2話 学習室
午後の鐘が鳴り終わる前に、レティシアは二冊の教本を抱えて回廊へ出た。
朝の稽古でレオンに結び直された白銀の髪は、着替えを済ませた今も細い白紐で束ねられている。淡い色の上着にも、腕の中の教本にも訓練場の名残はないのに、背中で揺れる結び目だけが、十歳になった朝をまだ手放していなかった。
高窓から差し込む春の日差しが、磨かれた石床へ明るい四角をいくつも並べている。その先から、金糸の紋章を胸につけた男たちが歩いてきた。
先頭に使者、その後ろには書状箱を抱えた従者が三人。彼らが道を空けろと言うより早く、回廊を行き交っていた侍従たちが壁際へ寄り、運んでいた盆や木箱を胸へ抱え直していく。槍を持つ兵士まで石壁のそばへ身体を寄せ、広かったはずの通路は、男たちのためだけに中央を残した。
隣を歩いていた侍女も足を止め、深く腰を折る。
レティシアはその半歩後ろで白い靴を揃え、顎だけを引いた。
使者は通り過ぎなかった。
磨き上げられた靴が、レティシアの行く手を塞ぐ位置で止まる。
「それだけですかな」
「礼なら済ませたぞ」
何を求められているかは分かっていた。隣の侍女と同じ深さか、それ以上。父が一年前、隣国の使者へ見せたように、冠が子供の目の高さまで下がる礼を、この男も待っている。
使者の視線が、白銀の髪から腕の中の教本へゆっくり下りた。人ではなく、値を確かめる品でも見るような目だった。
「陛下は、もう少し礼を心得ておられたが」
回廊のどこかで、足音が一つだけ途切れた。
父王の冠が下がっていく光景と、同じ書状に並んでいた麦の量、荷車の数、連れていかれた女たちの名が、ひと続きに胸へ戻ってくる。
言い返す言葉なら、いくつも浮かんだ。
だが、この男は返事を求めていない。小国の王女が腹を立て、子供らしく噛みつくところか、父と同じ高さまで頭を下げるところを見たいだけだ。どちらを選んでも、最後に笑うのは向こうだった。
レティシアは教本を抱く腕へ力を込め、喉まで出かかった言葉を本の角ごと胸へ押し戻した。
使者の口元が、わずかに持ち上がる。
「小さな国の姫君には、身の丈というものがまだ難しいらしい」
それだけ残し、男は脇を通り過ぎた。三人の従者が続き、硬い靴音が明るい床を順に踏みつけながら遠ざかっていく。
侍女がようやく顔を上げた時には、レティシアはもう歩き出していた。
追いつくには少し速く、走っていると言うには遅い。抱えた教本の角が腕へ食い込んでも、歩幅を緩める気にはなれなかった。
*
学習室の扉を押し開けると、窓から入る風が大陸全図の端を揺らしていた。
大きな机いっぱいに地図が広げられ、国ごとに色の違う木の駒が並んでいる。冷めかけた茶の横には、焼き菓子が三つ。教師はすでに席へ着き、レティシアが腕へ食い込ませている教本の角を一度見ただけで、回廊のことは尋ねなかった。
「ずいぶん早足でしたな」
「廊下が長かっただけじゃ」
二冊を机へ置くと、背表紙がずれたまま重なった。
椅子へ腰を下ろしたものの、十歳の身体では座面が深く、白い靴は床へ届かない。右へ一度、左へ二度と足を揺らす。先ほど蹴らずに済ませた使者の靴が、その分までまだ足先に残っているようだった。
教師は何も言わず、大陸中央へ黒い駒を置いた。
その周囲へ、鉱山を示す小石、穀倉地帯の札、東の港、街道を表す細長い木片を加えていく。黒い駒の隣だけがみるみる埋まり、国というより、ひとつの大きな町のようになった。
大陸の端に置かれた自国の駒のそばには、何もない。
レティシアは皿から焼き菓子を一つ取り、自国の隣へ置いた。
「これで二つじゃ」
教師は地図に突然増えた丸い領土を眺めた。
「菓子は国土へ数えません」
「麦と砂糖でできておる。立派な産物じゃ」
