11話 狼の村
三冊の帳簿を閉じた直後、役場の扉が勢いよく開いた。
紙と古い革、乾きかけた墨の匂いが満ちていた部屋へ、湿った土と枯れ葉の匂いが流れ込む。山道の調査へ出ていた護衛隊長が、外套の裾へ葉をまとわせたまま長卓の前まで進んできた。革の胸当てには泥が乾かず残り、肩もまだ大きく上下している。
報告を聞くより先に、その姿が道の険しさを伝えていた。
「谷の奥に、小屋が集まっています。街道側には見張りがおり、火を使った跡も確認しました」
レティシアは椅子を離れた。
「案内せよ」
護衛隊長の眉が寄る。
「村外れの分かれ道までなら、安全を確保できます。そこへ山狼衆の者を呼び出して、話を――」
「呼び出さぬ。わたくしが行く」
長卓の向こうで、エルンが開いていた帳面へ筆を置いた。
「理由を伺っても?」
「分かれ道へ呼べば、山の者だけが暮らしを背にして下り、わたくしは護衛とリンデを背にして待つことになる」
村側から見れば中立の場所でも、山の者から見れば違う。家族も仲間も、逃げ道も見えない場所へ山の者だけを下ろし、王女は兵に守られたまま返事を待つ。
そこで得た言葉を、本心として持ち帰るつもりはなかった。
「初めから、こちらだけが安全じゃ」
「交渉の場としては、双方の拠点から離れた場所を選ぶ方が一般的です」
「一般的でも、今回はそれでは足りぬ。向こうだけを暮らしから切り離した場所で聞けば、また見えぬものが残る」
レティシアは閉じた三冊へ目を落とした。
作った量。納めた量。戻された量。
どれも正しく記されていた。それでも、畑で鍬を止めた者の気持ちは、三冊をつなぐまで見えなかった。
「村の者には、帳簿を見ただけで分かった顔をするなと申した」
指先が、三冊の革表紙を順になぞる。
「山の者だけを遠くから眺めて済ませるつもりはない」
エルンはすぐに筆を取り直さなかった。
「それが、理由のすべてですか」
レティシアは帳簿から目をそらした。
「……根城へ乗り込む王女の方が、格好よい」
「最後の一項は、公的な理由から除外します」
「なぜじゃ!」
「後世の統治判断へ、悪影響を及ぼすおそれがあります」
「格好よさも統治には必要じゃぞ」
護衛隊長が一つ咳払いをした。
レティシアも口を尖らせたまま、長卓へ広げられた略図へ向き直る。
隊長の指が、谷を見下ろす尾根と、そこから分かれる二本の道を示した。
「見張りは、この辺りです。正面から谷へ下りる道のほか、こちらの斜面を上がれば尾根へ戻れます」
「谷へ入りきらずとも退けるか」
「可能です。ただし、相手に見つかってから動くことになります」
レティシアは正面の道を指でたどった。
「忍び込まぬ。見張りに名を告げ、通すかどうかは向こうに選ばせる」
護衛隊長の顔を見上げる。
「こちらから武器を抜くな。断られれば戻る。囲まれても、逃げる者を追って斬るでない」
「攻撃された場合は」
「わたくしとエルンを連れて退け。戦うことより、生きて戻ることを優先せよ」
護衛隊長は略図とレティシアを見比べたあと、胸へ拳を当てた。
「承知しました」
*
山へ入ると、道はすぐに道らしさを失った。
村外れまで残っていた荷車の轍は木立の中で途切れ、その先では枝と根と石が、別々の高さから進路を塞いでいる。
前を行く護衛が踏んだ場所へ白い靴を置こうとしても、歩幅が足りない。レティシアは濃紺の裾を持ち上げ、一つの足跡を二歩に分けて追った。足元ばかり見ていれば前の護衛から遅れ、顔を上げれば張り出した枝が頬へ迫る。
最初は軽かった一行の足音も、斜面が急になるにつれて間が空いていった。王都で磨かれていた革靴には、早くも泥が筋になっている。
疲れた顔を見せるのは格好が悪いと思っていたのも、最初の斜面までだった。
「エルン」
「何でしょう」
「山とは、どこまでが山なのじゃ」
「頂上までかと」
「今すぐ定義を変えよ」
「地形は、規定の改訂に従いません」
大きな根をまたぎ、その向こうで一度息を整える。
後ろから続くエルンも、銀縁の眼鏡を直すより先に木の幹へ手をついていた。
「融通の利かぬ山じゃな!」
「山へ申し入れておきます」
「そなたが申すと、本当に書面を作りそうで嫌じゃ」
先頭を行く護衛が、片手を上げた。
冗談がそこで途切れる。
前後の護衛が距離を詰め、レティシアは指示された木陰へ身を寄せた。白い靴の先まで出さず、枝の隙間から斜面の下を見る。
木々が途切れた先に、屋根がいくつも重なっていた。
「この先です」
最初に目へ入ったのは、太い木の陰で弓を構える男だった。街道側を見張り、矢をすぐ取れる位置に立っている。その奥には、斜面へ押し込まれたような低い小屋が並び、細い煙が屋根の隙間から上がっていた。
「山狼衆の根城ですね」
エルンの声を聞きながら、レティシアは見張りの奥へ視線を移した。
二本の木の間では、洗った衣服が風に揺れている。水桶を抱えた女が斜面を上り、老人は割った薪を胸へ積み上げて運んでいた。
焚き火のそばでは、子供が鍋へ伸ばした手を大人に払われている。低い屋根の下には横たわる者がいて、その隣の女が濡らした布を額へ載せ替えていた。
