10話 三冊とも正しい
畑から戻ると、役場の長卓は紙に占領されていた。
作付割当帳。納入帳。支給帳。
作付割当帳には、区画ごとの割り当てと収穫実績が併記されている。
昨日、畑で見た働きの先を追うため、作った量、納めた量、各家へ戻された量を同じ年、同じ家で比べられるよう頼んでおいた記録だった。
ただし、卓上にあるのは三冊ではない。
三種類の帳簿に、それぞれ前年分と付記、補助記録が加わり、革表紙の山は椅子へ座ったレティシアの胸元まで届いている。綴じ紐の擦り切れ方も、紙の色も揃っていなかった。作付割当帳には畑で開かれたらしい土の跡が多く、納入帳の端には指の形をした汚れが残る。支給帳だけは同じ頁の角が細かく折れ、何度もそこを開き直したことが分かった。
「三冊と聞いておったぞ」
帳簿を運び終えた村長が答える。
「三種です」
「ずいぶん大きな違いではないか。すでに嫌な予感がするぞ」
「分類としては正確です」
「正確じゃが、親切ではないのう」
村長は言い返さなかった。
最上段の帳簿が傾いていないかだけを確かめると、深く頭を下げることもなく役場を出ていく。扉が閉まったあとに残ったのは、乾いた墨と古い革の匂い、それに棚の隙間まで押し込まれた申請書の束だった。
この部屋では、村の畑も、人の一年も、紙へ収まる大きさまで折り畳まれている。
レティシアは椅子を長卓へ寄せた。
「年と区画を揃えよ。家族の人数と、働ける者が何人おるかもじゃ」
村全体の合計へ戻してしまえば、昨日見た大きな実も、杭の前で止まった鍬も消える。追うべきなのは、同じ手が働いた前と後だった。
エルンは作付割当帳を左、納入帳を中央、支給帳を右へ並べ、前年の帳簿と付記をすぐ引ける位置へ置いた。頁を一つずつ開き、年と区画番号を合わせる。離れていた記録が長卓の上で横一列に並ぶと、ようやく一つの家の一年が見えるようになった。
最初に比べた二軒は、家族の人数も、働ける者の数もほとんど変わらなかった。
一方は、割り当てを大きく上回る量を作っている。納入帳にも、その分だけ多く納めたと記されていた。
もう一方は、ほぼ割り当てどおりだった。
作付割当帳と納入帳では、二軒の間に明らかな差がある。
ところが支給帳へ移ると、その差はほとんど消えた。
戻された品目も量もほぼ同じで、多く作った家だけ別に何かを受け取った形跡はない。
レティシアは三冊の年号を見比べた。
「年を間違えておらぬか」
「同じ年です」
「家族の人数は」
「同じです」
「担っている役目に違いは」
「比較へ影響するほどの差はございません」
「臨時の支給が、別の頁にあるのではないか」
エルンが付記を開き、指先で行を追う。
「ありません」
「道具の交換は」
「記録なしです」
「翌年の負担を軽くした例は」
「ございません」
問いのたびに別の頁が開かれた。
それでも答えは変わらない。
レティシアは最初の家へ戻り、別の年を追った。次に、別の区画でも同じ比較をした。
結果は同じだった。
多く作った者は、多く納めている。
本人へ戻る量は、ほとんど変わらない。
そのうえ翌年には、多く作った区画の割り当てだけが引き上げられていた。
前年の実績は、暮らしを良くする根拠には使われず、次に求める量を増やす根拠として残っている。
頁をめくる乾いた音が、静かな役場に続いた。
どこかに見落とした支給があってほしかった。
付記の端にでも、よく働いた者へ返された何かが残っていてほしかった。一枚めくれば、畑で手をかけた分だけ暮らしも良くなったと分かる記録が出てきてほしかった。
だが、どの頁も逃げ道にはならない。
三冊は別々の者に書かれ、別々の目的で使われている。それでも互いの数字を否定せず、同じ結果へつながっていた。
「余分に納めた物は、どこへ行く」
エルンは納入後の記録をたどり、別の頁を開いた。
