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レティシア ~小さな王女の国づくり~  作者: yurihina
1章 最初の改革
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2話 学習室

 午後の鐘が鳴り終わる前に、レティシアは二冊の教本を抱えて回廊へ出た。


 朝の稽古でレオンに結び直された白銀の髪は、着替えを済ませた今も細い白紐で束ねられている。淡い色の上着にも、腕の中の教本にも訓練場の名残はないのに、背中で揺れる結び目だけが、十歳になった朝をまだ手放していなかった。


 高窓から差し込む春の日差しが、磨かれた石床へ明るい四角をいくつも並べている。その先から、金糸の紋章を胸につけた男たちが歩いてきた。


 先頭に使者、その後ろには書状箱を抱えた従者が三人。彼らが道を空けろと言うより早く、回廊を行き交っていた侍従たちが壁際へ寄り、運んでいた盆や木箱を胸へ抱え直していく。槍を持つ兵士まで石壁のそばへ身体を寄せ、広かったはずの通路は、男たちのためだけに中央を残した。


 隣を歩いていた侍女も足を止め、深く腰を折る。


 レティシアはその半歩後ろで白い靴を揃え、顎だけを引いた。


 使者は通り過ぎなかった。


 磨き上げられた靴が、レティシアの行く手を塞ぐ位置で止まる。


「それだけですかな」

「礼なら済ませたぞ」


 何を求められているかは分かっていた。隣の侍女と同じ深さか、それ以上。父が一年前、隣国の使者へ見せたように、冠が子供の目の高さまで下がる礼を、この男も待っている。


 使者の視線が、白銀の髪から腕の中の教本へゆっくり下りた。人ではなく、値を確かめる品でも見るような目だった。


「陛下は、もう少し礼を心得ておられたが」


 回廊のどこかで、足音が一つだけ途切れた。


 父王の冠が下がっていく光景と、同じ書状に並んでいた麦の量、荷車の数、連れていかれた女たちの名が、ひと続きに胸へ戻ってくる。


 言い返す言葉なら、いくつも浮かんだ。


 だが、この男は返事を求めていない。小国の王女が腹を立て、子供らしく噛みつくところか、父と同じ高さまで頭を下げるところを見たいだけだ。どちらを選んでも、最後に笑うのは向こうだった。


 レティシアは教本を抱く腕へ力を込め、喉まで出かかった言葉を本の角ごと胸へ押し戻した。


 使者の口元が、わずかに持ち上がる。


「小さな国の姫君には、身の丈というものがまだ難しいらしい」


 それだけ残し、男は脇を通り過ぎた。三人の従者が続き、硬い靴音が明るい床を順に踏みつけながら遠ざかっていく。


 侍女がようやく顔を上げた時には、レティシアはもう歩き出していた。


 追いつくには少し速く、走っていると言うには遅い。抱えた教本の角が腕へ食い込んでも、歩幅を緩める気にはなれなかった。


     *


 学習室の扉を押し開けると、窓から入る風が大陸全図の端を揺らしていた。


 大きな机いっぱいに地図が広げられ、国ごとに色の違う木の駒が並んでいる。冷めかけた茶の横には、焼き菓子が三つ。教師はすでに席へ着き、レティシアが腕へ食い込ませている教本の角を一度見ただけで、回廊のことは尋ねなかった。


「ずいぶん早足でしたな」

「廊下が長かっただけじゃ」


 二冊を机へ置くと、背表紙がずれたまま重なった。


 椅子へ腰を下ろしたものの、十歳の身体では座面が深く、白い靴は床へ届かない。右へ一度、左へ二度と足を揺らす。先ほど蹴らずに済ませた使者の靴が、その分までまだ足先に残っているようだった。


 教師は何も言わず、大陸中央へ黒い駒を置いた。


 その周囲へ、鉱山を示す小石、穀倉地帯の札、東の港、街道を表す細長い木片を加えていく。黒い駒の隣だけがみるみる埋まり、国というより、ひとつの大きな町のようになった。


