12話 鍬を奪ったもの、剣を向けたもの
「山で飢えて死ねと言いに、わざわざ登ってきたのか」
頭領の低い笑いが焚き火を越えると、鍋のそばで動いていた手が止まり、下げられた弓にも、弦から離れない指だけが残った。
「死ねとは申しておらぬ」
「同じことだ。襲わなければ、先に子供が飢える」
男はレティシアの後ろへ目をやり、護衛隊長を越えたところでエルンへ視線を止めた。
「大人を出せ。こっちは子供の遊びに付き合ってる暇はねえ」
「こちらの決定を行うのは、レティシア殿下です」
エルンは王女を大きく見せる言葉も、子供ではないという弁明も足さず、事実だけを返した。
焚き火のそばから、小さな声が上がる。
「王女って、もっと大きいんじゃないの」
母親らしい女が慌てて子供の口を塞いだ。
「これから大きくなる予定じゃ」
「完了時期は未定です」
「今は味方をせよ」
「事実関係を補足しただけです」
誰かが吹き出しかけた息を咳払いへ変えたが、頭領の顔に笑みは戻らなかった。
レティシアは男へ向き直る。
「わたくしが子供かどうかは、次の襲撃を止める権限と関係があるか。お主が行くなと言えば、ここにいる者は山を下りぬのであろう」
「そうだ」
「ならば、話す相手は合っておる」
男の視線は、もう護衛隊長にもエルンにも戻らなかった。
「名を聞いておらぬ」
「名を教えれば、腹が膨れるのか」
「膨れぬ。じゃが、誰と話したかは記録できる」
「なら、記録するだけのものを持ってきてから聞け」
名を渡す相手ですらない。そう突きつけられると、胸元に収めた王家の紋章が少し重くなった。
「分かった。今は頭領と呼ぶ」
「好きにしろ」
薪が崩れ、舞い上がった火の粉が二人の間を流れていく。
頭領の足元には、刃の欠けた短剣と泥の乾いた籠があり、小屋の壁には柄の折れた鍬が立てかけられていた。斜面の隅には石を除き、枝で土を留めた小さな畝もある。
大きな手に幾重にも残る古いまめは、剣だけを握ってきた者のものではなかった。
「その手は、昔から剣だけを握ってきた手ではないな」
頭領の薄い笑みが消える。
「だったら何だ」
「リンデの帳簿を見た。多く作った家は多く納め、戻る量はほとんど増えぬ。翌年には褒美ではなく、割り当てだけが増えておった。作った物を売ることも、仕事を変えることもできぬ」
「分かったような口を利くな」
「すべて分かったとは申さぬ。帳簿にあるのは、作った量と、納めた量と、戻された量だけじゃ。腹が減った夜に何を話したかも、子供がどんな顔で眠ったかも書いておらぬ」
「なら、黙ってろ」
「黙れば、帳簿の数字だけが真実になる」
底が見えそうな鍋から、薄い湯気が上がっていた。煮える匂いは、レティシアの立つ場所まで届いてこない。
「働いても、生きる道へつながらぬ仕組みだった。それは認める」
「だったら分かるだろうが。俺たちには、ほかに道がなかった」
「追い詰められておったことは認める。じゃが、ほかに道がなかったと言えば、村を襲った責任まで消えるのか」
「山には食うものがなかった!」
怒声に護衛たちの剣帯が鳴り、谷の奥では見張りが弓を持ち直した。
「村の倉にはあった。山にはなかった。目の前で子供が痩せていくのを見ながら、手を出すなと言うのか!」
頭領が示した先では、大人の服を縫い縮めた袖から細い腕がのぞいている。
「自分たちの子を飢えさせぬために、村の子を飢えさせたのか」
火のそばの女が子供の肩を抱き寄せると、頭領の顔から表情が消えた。
「……黙れ」
「追い詰められておったことは認める。じゃが、それで村を襲った責任まで国へ渡すでない。村へ行くと決めたのは、お主らじゃ」
「黙れ!」