見張りがいる。
弓も、刃もある。
その後ろで食事が作られ、衣服が洗われ、病人が看られている。老人も子供も、同じ谷で一日を送っていた。
「違う」
エルンが顔を向ける。
レティシアは、鍋のそばにいる子供から目を離さなかった。
「ここは村じゃ」
谷から上がった風が、干された袖を揺らす。
リンデでは、戸が外から来た者を拒んでいた。
ここでは、弓が道を塞いでいる。
その後ろに暮らしがあることは、同じだった。
エルンは革袋から帳面を取り出した。
「記録上の呼称を改めますか」
「消すでない」
レティシアは首を振った。
「山狼衆の拠点であることも、人が暮らす村であることも、どちらも事実じゃ」
片方を消せば、襲われたリンデの被害が薄くなる。
もう片方を消せば、谷にいる子供や病人まで、襲撃者という一語へ押し込まれる。
「両方、記します」
筆が紙を擦る音を聞いてから、レティシアは谷へ下りる道へ目を向けた。
護衛隊長が一歩前へ出る。
「ここから先へ進めば、必ず見つかります。相手の人数も分かりません」
「うむ」
「殿下」
「見つからぬために来たのではない」
レティシアは茂みを出た。
正面へ続く土の道へ、白い靴を置く。朝の光を受けた革は、土と木ばかりの山中で隠しようもなく目立った。
「見つかる道を行くぞ」
一行が斜面を半ばまで下りたところで、木陰の男がこちらを捉えた。
「止まれ!」
レティシアは足を止める。
護衛たちも約束どおり剣を抜かず、ただ彼女と相手の間へ入れる位置へ動いた。
別の見張りが小屋の方へ短い合図を送る。
戸が開き、人影が一つ、二つと増えていった。鍋にはすぐ蓋が置かれ、薪を抱えていた老人は壁際へ身を寄せる。子供を背へ隠す女の横で、弓へ矢をつがえる者もいた。
「何者だ!」
レティシアは旅上着の内側から王家の紋章を取り出し、胸の前へ掲げた。
「レティシア・アルヴェイン。ルミナ王家の者じゃ」
王都なら扉を開き、人をひざまずかせる印だった。
谷では、小屋の戸口からも鍋のそばからも視線が集まり、弓が一段高く持ち上がる。
「王女が、こんな所に何の用だ」
片側だけ短い外套を着た男が前へ出た。袖口には、刃で裂かれた跡がそのまま残っている。
「そなたらの頭と話をしに来た」
「捕らえに来たのではなく?」
「捕らえるつもりなら、王家の紋章を掲げて谷の真ん中には立たぬ」
男の目が、レティシアの後ろへ移った。
護衛たちは剣の柄へ手を置いていても、誰一人として抜いていない。レティシアとの間へ踏み込める距離を保ち、相手の次の動きだけを見ていた。
男の視線が再び戻る。
レティシアは掲げていた紋章を下ろした。
「王都の報告書では、そなたらは『山狼衆』という一語で片づく。村を襲い、荷を奪い、家を壊す者どもじゃとな」
張り詰めた弦が、かすかに軋んだ。
「じゃが、その一語だけを読んで、分かった顔をするためにここまで来たのではない」
鍋のそばでは、子供が大人の上着を握っている。
低い屋根の下では、交渉が始まっても病人の額の布が取り替えられていた。水桶を置いた女は、足元へ水がこぼれていることにも気づかず、こちらを見ている。
「何を奪ったかは、帳簿にも書ける」
レティシアは谷にいる者たちを順に見た。
「なぜ奪う側へ回ったのかは、本人の口から聞かねば分からぬ」
弓も、刃も下りていない。
それでも、今すぐ追い返せという声は上がらなかった。
「話のできる者を呼べ」
一歩も進まず、その場で待つ。
「わたくしは、そなたらを一行ではなく、人として見に来た」
小屋の奥で、重い足音がした。
集まっていた人々が、誰に言われるでもなく左右へ分かれる。その間から、大柄な男が歩いてきた。
粗い上着の下で厚い肩が張り、むき出しの腕には古い傷が何本も走っている。腰には大ぶりな刃があり、柄に巻かれた革だけが、何度も握られて色を変えていた。
誰かが名を告げる前に、人々が進路を空けた。
その動きだけで、この谷で誰の言葉が通るのか分かる。
「武器を下げろ」
低い命令に、見張りの弓がわずかに下がった。
ただし、矢をつがえた指は弦へ残ったままだった。
大男は、泥のついた白い靴から、紋章を握る手まで順に見た。
「王家のガキが、何をしにここまで来た」
レティシアは男だけを見ず、その肩越しへ目を向けた。
干された衣服。
小屋から上がる細い煙。
鍋のそばで、大人の服を握る子供。
弓に囲まれた交渉が始まっても、病人の額の布はまた濡らされている。
「お主らの根城を見に来た」
大男の眉が動く。
「じゃが、見つかったのは村じゃった」
レティシアは一歩だけ距離を詰めた。護衛たちも、手が届く位置を崩さず同じだけ進む。
「ゆえに、村の真ん中で話す」
大男をまっすぐ見上げた。
「次の襲撃を止められる者は、お主か」
「俺が首を振れば、誰も山を下りねえ」
周囲から異論は出なかった。
谷を渡る風が、焚き火の煙を二人の間へ流す。
レティシアは短くうなずいた。
「ならば、話は早い」
煙の向こうで、大男の目が細くなる。
「村を襲うな」