 大陸の端に置かれた自国の駒のそばには、何もない。


 レティシアは皿から焼き菓子を一つ取り、自国の隣へ置いた。


「これで二つじゃ」


 教師は地図に突然増えた丸い領土を眺めた。


「菓子は国土へ数えません」

「麦と砂糖でできておる。立派な産物じゃ」

「間もなく殿下のお腹へ消える産物でもあります」


 反論の代わりに焼き菓子を口へ放り込み、噛み砕いて飲み込んだ。


「消えたぞ」

「予想どおりです」


 教師は残る二つを載せた皿を、地図の向こう側へ移した。


 レティシアが身を乗り出すと、今度は机の下から足台が引き出され、白い靴の下へ置かれる。頼むより先に出してくるくせに、最初から用意されていたためしはない。届かないことを自分で確かめるところまで、教育の一部に含まれているらしい。


「今は大陸最大の帝国について学んでおるのじゃぞ。なぜ、そこでわたくしの足台が出てくる」

「国を立て直す前に、まず殿下の足場を整えませんと」


 足台へ靴を乗せると、視線が少し高くなり、遠ざけられた焼き菓子にも近づいた。


「……今のは、うまいことを言ったつもりか?」


 教師は答えず、ずれていた教本を机の端へ揃えてから一冊を開いた。


「教育です」

「先生は、教育の名を借りれば何を言っても許されると思っておるな」

「殿下ほど自由には申しておりません」


 開かれた頁を指で押さえ、教師は黒い駒の周囲へ視線を戻した。


「帝国の強さは、領土の広さや兵の多さだけではありません。鉱山で採れた鉄は街道を通って工房へ運ばれ、穀倉地帯の麦は倉へ集まり、港から別の土地へ送られます」


 指が鉱山から道をたどり、倉を経て港へ移る。


「離れた場所にあるものが、必要な時に必要な場所へ届く。そうして初めて、兵の数も、倉の麦も、国境まで続く道も、一つの国の力になります」


 回廊に残っていた靴音が、別の意味を持って耳の奥へ戻ってきた。


 金糸の紋章も、書状箱を抱えた従者も、誰もが先に道を空けたことも、あの使者一人の力ではない。背後にある国の兵、倉、街道、そのすべてが男と一緒に回廊を歩いていた。


 あの靴を蹴り飛ばしたところで、道も倉も消えない。


 父が頭を下げた相手は、目の前の一人だけではなかったのだ。


「それらは、話し合いの席までついてきます」


 教師の言葉が、レティシアの考えへ静かに重なった。


 伸びかけていた手を焼き菓子から引き、代わりに筆を取る。


 教本には、先の国境交渉について、短い一文が記されていた。


『自国は、賢明な譲歩によって戦を回避した』


 写そうとした筆先から墨が一滴落ち、紙の上で黒く広がった。


「賢明とは、誰にとってじゃ」


 教師はすぐには答えず、染みの隣へ置かれた筆を見た。


「その時の自国にとってです。交渉が決裂すれば、戦になる可能性がありました。いくつかの権益を渡すことで、土地と、そこに暮らす者の命を守った」


 ――陛下は、もう少し礼を心得ておられたが。


 先ほどの声が、教本の一文へ入り込んでくる。


「正しい判断であったのか」

「少なくとも、何も考えずに選ばれたものではありません」

「じゃが、好きに選べたわけでもない」


 窓から入った風が、地図の端をもう一度持ち上げた。レティシアは片手で紙を押さえる。黒い駒の影が、その手の甲へかかった。


 教師は、すぐに否定しなかった。


「ええ。断った後を支える力が、足りなかったのでしょう」


 鉱山、倉、港、街道。


 一つずつは別のものでも、最後には黒い駒の力へ戻っていく。こちらには、断るための言葉だけではなく、その言葉を支えるものが足りなかった。


 レティシアはしばらく地図を見たあと、教本から顔を上げた。


「先生。国の差が、いつ、どこでついたのかも記録に残っておるのか」


 教師の指が頁から離れる。


「結果なら残っています。どこに何人が暮らし、どれだけ作り、何を納めたか。ですが、何が最初の原因だったのかまで、すべて記されているとは限りません」

「ならば、結果からたどればよい」