咆哮が谷を震わせ、木々から鳥が一斉に飛び立った。
頭領が一歩踏み出した瞬間、レティシアの肩が跳ね、白い靴が半歩だけ土を擦る。護衛たちも前へ出かけ、鞘と剣帯が硬い音を立てた。
レティシアは震える腕を上げる。
「動くでない」
護衛が止まった直後、エルンが真横へ移り、レティシアの白い靴と同じ方へ靴先を向けた。盾になる位置ではなく、逃げる時にはすぐ腕を取れる距離だった。
レティシアはその位置を視界の端で確かめ、詰めていた息を一つ吐く。
頭領の拳も震えていた。
「朝から日が落ちるまで働いた。決められた分も、それ以上も作った。増やした分まで持っていかれた。それでも俺の子は腹を空かせた! 目の前で痩せていく子供に、明日まで待てと言えるのか!」
返せる立派な言葉は浮かばなかった。
「言えぬ。わたくしにも、言えぬ」
頭領の鋭い眼光が、レティシアを射抜く。
「お前ら王家が、俺らの家を飢えさせた」
焚き火が爆ぜ、火の粉が二人の間を舞った。
レティシアは目をそらさなかった。
「その責任から逃げるつもりはない。わたくしも王家の名を持つ者じゃ」
一度だけ息を吸い、続ける。
「じゃが、国の責任と、お主らの責任を混ぜるでない。混ぜれば、どちらの責任も消える。お主らが村を襲ったことも、王家が生きる道を塞いだことも、どちらもなかったことにはせぬ」
頭領は荒い呼吸を繰り返し、やがて焚き火のそばの鍋へ目を向けた。底の浅い湯が、弱い火の上で揺れている。
「それで、俺たちは今夜、何を食えばいい」
レティシアも鍋へ目を移した。
仕事を与える準備はなく、分けられる土地も決めていない。一行の携行食をすべて集めたところで、この谷にいる者全員には届かない。
「……一行の食料はある。じゃが、全員へは届かぬ。誰へどれだけ渡すかも、決めてきておらぬ」
空いた手を隠さず答えると、山狼衆の間から乾いた笑いが漏れた。王女へ期待しかけた自分たちを、先に笑うような響きだった。
頭領だけは笑わなかった。
「なら、俺たちに何をしろと言う」
「明日の日暮れまで、山を下りずにいてほしい。その間に、ここにいる者の数と必要な食料を確かめ、リンデへ戻って――」
「明日まで待てば、子供の腹は減らねえのか」
レティシアの言葉が途切れる。
「お前は村へ戻る。屋根も食事もある場所にな。こっちは空の鍋を囲んで、王女が帰ってくるのを待てと?」
こちらは屋根と食事のある村へ戻る。それなのに、待つ負担だけを向こうへ置こうとしている。
明日まで待ってほしいと言うなら、その明日までをどう越えるかも、こちらが持ってこなければならなかった。
「王家の名にかけて、必ず戻る」
すがるように紋章へ触れた。
村では戸を閉ざさせ、山では弓を上げさせた印である。ここでは約束の代わりにさえならなかった。
頭領は紋章へ目を戻さず、山道を指した。
「帰れ」
「次の襲撃を止める約束は」
「しねえ。子供が飢えれば、俺たちは山を下りる」
次の襲撃の日を決めるのは、頭領の怒りではない。鍋の中身だった。
「……分かった」
レティシアが背を向けると、山狼衆の一人が前へ出た。
頭領が片手を上げる。
「行かせろ」
「ですが」
「今日は話をしに来た。それだけだ」
約束は得られなかった。
護衛に囲まれて谷を上る道へ戻ると、下りてきた時より、白い靴へまとわりつく土が重く感じられた。
焚き火のそばの子供が、母親の腕の隙間から顔を出す。
「王女、帰るの?」
レティシアの足が一瞬だけ止まった。
「……うむ」
それだけ答え、再び歩き始める。
「次も来る」とは、もう一度言えなかった。戻ると口にした約束を支えるものを、まだ何一つ持っていなかった。




