表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レティシア ~小さな王女の国づくり~  作者: yurihina
3章 ガルド侵攻戦
36/42

36話 炎

「殿下!」


 森の外から声が上がった。


 斜面を駆け上がってくる偵察の男を見た瞬間、待つための時間は終わった。


「ガルド軍です。先頭が街道へ入りました!」


 レティシアは立ち上がった。


「どこまで来ておる」

「もうすぐ最初の監視地点へ。後ろも続いています」


 ようやく来た。


 待っているあいだは遅いと文句を言っていたのに、いざ街道へ入ったと聞けば、配置も合図も何もかもが足りない気がしてくる。今さら不足を数えても増えるものはない。レティシアは胸の内に浮いたざわつきを押し込み、必要な命令だけを口にした。


「各班へ伝えよ。予定どおり配置につけ。勝手に火をつけるでない。わたくしの合図を待て」

「はい!」


 男が斜面を駆け下りると、森のあちこちに散っていた者たちも動き始めた。つい先ほどまで地面へ座り、干し肉を噛みながら暇だと笑っていた五十人が、それぞれ決められた場所へ入り、木々の奥へ姿を消していく。


 山狼衆を連れたグロムが、入れ替わるように近づいてきた。


「やっと来たな」

「遅かった分まで、しっかり奥へ入ってもらうぞ」

「欲張るなよ」

「四万も来ておるのに、今さら控えめにしてどうする」


 グロムは声を立てて笑った。


「そりゃそうだ」


 予備の者たちを引き連れ、そのまま森へ戻っていく。護衛二人は少し離れて周囲の警戒へ回り、レティシアのすぐそばに残ったのはエルンだけだった。


 レティシアは街道を見下ろせる位置へ移った。まだガルド兵の姿はない。先に届いたのは馬の蹄で、一頭分だった音が幾重にも重なり、その後ろへ車輪の軋みや金具の触れ合う音、人の声まで混じりながら、森の向こうから少しずつ近づいてきた。


 やがて街道の奥に、先頭の兵が現れた。


 その後ろからまた兵が来る。槍の穂先、馬、荷車、そのさらに後ろにも途切れることなく人の列が続いていた。


 四万という数字が、そこで初めて目の前の長さになった。


 先頭が峡路へ入る。


 まだ早い。


 レティシアは動かなかった。兵の列は街道に沿って進み、左右から斜面が迫る場所へ次々に吸い込まれていく。先頭が通り過ぎても列は細くならず、少し離れたこの位置からでは、どこまで続いているのかさえ分からない。


