36話 炎
「殿下!」
森の外から声が上がった。
斜面を駆け上がってくる偵察の男を見た瞬間、待つための時間は終わった。
「ガルド軍です。先頭が街道へ入りました!」
レティシアは立ち上がった。
「どこまで来ておる」
「もうすぐ最初の監視地点へ。後ろも続いています」
ようやく来た。
待っているあいだは遅いと文句を言っていたのに、いざ街道へ入ったと聞けば、配置も合図も何もかもが足りない気がしてくる。今さら不足を数えても増えるものはない。レティシアは胸の内に浮いたざわつきを押し込み、必要な命令だけを口にした。
「各班へ伝えよ。予定どおり配置につけ。勝手に火をつけるでない。わたくしの合図を待て」
「はい!」
男が斜面を駆け下りると、森のあちこちに散っていた者たちも動き始めた。つい先ほどまで地面へ座り、干し肉を噛みながら暇だと笑っていた五十人が、それぞれ決められた場所へ入り、木々の奥へ姿を消していく。
山狼衆を連れたグロムが、入れ替わるように近づいてきた。
「やっと来たな」
「遅かった分まで、しっかり奥へ入ってもらうぞ」
「欲張るなよ」
「四万も来ておるのに、今さら控えめにしてどうする」
グロムは声を立てて笑った。
「そりゃそうだ」
予備の者たちを引き連れ、そのまま森へ戻っていく。護衛二人は少し離れて周囲の警戒へ回り、レティシアのすぐそばに残ったのはエルンだけだった。
レティシアは街道を見下ろせる位置へ移った。まだガルド兵の姿はない。先に届いたのは馬の蹄で、一頭分だった音が幾重にも重なり、その後ろへ車輪の軋みや金具の触れ合う音、人の声まで混じりながら、森の向こうから少しずつ近づいてきた。
やがて街道の奥に、先頭の兵が現れた。
その後ろからまた兵が来る。槍の穂先、馬、荷車、そのさらに後ろにも途切れることなく人の列が続いていた。
四万という数字が、そこで初めて目の前の長さになった。
先頭が峡路へ入る。
まだ早い。
レティシアは動かなかった。兵の列は街道に沿って進み、左右から斜面が迫る場所へ次々に吸い込まれていく。先頭が通り過ぎても列は細くならず、少し離れたこの位置からでは、どこまで続いているのかさえ分からない。
「第一監視地点、通過しました」
伝令が声を落として告げた。
「そのまま見よ」
「はい」
男はすぐに斜面を戻っていった。
火をつけるだけなら、もうできる。だが、ここで始めれば先頭はそのまま森を抜け、後続も異変に気づいて峡路へ入る前に止まるだろう。
四万という数に押し潰されるのではなく、その数そのものを罠に使うなら、彼ら自身に狭い道を埋めさせるまで待たなければならない。
街道の向こうで馬が鳴き、隊列がわずかに詰まった。だが流れはすぐに戻り、何も知らない兵たちがまた峡路へ入ってくる。
「第二地点まで入りました」
別の伝令が駆け込んできた。
「後ろは」
「まだ進んでいます」
「戻れ」
短く命じると、男は踵を返した。
隣ではエルンが記録を続けていた。筆先を何度か紙へ置き直していたが、何も言わない。レティシアも街道から目を離さなかった。
兵の列がさらに深く峡路へ入っていく。
最奥にはトーマたち第四班がいる。待つほど、そのすぐ下を通る敵も増える。それでも早く火を放てば、ここまで準備した意味がなくなる。
「第三地点、通過!」
今度の伝令は息を切らしていた。
「後続は止まったか」
「いえ。まだ入ってきます」
前へ進む兵。その後ろを追う荷車。さらに、その後ろからまた兵が来る。
王都で四万と聞いた時には、ただ押し潰されるための数に思えた。今、その同じ四万が、自分たちの選んだ場所へ次々に入り続けている。
