1話 始まり
九歳のレティシアが見上げていた冠は、父王が腰を折るにつれて下がり、とうとう彼女の目と同じ高さで止まった。
深紅の絨毯の先で頭を垂れているのは、この国の王である。だが、向かいに並ぶ隣国の使者たちは誰一人として腰を折らず、先頭の男など礼を返すことさえしなかった。父のつむじを見下ろしたまま、受け取った書状をゆっくりと開いていく。
父の背後には玉座がある。本来なら、冠もあの高みにあるはずだった。
「麦を積んだ荷車は、明朝には国境を越えます。宿場ごとに馬を替えれば、五日ほどで王都へ届くでしょう」
丁寧な言葉を並べてはいるが、男の声には相手を敬う響きがない。父王の右手が、正装の脇で固く握られていた。
そんな麦はいらぬと言えばよい。頭を上げて、今すぐ帰れと命じればよい。レティシアには、どちらも難しいことには思えなかった。それなのに父は顔を上げず、広間を埋める大人たちも息を潜めたまま、誰一人として声を発しない。
使者の指が書状をたどり、次の行で止まった。
「代わりに、こちらの者たちは予定どおりお預かりします」
壁際から、重なった衣擦れの音がした。
厚い外套と革靴に身を包んだ若い女たちが、小さな荷物を足元へ置いて並んでいる。旅支度ではあっても、祝いのために国を出る者の顔ではない。一人は荷袋の紐を両手で握り込み、血の気を失った指先だけがひどく白く見えた。
父王は使者の前から動かず、女たちも顔を上げない。
何か言わなければならないと思った。けれど、何を言えば止められるのか分からないまま、レティシアの指は胸元に飾られた白百合へ食い込んでいた。銀糸で形作られた花弁が掌の中で折れ重なり、硬い縁が皮膚を押す。
使者の持つ書状には、麦の量と、そのために必要な荷車の数が並んでいた。さらに下には、これから連れていかれる女たちの名が記されている。
麦がいくつ、荷車が何台、女が何人。
どれも同じ紙の上で、他国へ渡されるものとして数えられていた。
「相違ない」
父王の声が、広間の静けさへ沈んだ。
違う、と言ってほしかった。せめて顔を上げてほしかった。父上と呼びかければ、まだ何かが変わるような気もした。だが、喉の奥に詰まったものは息にさえならず、レティシアは握り潰した白百合を離すことしかできなかった。
女たちの列が動き出す。
最後尾にいた一人が扉の前で振り返り、その視線がレティシアのものと重なった。考えるより先に白い靴が絨毯へ出る。あと一歩踏み出せば、あの手を掴める。そう思った時には、女はもう顔を伏せ、重い扉の向こうへ消えていた。
扉が閉じ、金具の噛み合う音が広間の奥まで届く。
レティシアはようやく掌を開いた。
銀糸の白百合は深く歪み、いくら指で撫でても、もう元の形には戻らなかった。
*
一年後。レティシアが十歳になった朝。
前の晩、読みかけの書物を閉じようとしては「あと一頁だけ」とめくり、その一頁を読み終えるたびに「あと一段だけ」と続けた結果、目を覚ました時には春の日差しが部屋の奥まで入り込んでいた。床に置いた木剣の影まで短くなっている。
いつもなら、とっくに侍女が扉を叩いている時刻だった。しかし廊下から聞こえてくるのは、器や花台を運ぶ足音ばかりで、誰もこの部屋へ入ってくる気配がない。誕生日の支度へ人手を取られ、十歳になった本人を起こすことだけ忘れたらしい。
祝う順序としては、かなり怪しい。
レティシアは寝台から飛び降りると、朝食にも髪にも構わず、木剣を掴んで部屋を出た。薄青の稽古着を留める濃紺の帯と、襟元の小さな銀の徽章を除けば、王女らしいところはほとんどない。結んでいない白銀の髪が背中で暴れ、走るたびに白い靴が石畳を忙しく叩いた。
