37話 第四班
最初の報告は、山火事として届いた。
ディートリヒの本陣は前衛から離れた街道の開けた場所にあり、ここから炎そのものは見えない。木々の向こうへ、ごく細い煙が一本だけ上がっていた。
「先頭部隊が停止しています。街道右手の斜面から出火したとのことです」
「風向きは」
「こちらからは確認できません」
「前衛に迂回できる場所を探らせろ。後続は速度を落とし、前へ詰めるな」
伝令が馬を返すと、幕僚の一人が地図上の先頭部隊へ印を置いた。火が一か所なら、道を外れるか、消えるまで距離を取ればよい。乾いた森で出火すること自体は、珍しい話ではなかった。
二人目の伝令が来るまでは。
「左手の斜面からも火が出ました。さらに前方でも、複数の煙を確認しています」
ディートリヒは地図から顔を上げた。
「同じ火が回ったのではないのか」
「場所が離れています」
偶然ではない。
「全軍停止。街道へ入っていない部隊は、その場で待機させろ」
命令を書いた札が後方へ向かう伝令へ渡され、別の兵は前衛の状況を確かめるため、煙の方角へ馬を走らせた。だが、四万の先頭から最後尾までを、一つの声で止められるわけではない。命令が街道を下っていく間にも、遠くの部隊は何も知らずに進み続ける。
今度は、前方から兵が駆け込んできた。
「前衛が後退を始めています!」
「誰が命じた」
「分かりません。火を避けた兵が、隊列を崩して戻っています」
「勝手に退かせるな。部隊ごとにまとめ、前進している後続を先に止めろ」
「すでに後退してくる兵と後続がぶつかっています。荷車も詰まり始めていて――」
「荷を端へ寄せ、道を空けろ」
兵は返事をする前に、一瞬だけ街道の両側を見た。
「両側は斜面です。荷車を外へ出せる場所がありません」
分かっている。
分かっていて、この道を選んだ。
ルミナ軍が正面から迎え撃つなら、狭い街道へ四万を入れることは危険だった。それでも、こちらを止められる軍勢そのものがいない以上、幅の狭さは行軍を遅らせる以上の問題にはならないと考えていた。
敵兵がいないことを、そのまま安全だと思った。
「前衛へ出した伝令は」
「二名とも、まだ戻っていません」
「別の道から回せ」
「森へ入れる道を探しています」
報告が増えるほど、地図と現実の間が離れていった。
先頭は停止し、前衛の一部は後退し、後続はなお前進している。どれも、命令さえ届けば直せる問題に見えた。ただし、一つずつ起きているなら、という条件が必要だった。
「後方から止めろ。まだ街道へ入っていない部隊を中へ入れるな」
「命令は出しています」
「なら、なぜ進んでいる!」
「届いていないからです!」
伝令の声が、初めて命令を受ける兵のものではなくなった。
ディートリヒは言葉を止めた。
届かない。
四万を一つの軍として動かすために張り巡らせた命令の流れが、人と馬と荷車によって塞がれている。前進を止める命令も、後退の順番を整える命令も、必要な場所へ届く前に街道の途中で詰まっていた。
「閣下、前方との連絡が切れました」
別の幕僚が、地図の上へ置かれていた札へ手を伸ばす。
「どこからだ」
「第三部隊より先です。伝令も戻らず、第二部隊の位置も確認できていません」
幕僚は、所在の分からなくなった部隊の札を裏返した。
一つ、また一つ。
地図の上には全軍の配置が残っているのに、その場所に本当に兵がいるのか、もう誰にも断言できない。整然と並んでいた札は、前方から順に意味を失っていった。
ディートリヒは煙の上がる街道を見た。
退路はある。
後ろへ戻ればよい。
だが、その一本の退路へ、前から逃げる兵と、何も知らず進む兵が同時に入ろうとしている。その間には馬も荷車もあり、火を避けるため斜面へ上がった者まで、別の場所から街道へ戻ってくる。
退路を断たれたのではなかった。
四万が、四万自身の退路を塞いでいた。
「前進停止の命令を繰り返せ。後方部隊は街道へ入れるな。すでに入った部隊は、まとまりを保てるものから後退させる。荷は捨ててよい。馬も道を塞ぐなら切り離せ」
命令はすぐ札へ書かれ、確認できている伝令へ渡された。
それでも前からの報告は戻らない。