森の中から、小さな合図が一つ返った。
第一班。
少し遅れて別の場所からもう一つ。第二班。続いて第三班。
最後だけが来ない。
レティシアは待った。ほんの数息だったはずなのに、そのあいだだけ街道を進む兵がひどく速く見える。
やがて最奥からも合図が返った。
第四班。
全員が位置についた。
これ以上待てば、今度は味方が危ない。レティシアは一度だけ息を吸い、伝令を呼んだ。
「はい」
男がすぐそばへ身を寄せる。
レティシアは街道を埋めるガルド兵を見下ろした。この中には、エルンが言っていた兵士たちもいる。帰りを待つ家族もいる。
それでも、ここへ四万を連れてきたのはガルドだった。
火を使うと決めたのは、自分だった。
レティシアは目を逸らさず、命じた。
「……焼き払え」
*
最初に右手の斜面から細い煙が上がった時、フランツはさほど気に留めなかった。
街道から少し離れた木々の間で、まだ火そのものは見えない。乾いた森なら火が出ることはある。広がるようなら避ければよいと考え、後続へ知らせる兵だけを走らせて、前方の列はそのまま進ませた。
「火だ!」
「騒ぐな。前を止めるな」
兵を抑えた直後、反対側の斜面からも煙が上がった。
今度は一本ではない。二つ、三つと数える間にも、少し離れた木々の奥が赤く染まっていく。
フランツは馬上で振り返った。
「……止まれ」
言い終えるより早く、前方から兵が駆け戻ってきた。
「火です! 前も燃えています!」
「どの程度だ」
「分かりません! 別の場所からも――」
後ろで馬が甲高く鳴き、報告が途切れた。
煙に怯えた馬が荷車を引いたまま横を向き、街道を半ばまで塞いでいる。その後ろから来た兵は事情を知らず、前へ進もうとして押し寄せていた。
「後続を止めろ!」
フランツは声を張った。
「前進を止めろ! 後ろへ伝えろ!」
伝令が走ろうとしたところへ、前方から戻ってきた兵がぶつかった。
「戻れ! 火が回ってる!」
「押すな!」
「後ろを止めろ!」
命令とは別の声が、あちこちから重なった。
山火事ではない。
最初から、ここで待たれていた。
気づくのが遅かったわけではない。煙が二か所から上がった時点で前進を止め、後続へも伝令を出している。普通の部隊なら、それで隊列を組み直せたかもしれない。
だが、後ろには四万がいた。
「前を空けろ! 荷車を端へ寄せろ!」
命じたところで、街道の端には斜面しかない。横を向いた荷車を戻そうと兵が車輪へ取りつき、その脇を抜けようとした者が押し返される。前からは火を見た兵が戻り、後ろからは何も知らない兵が進んでくる。その間に挟まれた者たちは、どちらへ動けばよいのかさえ分からなかった。
「押すな!」
「退け!」
「前へ行け、後ろが詰まってる!」
「前が燃えてるんだよ!」
誰の命令なのかも分からない声が飛び交う。
右手の斜面で炎が大きくなった。乾いた枝を伝った火が木の根元へ移り、風に煽られて上へ走る。熱を避けた兵が街道の反対側へ寄ると、その先でも別の火が上がった。
馬が暴れた。
手綱を引いていた兵が引きずられ、荷車の車輪の下へ消える。止めようとした者が馬の首へしがみつき、その背中へ後ろから来た兵がぶつかった。
「馬を放せ!」
フランツは人波の向こうへ怒鳴った。
「荷より道を空けろ! 馬を切り離せ!」
すぐ近くにいた兵が剣を抜き、二度目でようやく革紐を断ち切った。自由になった馬は街道を駆け出し、前方から戻ってくる人の波へそのまま突っ込んだ。
悲鳴が上がる。