 机の端には、今日の授業で使う予定だった帳面が積まれている。


「何から調べますか」

「人じゃ。国を支えるのが人なら、まず、どこに残り、どこから消えたかを見る」


 教師は積み重なった帳面の一番下へ手を差し入れ、分厚い一冊を引き抜いた。革の表紙には『国内人口記録』と記されている。


 机へ置かれた拍子に、表紙の上の薄い埃が午後の光へほどけた。


     *


 人口記録には、村の名と、五年前、三年前、現在の人数が並んでいた。


 レティシアは足台へ靴を置いたまま身を乗り出し、上から順に数字を追った。前後の差を余白へ書き込むたび、指先に墨がつく。教師は計算へ口を挟まず、帳面が閉じないよう頁を押さえていた。


 増えている村は、一つもない。


 五年をかけて少しずつ減った村もあれば、三年前から急に崩れた村もある。十人、二十人という差で済むところもあれば、ひとつの家族では埋まらないほど人が消えているところもあった。


 同じ計算を何度も繰り返し、ようやくレティシアの指が止まる。


「先生、ここじゃ」


 教師が椅子を寄せた。


「どこも減っておる。じゃが、この村だけ落ち方が違う」


 指先にあったのは、リンデという名だった。


 五年前の数字と現在の数字をもう一度見比べ、前後の頁も開いて記載漏れがないか確かめる。それでも、数字は変わらない。


「リンデ村ですな。ここ五年で、国内でもっとも人口が減っています」

「なぜじゃ」


 答えを探して余白へ目を移したが、そこには何もない。


 村の名、年、人数。


 人が減ったという結果だけがあり、理由を書く欄そのものが作られていなかった。


「別の記録に残っているかもしれません」

「探すぞ」


 冷めた茶へ手をつける間もなく、次の帳面が開かれた。


 収穫量。納められた税。配給された麦。街道の修繕記録。


 帳面を替えるたびにリンデの名は見つかった。


 人が減るにつれて収穫量も落ちている。だが、人が去ったから作れなくなったのか、作れなくなったから人が去ったのか、その順番までは分からない。税も配給も村全体の数字しか残しておらず、誰が最初に苦しくなり、誰が最初に家を捨てたのかは書かれていなかった。


 街道の修繕が止まった年も分かる。


 だが、それが暮らしに何を起こしたのかは、どこにもない。


 数字は間違っていなかった。


 ただ、尋ねられていないことには答えられず、同じ場所へ整然と並んだまま黙っている。


「書かれておらぬな」

「はい。残っている記録から分かるのは、人口が減り、収穫が落ち、税と配給がこう動いたという結果までです」


 教師は最後の報告書を閉じた。


「最初に何が起きたのか、それによって誰が何を失ったのかを答える記録はありません」


 いつの間にか窓から差す光は傾き、開いた人口記録を斜めに横切っていた。


 国内でもっとも人の減った村でさえ、地図の上では指先で隠れるほど小さい。帳面の中へ理由がないなら、理由のある場所まで行くしかない。


「何をお考えですか」

「誕生日の贈り物じゃ」


 教師は人口記録と地図を見比べた。


「リンデを、ですか」

「村そのものをもらってどうする。見に行く許可じゃ」

「それは失礼いたしました」


 口元をわずかに緩めながら、教師は人口記録を閉じ、ほかの帳面と分けて地図の脇へ置いた。


 レティシアが椅子から降りようとすると、足台が先に少しだけ前へ押し出される。今度は文句を言わず、白い靴を載せて床へ下りた。


 皿には、焼き菓子が二つ残っている。


「その菓子も、誕生日の贈り物に含めますか」

「これは考えるための分じゃ」


 焼き菓子を取って口へ入れ、扉へ向かう。


 取っ手へ手をかけたところで、一度だけ振り返った。


 大陸の中央では、黒い駒の周りを鉱山と倉と港と道が埋めている。その端にあるリンデの文字は、相変わらず指先で隠せるほど小さかった。


 けれど、その名はもう、紙の中だけには収まっていなかった。

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