「間もなく殿下のお腹へ消える産物でもあります」
反論の代わりに焼き菓子を口へ放り込み、噛み砕いて飲み込んだ。
「消えたぞ」
「予想どおりです」
教師は残る二つを載せた皿を、地図の向こう側へ移した。
レティシアが身を乗り出すと、今度は机の下から足台が引き出され、白い靴の下へ置かれる。頼むより先に出してくるくせに、最初から用意されていたためしはない。届かないことを自分で確かめるところまで、教育の一部に含まれているらしい。
「今は大陸最大の帝国について学んでおるのじゃぞ。なぜ、そこでわたくしの足台が出てくる」
「国を立て直す前に、まず殿下の足場を整えませんと」
足台へ靴を乗せると、視線が少し高くなり、遠ざけられた焼き菓子にも近づいた。
「……今のは、うまいことを言ったつもりか?」
教師は答えず、ずれていた教本を机の端へ揃えてから一冊を開いた。
「教育です」
「先生は、教育の名を借りれば何を言っても許されると思っておるな」
「殿下ほど自由には申しておりません」
開かれた頁を指で押さえ、教師は黒い駒の周囲へ視線を戻した。
「帝国の強さは、領土の広さや兵の多さだけではありません。鉱山で採れた鉄は街道を通って工房へ運ばれ、穀倉地帯の麦は倉へ集まり、港から別の土地へ送られます」
指が鉱山から道をたどり、倉を経て港へ移る。
「離れた場所にあるものが、必要な時に必要な場所へ届く。そうして初めて、兵の数も、倉の麦も、国境まで続く道も、一つの国の力になります」
回廊に残っていた靴音が、別の意味を持って耳の奥へ戻ってきた。
金糸の紋章も、書状箱を抱えた従者も、誰もが先に道を空けたことも、あの使者一人の力ではない。背後にある国の兵、倉、街道、そのすべてが男と一緒に回廊を歩いていた。
あの靴を蹴り飛ばしたところで、道も倉も消えない。
父が頭を下げた相手は、目の前の一人だけではなかったのだ。
「それらは、話し合いの席までついてきます」
教師の言葉が、レティシアの考えへ静かに重なった。
伸びかけていた手を焼き菓子から引き、代わりに筆を取る。
教本には、先の国境交渉について、短い一文が記されていた。
『自国は、賢明な譲歩によって戦を回避した』
写そうとした筆先から墨が一滴落ち、紙の上で黒く広がった。
「賢明とは、誰にとってじゃ」
教師はすぐには答えず、染みの隣へ置かれた筆を見た。
「その時の自国にとってです。交渉が決裂すれば、戦になる可能性がありました。いくつかの権益を渡すことで、土地と、そこに暮らす者の命を守った」
――陛下は、もう少し礼を心得ておられたが。
先ほどの声が、教本の一文へ入り込んでくる。
「正しい判断であったのか」
「少なくとも、何も考えずに選ばれたものではありません」
「じゃが、好きに選べたわけでもない」
窓から入った風が、地図の端をもう一度持ち上げた。レティシアは片手で紙を押さえる。黒い駒の影が、その手の甲へかかった。
教師は、すぐに否定しなかった。
「ええ。断った後を支える力が、足りなかったのでしょう」
鉱山、倉、港、街道。
一つずつは別のものでも、最後には黒い駒の力へ戻っていく。こちらには、断るための言葉だけではなく、その言葉を支えるものが足りなかった。
レティシアはしばらく地図を見たあと、教本から顔を上げた。
「先生。国の差が、いつ、どこでついたのかも記録に残っておるのか」
教師の指が頁から離れる。
「結果なら残っています。どこに何人が暮らし、どれだけ作り、何を納めたか。ですが、何が最初の原因だったのかまで、すべて記されているとは限りません」
「ならば、結果からたどればよい」
机の端には、今日の授業で使う予定だった帳面が積まれている。
「何から調べますか」
