35話 ヴァルナ大森林
ヴァルナ大森林が近づくにつれ、荷車の油壺は少しずつ増えていった。
途中の村へ立ち寄るたび、レティシアはガルド軍四万を止めるため森へ向かっていることと、火を使うつもりであることを隠さず話した。話を聞いて、抱えてきた壺をそのまま家へ持ち帰る者もいれば、半分だけならと小さな器へ移す者もいた。いったん戸の向こうへ消え、黙ってもう一つ持ってきた者もいる。
どの返事にも、レティシアは口を挟まなかった。
油を出すかどうかまで王女が決めれば、リンデで「助けてほしい」と頼んだことまで、あとから命令へ変わってしまう。受け取った量と持ち主をエルンが記し、暮らしや仕事に必要な分へ手をつけていないことだけを確かめて、次の村へ進んだ。
森に最も近い村へ着くと、レティシアは人を集めるより先に、この辺りの森を一番よく知る者を尋ねた。
「木を切るなら、あいつだな」
呼ばれてきた男は、五十人ほどの一行より、荷車に並ぶ油壺を長く見た。肩へ掛けた斧の柄は使い込まれ、手の甲には新しい傷と古い傷が重なっている。
「森へ入るのか」
「うむ。その前に、教えてほしいことがある」
「何をだ」
「四万の兵が通れる道じゃ」
男の視線が、油壺からレティシアへ戻った。
「四万?」
「ガルド軍がこちらへ来ておる」
木こりはそれ以上問い返さず、背後に広がる森を見た。
「大軍が荷車まで連れて通るなら、街道しかない。人だけなら木の間を抜けられるが、馬も車も好きなところへは入れん」
「その街道を見せてくれ」
横からグロムが口を挟んだ。
「王女まで入るのか。俺たちが見て戻れば済むだろ」
「おぬしが見たものを聞くだけなら、分からぬところが出るたび、また森へ戻ることになる。火を置く場所も、戻る道も、わたくしが見ずに決める気はない」
グロムは少し考え、木こりへ顔を向けた。
「危ねえ場所はあるか」
「今の時期なら、獣より足元だ。沢の近くは滑るし、古い道は崩れているかもしれん」
「なら行けるな」
「何を基準に決めたのじゃ」
「獣に食われるよりはましだろ」
反対は終わったらしい。
森へ入ったのは、レティシア、エルン、グロム、木こりの四人と、少し距離を置いて続く護衛二人だけだった。
*
街道は森へ入ったばかりの辺りでは、荷車が二台並べるほど広かった。だが進むにつれて左右の斜面が近づき、空の幅まで狭くなっていく。人一人なら木々の間へ逃げ込めても、馬と荷車を連れた軍が横へ広がるには傾斜がきつく、足元には根と崩れやすい土が重なっていた。
「この先も、ずっと同じ幅か」
「いや。開けるところもある。一番狭いのは、もう少し先だ」
木こりは迷わず歩き、街道の形が変わるたび、斜面の上や枝の重なりへ短く目を向ける。レティシアはその背を追いながら、王都で見た地図を思い出していた。
紙の上では一本の線だった。
実際には、その線の両側へ木が立ち、土が崩れ、水が流れ、登れる斜面と登れない斜面がある。四万を通す側にとっては広い道ほどよいが、止める側から見れば、道が狭いほど数の自由を奪える。
「ここだ」
木こりが足を止めた。
街道は細長い低地へ入り、左右の斜面が壁のように迫っている。前方へ道は続いているものの、脇へ逃げようとすれば、すぐ急な斜面と木々にぶつかる場所だった。
グロムが片方の斜面を見上げる。
「上から街道を見られるな」
「どこからでも、というわけじゃない。あそこは木が薄いから下まで見えるが、逆側は枝が重なって人の動きまでは見えん」
木こりが指した箇所を、エルンが簡単な略図へ落としていく。
レティシアは斜面へ入り、落ち葉を靴先で寄せた。
「火は、どこなら走りやすい」
木こりの顔が険しくなった。
「乾いている場所なら上へ走る。ただし、風が変われば人が思った方向には行かん。沢の近くは湿っているから、そこで弱くなりやすい」
「沢があるのか」
「こっちだ」
街道を外れて斜面を下ると、ほどなく水音が聞こえた。
細い沢が、木の根を避けながら森の奥へ続いている。大勢が並んで通れる幅はなくても、周囲の土は湿り、足を置けば浅く沈んだ。
レティシアはしゃがみ込み、指先で土を押した。
火をつける場所だけでは足りない。火を置いた者が、敵と炎の間へ残らず戻れる道が必要だった。
「この沢は、森の外まで続くか」
「続く。ただ、途中からはもっと狭いし、倒木があれば一人ずつしか通れん」
「五、六人なら使えるか」
「順に通るならな」
エルンの筆が動く。
レティシアは沢から立ち上がった。
「ほかにも、少人数だけが使える道はあるか。街道でなくてよい」
木こりは少し考え、来た方角とは違う斜面を指した。
「昔の炭焼き道ならある。今はほとんど使っていないが、尾根の向こうへ抜けられる」
「そこも見たい」
地図にはなかった道が、森を歩くたびに一つずつ増えていった。
炭焼き道は、道と呼ぶには細すぎた。落ち葉の下へ人が踏んだ跡がかろうじて残り、張り出した枝を避けるため何度も身体を横へ向けなければならない。荷車はもちろん、二人並んで進むこともできない。
それでも斜面を上り切ると、先ほどの街道を上から見下ろせる場所へ出た。
「ここから反対側へ抜けられるのか」