「第一監視地点、通過しました」


 伝令が声を落として告げた。


「そのまま見よ」

「はい」


 男はすぐに斜面を戻っていった。


 火をつけるだけなら、もうできる。だが、ここで始めれば先頭はそのまま森を抜け、後続も異変に気づいて峡路へ入る前に止まるだろう。


 四万という数に押し潰されるのではなく、その数そのものを罠に使うなら、彼ら自身に狭い道を埋めさせるまで待たなければならない。


 街道の向こうで馬が鳴き、隊列がわずかに詰まった。だが流れはすぐに戻り、何も知らない兵たちがまた峡路へ入ってくる。


「第二地点まで入りました」


 別の伝令が駆け込んできた。


「後ろは」

「まだ進んでいます」

「戻れ」


 短く命じると、男は踵を返した。


 隣ではエルンが記録を続けていた。筆先を何度か紙へ置き直していたが、何も言わない。レティシアも街道から目を離さなかった。


 兵の列がさらに深く峡路へ入っていく。


 最奥にはトーマたち第四班がいる。待つほど、そのすぐ下を通る敵も増える。それでも早く火を放てば、ここまで準備した意味がなくなる。


「第三地点、通過!」


 今度の伝令は息を切らしていた。


「後続は止まったか」

「いえ。まだ入ってきます」


 前へ進む兵。その後ろを追う荷車。さらに、その後ろからまた兵が来る。


 王都で四万と聞いた時には、ただ押し潰されるための数に思えた。今、その同じ四万が、自分たちの選んだ場所へ次々に入り続けている。


 森の中から、小さな合図が一つ返った。


 第一班。


 少し遅れて別の場所からもう一つ。第二班。続いて第三班。


 最後だけが来ない。


 レティシアは待った。ほんの数息だったはずなのに、そのあいだだけ街道を進む兵がひどく速く見える。


 やがて最奥からも合図が返った。


 第四班。


 全員が位置についた。


 これ以上待てば、今度は味方が危ない。レティシアは一度だけ息を吸い、伝令を呼んだ。


「はい」


 男がすぐそばへ身を寄せる。


 レティシアは街道を埋めるガルド兵を見下ろした。この中には、エルンが言っていた兵士たちもいる。帰りを待つ家族もいる。


 それでも、ここへ四万を連れてきたのはガルドだった。


 火を使うと決めたのは、自分だった。


 レティシアは目を逸らさず、命じた。


「……焼き払え」


     *


 最初に右手の斜面から細い煙が上がった時、フランツはさほど気に留めなかった。


 街道から少し離れた木々の間で、まだ火そのものは見えない。乾いた森なら火が出ることはある。広がるようなら避ければよいと考え、後続へ知らせる兵だけを走らせて、前方の列はそのまま進ませた。


「火だ!」

「騒ぐな。前を止めるな」


 兵を抑えた直後、反対側の斜面からも煙が上がった。


 今度は一本ではない。二つ、三つと数える間にも、少し離れた木々の奥が赤く染まっていく。


 フランツは馬上で振り返った。


「……止まれ」


 言い終えるより早く、前方から兵が駆け戻ってきた。


「火です! 前も燃えています!」

「どの程度だ」

「分かりません! 別の場所からも――」


 後ろで馬が甲高く鳴き、報告が途切れた。


 煙に怯えた馬が荷車を引いたまま横を向き、街道を半ばまで塞いでいる。その後ろから来た兵は事情を知らず、前へ進もうとして押し寄せていた。


「後続を止めろ!」


 フランツは声を張った。


「前進を止めろ! 後ろへ伝えろ!」


 伝令が走ろうとしたところへ、前方から戻ってきた兵がぶつかった。


「戻れ! 火が回ってる!」

「押すな!」

「後ろを止めろ!」


 命令とは別の声が、あちこちから重なった。


 山火事ではない。


 最初から、ここで待たれていた。


 気づくのが遅かったわけではない。煙が二か所から上がった時点で前進を止め、後続へも伝令を出している。普通の部隊なら、それで隊列を組み直せたかもしれない。


 だが、後ろには四万がいた。


「前を空けろ! 荷車を端へ寄せろ!」


 命じたところで、街道の端には斜面しかない。横を向いた荷車を戻そうと兵が車輪へ取りつき、その脇を抜けようとした者が押し返される。前からは火を見た兵が戻り、後ろからは何も知らない兵が進んでくる。その間に挟まれた者たちは、どちらへ動けばよいのかさえ分からなかった。