「冬の備蓄、不作地への補填、病人や働けない者への支給です。輸送が止まった場合に備える予備にも回されています」
備蓄へ移した量、村の外へ送った日、支給先の区分が、日付とともに並んでいる。
余分に作られた物は、ただ消えたのではない。
別の誰かの冬へ回り、病床の椀へ入り、道が塞がった時の食料として残されていた。
頁を押さえていたレティシアの指から、少しだけ力が抜けた。
「これで助かった者もおるのじゃな」
「はい。集めておかなければ、不作や災害が起きた土地から先に食料が尽きます」
入った量だけではなく、出された日と行き先まで時間をかけて確かめる。
多く作った家だけのものにすればよい――そう言って終わらせることはできなかった。集める仕組みをなくせば、いま開いている頁に名を残した者から先に困る。
「多く取れた家だけのものにせよとは申さぬ」
レティシアは備蓄の頁を押さえた。
「皆が飢えぬための備えは要る。病人や、働けぬ者へ回す分もじゃ」
一度、はっきりと言葉にする。
「これは守る」
備蓄の帳簿を開いたまま、その横へ支給帳を引き寄せた。
「では、多く作った時に本人へ戻るものは増えぬとして、割り当てへ届かなかった時はどうなる」
エルンは規定の頁を確かめた。支給帳だけでは足りず、付記の束から細い一冊を抜き出す。
「未達成が続けば、本人と家族への支給が見直される場合があります。労働不能、あるいは職務不履行として、登録や生活基盤へ影響することもございます」
「病や天候で届かなかった場合と、仕事を放り出した場合は分けられておるのか」
「この三種類の帳簿だけでは判断できません」
「では、別の記録があるか確かめよ。なければ、区別できぬことそのものを残せ」
「承知しました」
レティシアは支給帳から顔を上げた。
「今、確かなことだけを申せ」
エルンは頁を押さえたまま答える。
「多く作っても、本人への個別加算は原則としてありません。一方、未達成と判断された場合は、本人と家族への支給に影響し得ます」
椅子の脚が床を擦った。
レティシアは立ち上がり、長卓の縁を両手でつかむ。
「もう一度申せ」
エルンは目をそらさなかった。
「成果を上げたことによる個別の加算はありません。しかし不足については、家単位の支給へ反映される場合があります」
掌のすぐ下に、多く作った家の行と、翌年に増やされた割り当てが並んでいる。
「実りは、皆を守るために集める」
声がわずかに震えた。
「それは分かる。備蓄が要ることも、病人へ回す物が要ることもじゃ」
一度、息を吸う。
それでも、喉の奥へ押し込んだ怒りは収まらなかった。
「なのに、足りぬ時だけ、その家へ返すのか」
三冊を順に指す。
「多く作れば、余った分まで納めさせる。翌年には、それだけ作れるのだと割り当てを増やす。それでも本人の暮らしは変えぬ。だが、届かなければ本人だけでなく家族から削るのか!」
声が役場の壁へ返り、扉の外で誰かの足音が止まった。
「これで、なぜ余分に働かぬと問うのじゃ。なぜ畑を広げぬ。なぜ道具を長く使えるように直さぬ。なぜ杭の先へ手を伸ばさぬと!」
畑で見たものが、三冊の上で一本につながった。
杭の前で止まった鍬。
土に塞がれた水路。
縄を巻かれ、今日だけ使える形へ戻された農具。
「多く作った者ほど、次の割り当てが重くなる。失敗すれば、自分だけでなく家族へ返ってくる」
唇を噛んだ。
それでも、顔は伏せなかった。
「この帳簿が教えておるのは、よく働けではない」
支給帳へ視線を落とす。
「目立つな。失敗するな。それだけじゃ」
エルンの筆は動かなかった。
その沈黙の中で、レティシアは三冊の表紙へ目を移した。
作付割当帳に、王家の印。
納入帳にも。
支給帳にも。
どの印も欠けず、歪まず、同じ形で正しく押されている。
王の間で、父に墨を拭われた指を、その一つへ置いた。
リンデへ着いた日、住民たちは王家の馬車を見て戸を閉じた。
