13話 正しさのほかに
下りの山道で、レティシアは一度も口を開かなかった。谷から離れても、頭領の声だけは耳の奥に残っている。
――正しさは食えねえ。
外套の端を握っていることに気づき、いったん指を離した。後ろから紙の音はせず、エルンも帳面を開かないまま、呼べば届く距離を崩さずについてくる。
木々の間に村の屋根が見え始める頃には、離したはずの指がまた同じところをつかんでいた。
街道脇では畑仕事が続き、鍬の音が一定の間隔で土へ落ちている。山から戻ってきた一行へ顔を向ける者はいなかった。
村長は、旧役宅へ続く道の手前で待っていた。
レティシアは泥のついた靴のまま、その前へ立つ。
「山狼衆の頭領と話した」
村長の顔は上がらなかった。
「交渉は決裂した。次の襲撃を止める約束も、わたくしは得られなかった。山側と街道の警戒は続ける。異変を見つけた時の知らせ方を、村と旧役宅でそろえよ。こちらから山へは踏み込まぬ。見つけても追うな」
護衛隊長へ視線を移す。
「襲撃を受けた時は、人と食料を先に守れ。退いた者を追って、山中で戦を始めることも許さぬ。それから、王都へ戻る前に、今夜の分を出す」
護衛隊長の目が、山へ続く道へ向いた。
「一行の携行食を数えよ。帰路に必要な分を除き、残りを山道の境へ運ぶ。全員へ届かぬなら、子供と病人を先にする」
「山狼衆へ渡すのですか」
「飢えたまま襲うなと命じても、今夜の答えにはならぬ。村の保管庫は使わぬ。襲われた村へ、救うための代金まで払わせる気はない」
「受け取りに来た者が武器を持っていた場合は?」
「境で置かせよ。こちらから根城へは踏み込まず、食料を渡したら退く。それと、王家名義で最も早く動かせる食料を探し、早馬を出せ。今夜の分だけで終わらせぬ」
「承知しました」
隊長は連絡役と見張りに加え、携行食を数える者と早馬へ乗る者を呼び集めると、その場で役割を振り分けた。指示を受けた者たちが山側と街道側へ分かれ、旧役宅の前に残る護衛も、空いた場所を埋めるように立ち位置を変えていく。
村長は短く頭を下げたが、慰めも責める言葉も口にしなかった。レティシアも、交渉に失敗した理由や、自分が何を考えていたのかを言い訳として足さなかった。
旧役宅へ戻る途中、壊れた家の前だけから人の声が聞こえた。
燻製棚から上がる薄い煙が、継ぎ木を当てた柱の前を流れている。縄に括られた野鳥の羽は、重なる笑い声に合わせるように揺れていた。
「三羽で少ないって顔するな。昨日は一羽も獲れなかったんだからね」
狩り帰りの若い女が、括った三羽を指で弾く。隣にいた女が笑い、薪を束ねていた老人まで口を挟んだ。
「昨日は弓より口が動いておったからな」
「獲物は口で落ちないよ。そこの旦那と違って」
「俺は落とされた側なのか?」
「今ごろ気づいた?」
トーマが燻製棚へ肉を並べ直す横で、笑い声がもう一度重なった。
その一つが、不意に途切れる。
若い女がこちらに気づき、野鳥を持つ手を止めていた。周囲の者も遅れて王女の姿を認めると、一人、また一人と視線を外していく。薪を束ねていた手は再び動き始めたものの、先ほどまでの笑いは戻らず、燻製棚の煙だけが同じ向きへ流れ続けた。
「山狼衆の根城へ行ってきた」
トーマは燻製棚へ伸ばしかけていた手を止める。
「根城というのは、山の居場所まで入って、頭領と直接話したという意味ですか。王女様ご本人が?」
「うむ」
若い女の手から野鳥が籠へ置かれ、縁へ当たった爪が乾いた音を立てた。
「話はした。じゃが、交渉は決裂した。村を襲わぬという約束も得られなかった」