本来、白い靴は城内を駆け回るためのものではない。だが、歩いていたのでは、その間にも兄は一本多く剣を振る。昨日まで一度も勝てていないのに、これ以上差を広げられてたまるものか。
「遅れる、遅れるっ!」
回廊の角を勢いよく曲がったところで、両腕を広げた侍女が行く手を塞いだ。
「レティシア様!」
「おっと!」
止まりきれずに靴底が滑った。壁へ肩から突っ込む寸前で身体をひねり、木剣だけは胸へ抱え込む。自分が転ぶより、剣先を石へぶつける方が惜しかった。
侍女は胸元を押さえたまま大きく息をつき、次いで、肩から顔へ散った髪を見て眉を寄せた。
「ですから、せめて髪だけでも結わせてくださいと申し上げましたのに」
「戦う前に髪を結ぶ時間があるなら、そのぶん一本でも多く打ち込めるじゃろ」
「昨日は、その一本さえ当たっておりませんが」
昨日の自分が負けたことは認める。だが、それを理由に今日まで負けた扱いをされるのは納得できない。
「それは昨日のわたくしじゃ。今日のわたくしまで負けたことにするでない」
「昨日のレティシア様も、まったく同じことを仰っていました」
「今日は当てる」
侍女がもう一度髪へ手を伸ばすより早く、その腕の下をくぐり抜けた。背後から名を呼ばれたが、振り返っている暇はない。
城の奥から、木剣同士がぶつかる乾いた音が届いた。一度、わずかな間を置いてもう一度。二度目の音には砂を踏み乱す足音が重なり、すぐに止む。誰かが兄の間合いへ踏み込み、何もできないまま追い返されたのだろう。
あの音が続いている限り、兄は先へ進んでいる。眠っていた時間も、侍女に捕まっていた時間も、レティシアだけが置いていかれている。
「兄さまー!」
訓練場の門を押し開けた瞬間、朝日が砂地へ流れ込んだ。
中央で木剣が大きな弧を描き、その一振りを受けた屈強な騎士が、砂煙を巻き上げながら地面を転がっていく。木剣を取り落とした男は、仰向けのまま一度息を吐いてから、どうにか上体を起こした。
「参りました……」
その前に立っていたのは、第一王子レオンだった。
濃紺の稽古着は砂と汗で汚れている。だが、肩で息をする騎士が訓練場のあちこちへ足跡を残しているのに対し、レオンの周囲に刻まれているのは、狭い範囲のわずかな踏み跡だけだった。
王国最強と呼ばれる男は、木剣を肩へ載せたまま、倒した相手へ短く告げる。
「踏み込みが浅い。相手の剣ではなく、肩を見ろ」
「はい!」
教えられた騎士だけでなく、壁際で順番を待っていた者たちまで姿勢を正した。
その中の若い騎士が、門口で息を切らすレティシアに気づき、にやりと笑う。
「ようやくお見えになりましたな」
レオンは顔だけをそちらへ向けた。
「何の話だ」
「今朝だけで三度、門をご覧になっていたでしょう」
「風向きを見ていた」
「三度とも、姫様のお部屋がある方角でしたが」
レオンの肩から、木剣がゆっくり下りた。
「次はお前だ」
「余計なことを申しました」
若い騎士は即座に笑みを消し、逃げるように木剣へ手を伸ばした。その横を通り抜け、レティシアは砂地の中央へ進む。
「兄さま、今日こそ勝つ!」
「待て」
「なぜじゃ!」
今から戦うと言っているのに、レオンは自分の木剣を地面へ置いた。妹の前へ膝をつき、手首へ巻いていた白い紐をほどくと、走って乱れた髪を手早く集めていく。
「なぜ兄さまが、わたくしの髪紐を持っておる」
「昨日、落とした」
「一昨日も同じことを申しておったぞ」
返事はなかった。
髪を引っ張らず、それでいて木剣を振ってもほどけにくい位置へ結び目を作ると、レオンは何事もなかったように立ち上がり、地面の木剣を拾った。
「構えろ」
言われるまでもない。
レティシアは砂を蹴った。昨日は正面から飛び込み、剣ごと弾き返された。ならば今日は、同じ手を使わなければよい。
