見てから、父の顔を見上げた。
学習室を出てから、言い方はいくつも考えていた。人口減少の実態を調べたい。記録に欠けた原因を確認したい。王女として現地を視察したい。
どれも間違ってはいない。
けれど、用意した言葉を並べるほど、自分が何も知らないことまで立派な理由の陰へ隠れてしまう気がした。
「リンデ村を見に行きたい」
玉座脇で品書きをめくっていた侍従の手が止まり、列席者の視線がいくつかレティシアへ向いた。
すぐに次の頁がめくられても、集まった注意までは消えない。
「どの村も人は減っておる。じゃが、リンデがもっとも多い。畑も、税も、配られた麦も記録されておるのに、なぜ人が減ったのかだけが、どこにも書かれておらぬ」
王の眉が、ほんの少しだけ動く。
「人口の減少か。確かに、見過ごしてよい問題ではない」
そのまま許すのではなく、父は問い返した。
「リンデまで出向いて、何を見定めるつもりだ」
「それは――」
原因を見つける。
正しい命令を出す。
先ほどまでなら、そう答えるつもりだった。
だが、口に出す寸前で止まった。
レティシアはリンデの土を踏んだことも、畑を見たこともない。そこに残った者がどんな顔で暮らしているのかさえ知らなかった。帳面に答えがないから見に行くのに、王の間で答えを持っているふりをすれば、現地へ行く前から結論だけを押しつけることになる。
「何を見れば答えに届くのか、まだ分からぬ」
自分で口にすると、王女の答えとしてはずいぶん頼りなく聞こえた。
それでも、取り繕わずに続ける。
「分からぬから、見に行きたいのじゃ。見てもおらぬのに、分かったふりはしたくない」
王は何も言わず、娘の顔を見つめた。
西日が傾き、並べられた硝子細工の一つが赤い光を床へ落とす。誰かが身じろぎする衣擦れさえ、ひどく遠く聞こえた。
やがて王は、玉座脇の侍従へ顔を向けた。
「よかろう」
レティシアは息を止めたまま、父を見る。
「それを父からの贈り物にしよう。王命書を用意せよ。リンデまでの道を確かめ、護衛と馬車を整えろ」
「行ってよいのか!」
「見に行くのだろう」
「うむ!」
父へ駆け寄ろうと一歩踏み出した途端、式服の裾が白い靴へ絡んだ。
前へ倒れかけた身体をどうにか立て直し、何事もなかったように裾を持ち上げ直す。王の目元に浮かんだ笑みは、指摘するより先に消えた。
「よく見て、よく聞いてこい」
レティシアも背筋を伸ばす。
「答えは、それからでよい」
「うむ」
今度の返事は、先ほどより少しだけ静かになった。
父は、分からないと言ったことを叱らなかった。代わりに、自分の目と耳で確かめる場所をくれた。
宝石よりも硝子細工よりも、それが欲しかった。
王は扉脇の侍従へ目を向ける。
「エルンを呼べ」
*
ほどなく王の間へ入ってきたのは、王付き書記官のエルンだった。
濃紺の官服に細い銀縁眼鏡。腰には懐中時計の鎖が垂れ、片腕には角まで揃えられた書類の束を抱えている。紙の間には細い筆が一本挟まれ、襟元も袖口も乱れていない。
祝いの場へ呼ばれる直前まで机へ向かっていたことだけが、腕の中の紙に残っていた。
エルンは並べられた贈り物へ一瞥だけを送り、深紅の絨毯の手前で足を止める。
「お呼びでしょうか」
王は玉座へ戻りながら告げた。
「明朝、レティシアとともにリンデへ発て。現地で見聞きしたことを、漏らさず記録せよ」
エルンは礼をした姿勢のまま動かなかった。
寸分違わず揃っていた書類の一番上だけが、指の幅ほど前へ出る。
「……明朝、でございますか」
「そうだ」
レティシアはエルンへ笑いかけた。
「よろしく頼むぞ」
護衛も馬車も王命書も、すでに手配が始まっている。エルンの都合や意見を聞くために呼ばれたのでないことは、十歳のレティシアにもよく分かった。
「私は、殿下の誕生日祝いの記録を整えるために呼ばれたものと思っておりました」
「間違ってはおらぬ」
レティシアはうなずく。
「わたくしの祝いの続きじゃ」
「殿下にとっては、でございましょう」
エルンの親指が、ずれた一枚を元の位置へ戻した。
ほんのひと呼吸だけ黙ったあと、書類を抱え直す。
「承知いたしました」
重なった紙の角が揃い、乾いた音が一つ鳴った。
今夜中に片づける仕事が増えた音にも聞こえる。
「ただし、出発記録には『本人の意見を聞く前に決定』と記しておきます」
「正確な記録じゃな」
レティシアが感心してうなずくと、玉座の王の眉間に皺が寄った。
「そこまで書かなくてよい」
エルンは銀縁の眼鏡を押し上げ、書類の間から筆を抜く。
迷いなく余白へ下りた筆先が、いま口にした通りの一行を加えた。
「見聞きしたことを漏らさず記せ、とのご命令でしたので」
王は返す言葉を探すように口を閉じた。
レティシアは横から紙を覗き込み、本当にそのまま書かれていることを確かめる。
父に拭われた指の墨は、もう残っていない。
その代わり、エルンの筆が、明朝から始まる旅を最初の一行から記し始めていた。
十歳の贈り物は、もう箱の中にはなかった。