トーマの止まっていた手が、燻製棚の縁をつかむ。
「何を言って、断られたんです」
「責任を問うた。もう襲わぬようにも求めた。じゃが、代わりに選べるものを何一つ持っていかなかった。王家の名と正しい問いだけで、何かを変えられると思っておった。変えられなかった」
誰も慰めなかったが、それでよかった。
「今から王都へ戻る。次は、変える準備をしてくる」
トーマが燻製棚から手を離した。
「王都へ戻って、何を変えるおつもりですか」
「この村のみんなの明日を作る」
レティシアは、壊れた戸から燻製棚へ、そこから籠へ置かれた三羽の獲物へと視線を移した。
「山狼衆が、もうここを襲わずに済む道も作る。ただし、襲った責任まで消す気はない」
「方法は決まっているんですか」
「まだじゃ。決まっておらぬから、王都へ戻る」
トーマはしばらく黙り、レティシアの泥にまみれた靴へ目を落とした。
「戻ってくるんですね」
今度は迷わず答えた。
「戻る。ここへも、山へも。口だけでなかったと示せるものを持って戻る」
若い女の指が、籠の持ち手を強く握った。やがて籠を抱え上げると、レティシアの横を通り過ぎて家の中へ入り、戸を閉じる。
だが、トーマはその場に残っていた。
「覚えておきます」
「信じるとは申さぬのじゃな」
「戻ってきてから決めます、王女様」
「それでよい」
*
旧役宅の扉が閉まると、外の声が厚い板の向こうへ遠のき、室内では煮込みの蓋が湯気に押されて小さく鳴った。
扉へ背中を預けた途端に膝から力が抜け、レティシアはどうにか椅子まで歩くと、座るというより落ちるように腰を下ろした。卓上には湯気の立つ飲み物と、二人分の煮込みが並んでいる。
村人は顔を見れば戸を閉める。それでも食事だけは、冷める前に届いていた。
外套の裾には泥が跳ね、靴は元の色が分からないほど土にまみれていた。紐へ指をかけて引くと、結び目はほどけるどころかさらに小さくなり、もう一度別の端を引いた途端、足の指まで締めつけられた。
「なぜじゃ」
「引く場所が違います」
帳面を卓上へ置いたエルンが、足元を覗き込む。
レティシアは別の端をつかみ、今度こそ慎重に引いたが、結び目はびくともしなかった。
「殿下。そちらも逆です」
「早く申せ!」
エルンは片膝をつき、靴の爪先についた乾いた泥を落とすと、固まった紐を少しずつ緩めていった。十歳の指が力任せに締め上げた結び目は、時間をかけてようやく形を失う。
靴が脱げ、足の指を動かすと、締めつけられていたところへ血が戻ってきた。
「今日は、何もほどけなかった」
「靴紐はほどけました」
「それを成果へ数えるでない」
頬へ触れた湯気に顔を上げると、エルンは向かいの席へ座り、帳面を開いていた。山で閉じた頁の続きには、細かな文字が並んでいる。
「都合の悪いところも、すべて残したか」
「明日まで待つよう求めて退けられたことも、襲撃停止の約束を得られなかったことも、王家の名が信用の代わりにならなかったことも記録しています」
「王都へ戻れば、どうまとめられる」
「要約だけなら、『交渉不調』の一行になる可能性があります」
「本文の記録を添えよ。一行だけで、わたくしが少し話して帰ったようにするな」
「根城まで登られたことも残します」
「そこは少し格好よく書け」
「公的記録に格好はつけられません」
レティシアは湯気の向こうで一度笑い、それから煮込みへ視線を落とした。
「エルン。わたくしは、何を間違えた」
「山で投げかけられた問いを、撤回なさいますか」