右へ踏み込むと見せかけて左へ回り、最初の一撃を流されても動きを止めない。流された勢いを腰の回転へつなげ、そのまま二撃目をレオンの脇腹へ差し込む。
届く。
剣先が稽古着へ触れる寸前、レオンが半歩だけ退いた。つい先ほどまでそこにあった脇腹が、剣の向こうから消える。
逃がすまいと踏み込んだ左足が、先ほど騎士の身体でえぐれた砂の窪みへ入った。靴底から支えが抜け、勢いのついた上半身だけが前へ投げ出される。
地面へ顔を打ちつけるより早く、襟元を掴まれた。
身体が宙で止まり、次いで足から砂の上へ降ろされる。レオンはすぐには手を離さず、レティシアが自分で身体を支えられると確かめてから、ようやく指をほどいた。
「……兄さま」
呼びかけると、レオンが何事もなかったような顔でこちらを見る。
「今、わたくしを持ち上げたな」
「地面が近かった」
「地面はいつも下にある!」
訓練場に笑い声が弾けた。
レオンがゆっくり壁際へ視線を向ける。
「笑った者は、午後の鍛錬を二倍にする」
笑いは一瞬で消えた。先ほど余計なことを言った若い騎士だけが口元を手で覆い、最初から笑っていなかったような顔を作っている。
「兄さま。それは権力の私物化ではないか?」
「妹の尊厳を守った」
レティシアは黙って兄を睨んだ。レオンは弁解もせず、ただ立ち上がるための手を差し出してくる。
その手には頼らず、自分で立ち上がって膝の砂を払った。襟を掴まれ、宙吊りにまでされたというのに、髪の結び目だけは少しも緩んでいない。それがまた腹立たしい。
水桶のそばでは、先ほどレオンに倒された騎士が、まだ苦しそうに肩を上下させていた。
「姫様、どうかお気を落とされませんよう。相手が悪うございます。殿下は王国最強ですから」
本人が頭から砂をかぶったまま言うものだから、慰めとしては妙に説得力があった。
王国最強。
その呼び名を胸の中で繰り返しながら、レティシアはあらためて訓練場を見渡した。
砂地は平らに均され、踏めば怪我をするような石は一つ残らず拾われている。武器棚には替えの木剣と革紐が並び、水桶には朝から十分な水が満たされていた。壁際の老騎士は、若い騎士の踵が浮くたびに杖の先で砂を叩き、崩れた構えをその場で直している。一度負けても、すぐに次の一本へ進める。
剣があり、場所があり、間違えれば教える者がいる。そうして毎日、同じことを何度でも繰り返せるように、ここでは最初からすべてが整えられていた。
城門の方角から鐘が鳴る。その音を合図に、訓練場の空気が変わった。若い騎士は木剣を棚へ戻して槍を取り、別の騎士は巡回用の外套を羽織る。先ほど倒された男も厩舎から名を呼ばれると、水を飲みきることすらせずに駆け出した。
置き去りにされた木杯が揺れ、半分ほど残っていた水が縁から砂へこぼれていく。木剣のぶつかる音は一つずつ消え、代わりに武器棚へ戻された剣が増えていった。
同じ訓練場にいても、同じだけ剣を振れるわけではない。
レオンは最後の水を飲み終えると、騎士たちのいなくなった砂地の中央へ戻り、木剣を構えた。けれど振り下ろす前に、レティシアへ顔を向ける。
「誕生日の贈り物は、もう決めたのか」
「今、考え中じゃ」
「そうか」
まだ決めていないことを咎めるでも、早く選べと急かすでもなく、レオンはそれだけ言って木剣を持ち直した。
鐘が鳴って皆がそれぞれの役目へ戻ったあとも、訓練場には木剣が風を切る音だけが残っていた。
半歩進み、振り下ろす。戻って、また振る。
何度繰り返しても、兄の剣先は同じ高さで止まる。
レティシアはしばらく、それを見ていた。
十歳になった朝は、まだ終わっていなかった。




