39話 凱旋
王都の城門が開いても、歓声は上がらなかった。
王城へ続く通りには、いつもと同じように人がいる。荷を運ぶ者も、店先で客を待つ者も、レティシアの姿へ気づけば足を止めたが、誰一人として名を呼ばなかった。立ち尽くしたまま見送る者もいれば、目が合う前に顔を伏せる者もいる。
何を思って見ているのかは分からない。
ガルド軍が退いたという報せは、すでに王都へ届いているはずだった。その報告には、ヴァルナ大森林で火が放たれたことも、戻らない兵が大勢いることも含まれている。
四万を退ける作戦を決めた。
森へ火を放つよう命じた。
どちらも、自分が選んだことだった。
王城へ着いても休む時間はなく、外套を替えただけで会議室へ呼ばれた。長卓を囲む顔ぶれは、ガルド侵攻の報せを受けた日とほとんど変わらない。中央には同じ西部の地図が広げられていたが、国境から王都へ向かっていた敵軍の札は外され、その代わりに、現地から届いた報告書が何束も積まれている。
あの日は、ここで四万という数を聞いた。
今日は、その四万がどうなったのかを、自分も確かめる側へ座っていた。
「始める」
王の声で、会議室が静まった。
軍務大臣が最初の報告書を開く。
「ガルドは停戦条約を破り、推定四万の兵で西部国境を越えました。カレドでは命じられた徴発が略奪へ崩れ、住民に死者が出ています。町の倉と家畜は大きく失われ、現在も以前の機能を取り戻せておりません」
地図上のカレドへ、黒い印が置かれた。
「そこから先へ進んだガルド軍は、ヴァルナ大森林で軍としての統制を失い、確認できる残存部隊は国境へ向けて撤退しています。現時点で、再び進軍へ転じる動きはありません」
軍務大臣は次の紙へ移った。
「戦死者は、一万五千を超える見込み。生死を確認できていない者も、およそ一万です」
数字は耳へ入っても、すぐには人の形を取らなかった。
王都では四万という一つの数だった。火を放った後に見たのは、煙の向こうを逃げる兵、斜面へ捨てられた武器、動かなくなった一人の身体だった。それらをもう一度、一万五千という数字へ戻されても、あの森にいた一人ずつとは結びつかない。
軍務大臣が紙を置くと、内務大臣が別の記録を開いた。
「リンデから同行した者は、確認できた範囲で五十名。負傷者はおりますが、死者はなく、全員の帰還を確認しています」
そちらの数だけは、すぐに分かった。
待機地点へ戻った顔を一人ずつ追い、途中で数が合わなくなって、最初からやり直した。最後の一人までいたことを、自分の目でも、エルンの帳面でも確かめている。
財務大臣は、国境守備隊、軍務府、現地から戻った者の証言をまとめた紙を並べた。
「照合できる報告は照合しました。ガルド軍が撤退していること、ならびに同行者全員が戻ったことに相違ありません。結果だけを申し上げれば、作戦は成功です」
褒める声ではなかった。
だからこそ、その言葉をそのまま受け取れた。成功したものを、後から都合よく失敗へ書き換えない男である。
財務大臣は成功を記した紙を残したまま、もう一枚を隣へ置いた。
「ですが、結果が成功であることと、そこへ至る手順を認められることは別です。殿下は王命を受けずに民を集め、ガルド軍への軍事行動を開始し、ヴァルナ大森林へ意図的に火を放ちました。撤退させたという結果で、この二点が消えることはありません」
「分かっておる」
成功の報告書と、違反を記した報告書は重ねられなかった。どちらかを隠して、もう一方だけを事実にすることはできない。
財務大臣が紙から手を離すと、内務大臣が同行者の聞き取り記録を自分の前へ引いた。
「五十名について確認します。殿下が命じ、従わせたのですか」
「違う。わたくしから助けてほしいと頼み、行くかどうかは一人ずつ自分で決めてもらった」
「断ることもできた、と」
「できた。来なかった者もおるし、何をするか話したあとで降りても責めぬと伝えた」
「参加しなかった者へ、配給や仕事で不利益を与える命令は?」
「しておらぬ」
内務大臣は聞き取り記録へ指を下ろし、レティシアの答えと同じ箇所へ印を付けた。
「現地での確認とも一致しています。参加しなかった者への不利益も、現時点では確認されておりません」
そこで記録を閉じず、次の頁へ移る。
「ただし、本人たちが選んだことと、殿下が民を戦場へ連れていった責任は別です。死者が出なかったから、その責任までなくなったわけではありません」
「うむ。第四班が戻らなかった時、全員を帰せぬ可能性は、すぐそこまで来ておった」
全員が帰ったという結果を知ったあとでも、あの時に負わせた危険まで消えるわけではない。内務大臣はそれ以上、同じ問いを重ねなかった。
最後に軍務大臣が口を開く。