「わたくしは昨日、この村へ来た」
言葉は、自分へ聞かせるように小さくなった。
「じゃが、王家はずっと前から、帳簿の姿でここへ来ておったのじゃな」
エルンは答えなかった。
作付けは、命令どおり。
納入も、命令どおり。
支給も、規定どおり。
数字は合っている。少なくとも、ここまで見た記録には、誰かが作物を盗んだ跡も、村長が自分の都合で書き換えた形跡もない。
三冊は、一字も嘘をついていなかった。
「不正があったのではない」
レティシアは掌を長卓へ落とした。帳簿が小さく跳ね、重なっていた紙の端がずれる。
「壊れて、こうなったのでもない」
王家の印から目を離さない。
「正しく動いて、こうなったのじゃ!」
外から、土を打つ鍬の音が届いた。
一度。
間を置いて、もう一度。
役場の中で何が見つかったのかを知らないまま、村の仕事は昨日と同じ速さで続いている。
レティシアは、跳ねてずれた帳簿を見た。
怒りのまま三冊を閉じ、割り当ても納入も止めてしまえば、胸は少しだけ晴れるかもしれない。
だが、明日の畑は誰が決める。
備蓄へ集める物はどうなる。
この仕組みに守られている病人や、働けない者の食料まで宙に浮く。
レティシアは一冊ずつ持ち上げ、元の順番へ戻した。
「エルン。変える前の状態を残すぞ」
長卓の脇から白紙を引き寄せる。
「何を記録いたしますか」
「今、土地と作物は誰のものか。仕事を決めるのは誰か。多く働いた時に誰が得るか。不足した時に誰が払うか」
エルンの筆が動き始める。問いをそのまま見出しへ置き、答えを書き込む場所だけを先に作っていく。
「備蓄によって守られておる者もじゃ。未達成の理由が残されておるか。誰が職務不履行と決めるのか。例外があったなら、誰が何を根拠に認めたのか」
「記録そのものが存在しない場合は」
「ないことを残せ。分からぬものを、分かった形に整えるな」
「承知しました」
「同じ家を、年をまたいで追えるようにもせよ。多く作った翌年に何が変わったか。足りなかった翌年に、何を失ったか」
エルンが次の見出しを作り、ふと筆を止めた。
「改革案も記しますか」
「まだじゃ!」
鋭い声が飛び、エルンの手が止まった。
レティシア自身も、そこでようやく息を止める。
怒鳴りつけたかったのは目の前の書記官ではない。
それでも、声を向けた先はエルンだった。
長卓から手を離す。
「……そなたへ怒鳴るつもりではなかった」
「存じています」
「つもりではなくとも、そなたへ向けて怒鳴った。すまぬ」
エルンは返事の代わりに、水の入った杯をレティシアの前へ置いた。
水面が小さく揺れている。
「謝罪も記録しますか」
「するでない」
杯へ手を伸ばし、一度だけ考え直した。
「じゃが、忘れるな」
「承知しました」
一口飲むと、冷たい水が声を張った喉へ引っかからず落ちていった。
レティシアは備蓄の頁と、成果と支給を比べた頁を別々に開く。
「怒りに任せて制度を壊せば、今これに守られておる者から飢える。じゃが、守られておる者がいるからといって、削られておる者を見ぬことにもできぬ」
「では、まず現在の状態を固定します」
「うむ。守るものと、変えるものを分ける」
帳簿の間に置いた白紙へ目を落とす。
「怒りは、見落とさぬためには使える。じゃが、設計図にはならぬ」
エルンの筆先が、再び紙へ下りた。
「逃げ道のない記録にせよ。変えたあとで、昔はこうではなかったと都合よく語れぬようにな」
「承知しました」
窓の外では、農民たちが変わらぬ速さで鍬を振っている。
土を打つ音へ、役場を走る筆の音が重なった。
三冊の帳簿は、どれも正しかった。
だからこそ、その正しさが何を守り、何を奪ったのかを、一つずつ残さなければならない。
「このままにはせぬ」
レティシアは王家の印から目をそらさず、静かに続けた。
「じゃが、壊しただけにもせぬ」