倒れた者に後ろから来た兵が躓き、その背中へさらに別の兵が落ちた。避けようとして斜面へ足をかけた者まで、焼けた枝に追われて街道へ転がり落ちてくる。
フランツは馬を降りた。もう馬上から命令を通せる場所ではない。
「隊ごとに固まれ! 勝手に走るな!」
自分の部隊の兵を見つけて肩をつかみ、耳元へ顔を寄せた。
「後ろへ行け。本隊へ伝えろ。前進停止、全軍停止だ」
「この中をですか」
「行け!」
兵は頷き、人の間へ身体をねじ込んだ。三歩も進まないうちに見えなくなり、届くかどうかを確かめる術はなかった。
それでも、送らないわけにはいかなかった。
火はさらに増えていた。最初に見た斜面だけではなく、街道の先でも煙が立ち、少し離れた後方からも赤い光が見える。一か所を避ければ終わる火ではない。
「斜面へ上がれ!」
誰かが叫んだ。
「街道を捨てろ!」
「上は燃えてる!」
「こっちはまだだ!」
兵が一斉に斜面へ向かった。最初の数人は登れたが、その後ろから十人、二十人と続けば、細い足場はすぐに埋まる。前の兵が木の根をつかみ、後ろの兵がその腰を押す。足を滑らせた一人が落ちれば、巻き込まれた者まで一緒に街道へ転がった。
「斜面へ行くな! 道を使え!」
フランツは兵を街道へ戻そうとした。
「どっちです!」
すぐ近くの兵が振り返った。
「前ですか、後ろですか!」
答えようとして、言葉が止まった。
前は燃えている。後ろには、事情を知らない兵がなおも押し寄せている。
退路そのものが消えたわけではない。ただ、その一本の道を何万人もが同時に使おうとしていた。
「後ろだ!」
それでも、決めなければならない。
「前の部隊から順に下がれ! 後続を止めろ!」
誰かが復唱したが、その声は別の悲鳴に消された。
熱風が街道を抜け、煙が一気に下りてきた。目を開けていられず、息を吸った兵が咳き込みながら膝をつく。隣の者が腕を引いたものの、後ろから押されて手を離した。
フランツも袖で口元を覆った。
「止まるな!」
何を止めるなと言ったのか、自分でも分からなかった。
退け。走るな。押すな。止まるな。
命令が互いに食い合っていく。軍として動かそうと声を張るほど、目の前の兵は一人ずつ生き残るため、別々の方向へ逃げていった。
それを責めることはできなかった。
背に火のついた兵が街道へ飛び出してきた。誰かに助けを求めて腕を伸ばしているが、周囲の兵は近づくどころか逃げ、ただ一人だけが上着を脱いでその背中へ叩きつけた。
その横を、荷を捨てた兵が走り抜ける。盾も槍も持っていない。もう戦うための姿ではなかった。
「フランツ様!」
名を呼ばれて振り向くと、部下が一人、煙の向こうから姿を現した。
「前方との連絡が――」
最後まで聞こえなかった。
斜面から大きな枝が落ち、兵の姿が人波の向こうへ消えた。
「おい!」
追おうとした足が止まる。前から押し返され、右から来た兵とぶつかり、左へ避けた先にも人がいた。
もう、自分の部隊がどこにいるのか分からない。誰が命令を聞き、誰が逃げているのかも見分けられない。
後ろへ送った伝令は届いたのか。本隊は止まったのか。父は、この状況を知っているのか。
どれ一つ、確かめる手段がなかった。
煙はさらに濃くなり、街道の先も後ろも見えなくなった。
フランツはもう一度、声を張った。
「押すな! 列を――」
最後まで続かなかった。
前から押し寄せた人の波に身体をさらわれ、足が地面から離れた。誰かの肩をつかんだが、すぐに指が外れる。次に何へ手を伸ばしたのか、自分でも分からない。
炎より先に、人が迫ってきた。
煙の中で、命令だけが行き場を失った。