「人じゃ。国を支えるのが人なら、まず、どこに残り、どこから消えたかを見る」
教師は積み重なった帳面の一番下へ手を差し入れ、分厚い一冊を引き抜いた。革の表紙には『国内人口記録』と記されている。
机へ置かれた拍子に、表紙の上の薄い埃が午後の光へほどけた。
*
人口記録には、村の名と、五年前、三年前、現在の人数が並んでいた。
レティシアは足台へ靴を置いたまま身を乗り出し、上から順に数字を追った。前後の差を余白へ書き込むたび、指先に墨がつく。教師は計算へ口を挟まず、帳面が閉じないよう頁を押さえていた。
増えている村は、一つもない。
五年をかけて少しずつ減った村もあれば、三年前から急に崩れた村もある。十人、二十人という差で済むところもあれば、ひとつの家族では埋まらないほど人が消えているところもあった。
同じ計算を何度も繰り返し、ようやくレティシアの指が止まる。
「先生、ここじゃ」
教師が椅子を寄せた。
「どこも減っておる。じゃが、この村だけ落ち方が違う」
指先にあったのは、リンデという名だった。
五年前の数字と現在の数字をもう一度見比べ、前後の頁も開いて記載漏れがないか確かめる。それでも、数字は変わらない。
「リンデ村ですな。ここ五年で、国内でもっとも人口が減っています」
「なぜじゃ」
答えを探して余白へ目を移したが、そこには何もない。
村の名、年、人数。
人が減ったという結果だけがあり、理由を書く欄そのものが作られていなかった。
「別の記録に残っているかもしれません」
「探すぞ」
冷めた茶へ手をつける間もなく、次の帳面が開かれた。
収穫量。納められた税。配給された麦。街道の修繕記録。
帳面を替えるたびにリンデの名は見つかった。
人が減るにつれて収穫量も落ちている。だが、人が去ったから作れなくなったのか、作れなくなったから人が去ったのか、その順番までは分からない。税も配給も村全体の数字しか残しておらず、誰が最初に苦しくなり、誰が最初に家を捨てたのかは書かれていなかった。
街道の修繕が止まった年も分かる。
だが、それが暮らしに何を起こしたのかは、どこにもない。
数字は間違っていなかった。
ただ、尋ねられていないことには答えられず、同じ場所へ整然と並んだまま黙っている。
「書かれておらぬな」
「はい。残っている記録から分かるのは、人口が減り、収穫が落ち、税と配給がこう動いたという結果までです」
教師は最後の報告書を閉じた。
「最初に何が起きたのか、それによって誰が何を失ったのかを答える記録はありません」
いつの間にか窓から差す光は傾き、開いた人口記録を斜めに横切っていた。
国内でもっとも人の減った村でさえ、地図の上では指先で隠れるほど小さい。帳面の中へ理由がないなら、理由のある場所まで行くしかない。
「何をお考えですか」
「誕生日の贈り物じゃ」
教師は人口記録と地図を見比べた。
「リンデを、ですか」
「村そのものをもらってどうする。見に行く許可じゃ」
「それは失礼いたしました」
口元をわずかに緩めながら、教師は人口記録を閉じ、ほかの帳面と分けて地図の脇へ置いた。
レティシアが椅子から降りようとすると、足台が先に少しだけ前へ押し出される。今度は文句を言わず、白い靴を載せて床へ下りた。
皿には、焼き菓子が二つ残っている。
「その菓子も、誕生日の贈り物に含めますか」
「これは考えるための分じゃ」
焼き菓子を取って口へ入れ、扉へ向かう。
取っ手へ手をかけたところで、一度だけ振り返った。
大陸の中央では、黒い駒の周りを鉱山と倉と港と道が埋めている。その端にあるリンデの文字は、相変わらず指先で隠せるほど小さかった。
けれど、その名はもう、紙の中だけには収まっていなかった。