「押すな!」

「退け!」

「前へ行け、後ろが詰まってる!」

「前が燃えてるんだよ!」


 誰の命令なのかも分からない声が飛び交う。


 右手の斜面で炎が大きくなった。乾いた枝を伝った火が木の根元へ移り、風に煽られて上へ走る。熱を避けた兵が街道の反対側へ寄ると、その先でも別の火が上がった。


 馬が暴れた。


 手綱を引いていた兵が引きずられ、荷車の車輪の下へ消える。止めようとした者が馬の首へしがみつき、その背中へ後ろから来た兵がぶつかった。


「馬を放せ!」


 フランツは人波の向こうへ怒鳴った。


「荷より道を空けろ! 馬を切り離せ!」


 すぐ近くにいた兵が剣を抜き、二度目でようやく革紐を断ち切った。自由になった馬は街道を駆け出し、前方から戻ってくる人の波へそのまま突っ込んだ。


 悲鳴が上がる。


 倒れた者に後ろから来た兵が躓き、その背中へさらに別の兵が落ちた。避けようとして斜面へ足をかけた者まで、焼けた枝に追われて街道へ転がり落ちてくる。


 フランツは馬を降りた。もう馬上から命令を通せる場所ではない。


「隊ごとに固まれ! 勝手に走るな!」


 自分の部隊の兵を見つけて肩をつかみ、耳元へ顔を寄せた。


「後ろへ行け。本隊へ伝えろ。前進停止、全軍停止だ」

「この中をですか」

「行け!」


 兵は頷き、人の間へ身体をねじ込んだ。三歩も進まないうちに見えなくなり、届くかどうかを確かめる術はなかった。


 それでも、送らないわけにはいかなかった。


 火はさらに増えていた。最初に見た斜面だけではなく、街道の先でも煙が立ち、少し離れた後方からも赤い光が見える。一か所を避ければ終わる火ではない。


「斜面へ上がれ!」


 誰かが叫んだ。


「街道を捨てろ!」

「上は燃えてる!」

「こっちはまだだ!」


 兵が一斉に斜面へ向かった。最初の数人は登れたが、その後ろから十人、二十人と続けば、細い足場はすぐに埋まる。前の兵が木の根をつかみ、後ろの兵がその腰を押す。足を滑らせた一人が落ちれば、巻き込まれた者まで一緒に街道へ転がった。


「斜面へ行くな! 道を使え!」


 フランツは兵を街道へ戻そうとした。


「どっちです!」


 すぐ近くの兵が振り返った。


「前ですか、後ろですか!」


 答えようとして、言葉が止まった。


 前は燃えている。後ろには、事情を知らない兵がなおも押し寄せている。


 退路そのものが消えたわけではない。ただ、その一本の道を何万人もが同時に使おうとしていた。


「後ろだ!」


 それでも、決めなければならない。


「前の部隊から順に下がれ! 後続を止めろ!」


 誰かが復唱したが、その声は別の悲鳴に消された。


 熱風が街道を抜け、煙が一気に下りてきた。目を開けていられず、息を吸った兵が咳き込みながら膝をつく。隣の者が腕を引いたものの、後ろから押されて手を離した。


 フランツも袖で口元を覆った。


「止まるな!」


 何を止めるなと言ったのか、自分でも分からなかった。


 退け。走るな。押すな。止まるな。


 命令が互いに食い合っていく。軍として動かそうと声を張るほど、目の前の兵は一人ずつ生き残るため、別々の方向へ逃げていった。


 それを責めることはできなかった。


 背に火のついた兵が街道へ飛び出してきた。誰かに助けを求めて腕を伸ばしているが、周囲の兵は近づくどころか逃げ、ただ一人だけが上着を脱いでその背中へ叩きつけた。


 その横を、荷を捨てた兵が走り抜ける。盾も槍も持っていない。もう戦うための姿ではなかった。


「フランツ様!」


 名を呼ばれて振り向くと、部下が一人、煙の向こうから姿を現した。


「前方との連絡が――」


 最後まで聞こえなかった。


 斜面から大きな枝が落ち、兵の姿が人波の向こうへ消えた。


「おい!」


 追おうとした足が止まる。前から押し返され、右から来た兵とぶつかり、左へ避けた先にも人がいた。


 もう、自分の部隊がどこにいるのか分からない。誰が命令を聞き、誰が逃げているのかも見分けられない。


 後ろへ送った伝令は届いたのか。本隊は止まったのか。父は、この状況を知っているのか。


 どれ一つ、確かめる手段がなかった。


 煙はさらに濃くなり、街道の先も後ろも見えなくなった。


 フランツはもう一度、声を張った。


「押すな! 列を――」


 最後まで続かなかった。


 前から押し寄せた人の波に身体をさらわれ、足が地面から離れた。誰かの肩をつかんだが、すぐに指が外れる。次に何へ手を伸ばしたのか、自分でも分からない。


 炎より先に、人が迫ってきた。


 煙の中で、命令だけが行き場を失った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