少し前まで、前衛の動きは絶えず本陣へ届いていた。いまは、どこで誰が指揮を執り、どの部隊がまだ命令を聞ける状態にあるのかも分からない。
前衛にはフランツがいる。
その名は口にしなかった。所在の分からない一人を探すために、位置の分かっている兵まで街道の奥へ送れば、同じ罠へ加えることになる。
「現在、確実に動かせる部隊は」
「後方の六部隊です。ほかは確認を続けていますが――」
「分かっているものだけでよい」
ディートリヒは裏返された札の並ぶ地図を見下ろした。
もう、そこに四万という一つの軍はいなかった。いるのは、命令が届く部隊と、届かない部隊、位置の分かる兵と、分からなくなった兵だけだった。
「街道へ入っていない後方部隊は、その場から動かすな。中にいる兵は、確認できるものから西側の開けた場所へ出せ。荷は捨ててよい」
副官が一瞬だけ目を上げた。
「撤退ですか」
「違う。まず軍を軍へ戻す。前方との連絡を取り戻せ。進むか退くかは、その後だ」
それ以上、命令を増やさなかった。
届かない命令を重ねても、救える兵は一人も増えない。
*
火を放ったあと、レティシアが数えていたのは、ガルド兵ではなかった。
護衛二人は待機地点の外周を警戒したまま、戻ってくる班のために道を空けている。
最初の点火班が斜面から戻ると、煤で黒くなった顔を一人ずつ確かめ、エルンの帳面にある名と照らし合わせた。袖を焦がした者、転んで手を擦りむいた者はいても、欠けてはいない。
「第一班、全員です」
「火傷は」
「ありません。擦り傷だけです」
「水を飲ませて、次の班を迎える者へ回せ」
第一班が待機地点へ入るのと入れ替わるように、別の斜面から第二班が現れた。煙を吸って咳き込む者の肩を仲間が支え、その後ろから油壺を空にした者たちが続く。エルンは姿が見えるたびに名へ印を付け、レティシアは最後の一人が戻るまで次へ視線を移さなかった。
森の向こうでは、まだ火が走っている。
遠くでガルド軍の叫びと馬の嘶きが重なり、誰かが、敵はもう軍の形を失っていると声を上げた。レティシアの耳にも届いたが、帰還者の列から目は離さなかった。
少し遅れて第三班も木々の間から姿を見せた。戻る者が増えるたび、待機地点には煤と汗の匂いが濃くなり、空だった水桶の周りへ人が集まっていく。
「第四班は」
返事がなかった。
レティシアは、いま戻った第三班をもう一度数え、エルンの帳面を覗き込んだ。印の付かない名が、最奥へ送った班の分だけ残っている。
「まだ戻っておりません」
第四班は最後に火をつけ、最後に退くよう決めた。ほかの班より遅れること自体は、予定のうちだった。
それでも、森の向こうでは煙が濃くなり、戻るために選んだ沢の方角まで白く霞んでいる。
「沢を見てこい。第四班を見つけても、無理に連れ戻そうとするな。何が道を塞いでいるのかだけ確かめて戻れ」
山狼衆の男が一人、武器を持ち直して斜面を下った。
待つ間にも、偵察から別の報告が届いた。ガルド軍は前へも後ろへも動けず、街道の外へ逃げ始めている。レティシアは短くうなずき、沢へ続く木々だけを見ていた。
最後に火をつける役を決めたのは自分だった。
最奥まで敵を入れなければ、四万という数を使えない。だから第四班へ、もっとも長く残る役を渡した。
予定どおりなら、もう戻ってよい時間だった。
やがて、沢へ向かった男が木々の間から現れた。走り続けてきた呼吸を整える余裕もなく、待機地点へ上がってくる。
「まずい。沢にガルド兵が入ってる」
「どれほどじゃ」
「分からねえ。部隊じゃない。武器も鎧も荷も捨てて、火の薄い方へ一人ずつ逃げ込んでる。あれじゃ、決めていた道は使えない」
湿った沢は、大軍では通れない。
だから撤収路に選んだ。
だが、軍としてのまとまりを失い、ただ火から逃げる人間になれば、狭い沢へも一人ずつ入ることができる。レティシアは四万の軍が使えない道を選んだが、四万が軍でなくなったあとの流れまでは考えていなかった。
「第四班は見えたか」
「見えなかった」
レティシアは戻った者たちへ目を走らせた。
第四班にはトーマがいるはずなのに、帰還した者たちのどこにも、その姿はなかった。