「せぬ。まっとうに働いて生きる道を、国の仕組みが塞いだ。その問いは残す。村を襲った責任も消さぬ」
匙の柄へ指を添えたまま、続ける。
「頭領の言い逃れは塞いだ」
「その後に、何を置かれましたか」
匙の先は煮込みへ触れたまま動かず、帳面の空いた欄と、まだ手をつけていない二人分の食事が、卓の上に残った。
王家の名と正しい問い、それに村で見た被害だけを抱え、全員へ届く食料も、仕事も、代わりに選べる道も整えずに根城へ登った。
「選べる道を置かなかった」
レティシアは匙を取り、煮込みを口へ運ぶ。
「……食べてから考える。空腹の者へ道を示すのに、こちらまで腹を空かせておっては、また間違える」
もう一口食べてから、帳面を自分の側へ引いた。
「頭領へ置く道を、三つに分ける」
帳面を開く向きが変わり、山で閉じられた記録とは別の頁が卓の中央へ出る。エルンが空いた頁へ筆先を下ろした。
「まず、今夜の分に続く食料。次に、奪わずに得られ、働いた者へ返る仕事」
最後の一つだけ、少し間を置く。
「そして責任じゃ。村を襲った者の責任は消さぬ。じゃが、その責任を子供や病人へ背負わせることもせぬ」
頁の上へ三つの見出しが並んだが、その下にはまだ量も期限も条件も入っておらず、エルンの筆は次の言葉を待って同じ位置に止まった。
「食料だけでは、尽きたあとに元へ戻る。仕事だけでは、今日食べられぬ者が落ちる。責任を消せば、次も村が代わりに払うことになる」
レティシアは三つの見出しを、指先で順にたどった。
「どれか一つでは足りぬ。三つとも要る」
「今夜の分に続く食料は、どこから確保しますか」
「王都で、出せる量と費用を確かめる。リンデの保管庫には触れぬ。わたくしの権限で足りぬなら、足りる者から取ってくる」
エルンの筆が、三つの見出しの下へ線を引いた。
「仕事は、用意しただけでは駄目じゃ。誰が何をし、何がその者へ戻るのかまで決める。働いた分が、途中で別の者のものになれば、今までと同じじゃ」
「山狼衆全体を、一つの条件で扱うのも難しいでしょう」
「まず、働ける者と働けぬ者を分ける。子供や病人は、働けぬ側で扱う。働ける者はさらに、武器を置く者と置かぬ者で条件を分ける」
最後の言葉だけ、エルンはすぐには書かなかった。
「襲撃へ加わった者の責任は残す。じゃが、父親の罪を子へ渡すな。夫の罪を妻へ背負わせるな。本人が負うべきものを、家族へ投げる仕組みにはせぬ」
煮込みから、細い湯気が上がっていた。
「量を決める。期限を決める。受け取る条件も決める。従えと命じるのではなく、選べる形にする」
「断られた場合は?」
「それも残せ。失敗した時もじゃ。うまくいったところだけ王都へ持ち帰れば、次に同じ場所で間違える」
筆先が止まった頁には、まだ空白の方が多かった。それでも、山で持っていなかったものの形は、そこへ少しずつ置かれ始めていた。
食事を終えると、村へ残す警戒と連絡役を確認し、王都へ向かう間も山と街道の異変が途切れず届くよう、使う道と知らせる順番を決めた。その順番は護衛隊長と村長へ同じ言葉で渡すことにした。片方だけが別の合図を覚えれば、異変の知らせが途中で届かなくなる。
外では、出発に備えて馬車へ荷が積まれ始めていた。
レティシアは泥の落ちた靴へ足を入れ、紐が甲へ食い込む前に指を止めた。山で投げた問いを撤回するつもりはなかったが、同じ問いだけを抱えて戻るつもりもない。
「次は、正しさのほかに」
エルンが帳面を閉じる。
「選べる道を持って、山へ戻る」