「王命なき軍事行動については、殿下ご自身の功績だけを見て不問にはできません。今回を認めれば、次に別の王族や将が独断で兵を動かした時、我々は結果が出るまで止められなくなる」
レティシアは反論しなかった。
自分だけはよい、とは言えない。自分の命令まで止められる仕組みを求めたのは、ほかならぬ自分だった。
「続いて、火計について確認します。周辺諸国から非難を受け、外交上不利になる可能性があることは、使用前から理解していましたな」
「知っておった」
「それでも用いた」
「用いた」
軍務大臣は一度だけうなずき、ガルドの条約違反を記した紙と、ヴァルナの被害報告を地図の両側へ置いた。
「ガルドが停戦を破り、四万で越境し、カレドを壊した事実は変わりません。侵攻の責任はガルドにあります。しかし、今後ルミナへ悪意を持って接する国が、その順序まで公平に語る保証はない。ガルドの違反には触れず、ルミナが森林へ火を放ち、一万を超える死者を出したことだけを広める国もあるでしょう」
「……うむ」
「これによってルミナが外交上不利な立場へ置かれることと、殿下が国を救ったことは、どちらも事実です」
軍務大臣も、二枚を重ねなかった。
三人の大臣が確かめたものは同じではない。成功した作戦。民を危険へ連れた責任。王命を経ずに始めた軍事行動。そして、国の外へ残る火計の影響。
王はすべての報告が卓へ戻るまで口を挟まず、最後にレティシアを見た。
「今回のことを、お前自身はどう考えている」
火を使ったことを後悔しているのか。
四万を退けたことを誇っているのか。
自分の策が正しかったと認めさせたいのか。
どれも少し違った。
カレドでは人が死に、家と倉と家畜が失われた。町はまだ元へ戻っていない。だが、その先には、ガルド軍が来なかった町と村が残っている。
レティシアは地図上のカレドと、ヴァルナより東にある町々を見た。
「ガルド軍による被害を、カレドより先へ広げずに済んだので、上手く行ったと思います」
記録役の筆だけが紙を擦り、やがてそれも止まった。
王は表情を変えない。
「上手く行った、と」
「はい」
「一万を超える死者が出てもか」
レティシアは首を振った。
「死者が多かったから、上手く行ったのではありませぬ。ガルド軍が退き、カレドより先へ行かせずに済んだからです。死者が少なくても進軍を止められなければ失敗でしたし、多く死んだから成功という話でもありませぬ」
森で見た倒れた兵も、捨てられた武器も覚えている。数が増えればよいと思ったことは、一度もなかった。
王はしばらくレティシアを見たあと、もう一つだけ問いを置いた。
「同じ状況になれば、また火を使うか」
今度は、考える必要がなかった。
「はい。何度でも」
記録役の筆が止まり、長卓のどこかで椅子がわずかに鳴った。
レティシアは王から目をそらさなかった。
外交で不利になることも、敵兵に帰りを待つ家族がいることも、許可なく人を集めた責任が自分へ残ることも、もう知っている。それでも、再び四万が国境を越え、正面から止める兵が間に合わないなら、何かを差し出して退いてもらう道を先には選ばない。
王は椅子の背へ身体を預けた。
「分かった」
それだけだった。
あまりに短く終わり、レティシアの方が次の言葉を待ったが、王の視線は三人の大臣へ移っていた。
「処分について異論は」
財務大臣が、成功と違反の二枚を並べたまま答える。
「功績を理由に、違反そのものをなかったことにはできません」
内務大臣は同行者の聞き取り記録へ手を置いた。
「王族であることを理由に免責すれば、殿下の求めに応じた民だけへ危険を負わせたことになります」
軍務大臣は地図上のヴァルナから手を離した。
「王命なき軍事行動を不問とする前例は残せません。ただし、ガルド軍を撤退させた功績も、処分の判断から外すべきではないと考えます」
三人とも、重くしろとも軽くしろとも言わなかった。功績と違反のどちらも消さず、王へ判断を返した。
王はしばらく黙ったあと、レティシアへ向き直る。
「レティシア」
「はい」
「王命を受けず軍事行動を起こし、ヴァルナ大森林へ故意に火を放った。その責任を問う。禁固一か月とする」
思っていたより軽いとも、重いとも感じなかった。
四万を止めると決めた時、処罰される可能性まで含めて選んでいる。ここで不満を言えば、森で命令を下した自分の判断まで、都合の悪いところだけ捨てることになる。
「承知いたしました」
レティシアは椅子から立ち、頭を下げた。
王はそれを見届け、卓上の報告書を一枚ずつ閉じていく。ガルド軍の撤退、カレドの被害、五十人の帰還、無断の軍事行動、火計による死者、そして禁固一か月。
どの記録も、ほかの一枚を消すためには使われなかった。
「以上だ」
会議が終わる。
席を立ったレティシアの前で、成功を記した報告書と処分を記す紙は、最後まで別々に長卓の上へ残っていた。