「抜けられる。ずっと使われていないから、途中に倒木や崩れた場所があるかもしれん」
「人が通れぬほどか」
「見てみないと分からない」
レティシアはエルンへ向き直った。
「戻ったら、何人かで最後まで確かめてもらおう。使えるなら、沢とは別の退路になる」
「記録します」
沢も炭焼き道も、戦うために作られた道ではない。森で水を汲み、炭を焼き、木を運んできた者たちの暮らしが残した道を、別の目的へ借りようとしているだけだった。
尾根から街道へ目を戻し、レティシアは木こりへ尋ねる。
「森の向こう側にも村はあるか」
「ある。この先を抜けたところに二つ」
「火が、そこまで走る可能性は」
木こりはすぐには答えなかった。風に揺れる枝と、湿った谷側の斜面を見比べてから口を開く。
「絶対にないとは言えん。この辺りから先は湿った場所が増え、風が北へ流れている日なら向こう側は燃えにくい。だが、火は人の言うことを聞かんぞ」
「分かっておる。だから、お主へ聞いておる」
四万が詰まり、横へ逃げにくい場所だけを選ぶなら、答えは簡単だった。
だが、その火が森を越え、周辺の村まで届けば、ガルドを止める前に、自分たちの土地と暮らしを焼くことになる。敵がいる場所だけを選んで燃えてくれるほど、火は都合よくない。
「ここより先で、街道がもう一度開ける場所は」
「半日も歩かないうちにある」
「なら、その手前を仕掛ける範囲の候補にする。風と湿り方を見て、火が越えにくい場所を先に決める」
グロムが街道を見下ろした。
「全部、いま決めるのか」
「決めぬ。戻る道まで見たあとで、もう一度歩く」
「今、歩いたところだろ」
「一度歩けば全部分かるなら、おぬしは山へ入るたび道を確かめぬのか」
「俺は迷わねえよ」
「ならば、案内役はおぬしでよかったな」
「火の回り方までは知らねえ」
木こりが吹き出した。
グロムは不満そうに睨む。
「何がおかしい」
「王女様と山賊が、ずいぶん普通に喧嘩するんだなと思ってな」
「山賊ではない。山狼衆じゃ」
「そこを直すのかよ」
エルンの筆だけが、やり取りの間も止まらなかった。
レティシアは街道へ目を戻した。
笑っている間にも、ガルド軍は近づいている。それでも、急いで間違えれば、火をつけたあとに直す時間はない。
*
森から戻ると、レティシアは五十人を集め直し、地面へ街道と斜面、沢、炭焼き道を描いた。
前に話した時とは違い、今度は誰をどこへ置くかまで考えられる。
「火を出す場所をいくつかに分ける。点火する者、敵がどこまで入ったかを見る者、合図を運ぶ者に分かれ、全員を一か所へ集めぬ」
小石を点火地点へ、細い枝を退路へ置いていく。エルンは地面の図と帳面の略図を見比べ、班ごとの役目と戻る道を書き加えた。
グロムが山狼衆を顎で示す。
「俺たちは、どこへ入る」
「おぬしたちは一か所へ縛らぬ。予定と違うところへ火が走った時、敵が退路へ入った時、誰かが戻らぬ時に動いてもらう」
「ずいぶん雑な役目だな」
「勝手に動ける者へ、決めた場所から動くなとは命じられぬ。それに、お主なら命じても動くであろう」
「分かってるじゃねえか」
グロムはそれで納得したらしく、山狼衆の者たちと地面の図を囲んだ。
点火班には、森を歩き慣れた者を多く入れた。力があれば油壺は運べても、火を置いたあとに斜面を下り、沢や炭焼き道から戻れなければ意味がない。監視役は、街道を見通せる場所と、合図が届く位置の両方を確かめて配置する。
人数を振り分けるうち、トーマが地面の奥に置かれた小石を指した。
「一番奥は、最後に火をつけて、最後に戻るんですよね」
「そうなる」
「俺、そこへ行きます。走るのは得意じゃありませんけど、荷物を運ぶのには慣れていますし、火をつけて戻るだけならできます」
「戻るだけ、と簡単に申すな。前の班が火を出したあとまで残ることになるぞ」
「分かっています」
トーマは地面の図から目を上げた。迷っているようには見えない。
「では第四班じゃ。勝手に遅れるでないぞ」
「努力します」
「努力では困る」
「では、必ず戻ります」
「最初からそう申せ」
周囲から笑いが漏れたが、レティシアは第四班の帰路をもう一度確かめた。最奥の点火地点から沢までの距離、沢が使えなかった場合の炭焼き道。班を決めるだけでなく、戻れなくなった時にどこへ動くかまで伝えておく。
役割が決まると、その日のうちに仕込みへ入った。
集めた油は班ごとに分け、乾いた落ち葉や枝へ火が移りやすい場所だけへ運ぶ。森全体を油で満たせるほどの量はなく、必要もない。沢へ続く道には目印となる枝を残し、炭焼き道の倒木は、人が一人ずつ通れる幅だけ取り除いた。
使わない道まで整えれば、敵に退路を教えることになる。手を入れる場所は、戻るために必要な分へ限った。
すべてを終える頃には、日が傾いていた。
あとは、ガルド軍が来るのを待つだけだった。
*
翌日になっても、ガルド軍は現れなかった。
レティシアは監視地点から街道の先を見続け、何度目かに木々しか見えないことを確かめると、隣で干し肉を噛んでいるグロムへ顔を向けた。
「遅いのう」
「敵を待って文句を言う奴、初めて見たぞ」
「来ぬなら来ぬで困る。油も人も、いつまでも森へ置いておけぬし、風も湿り方も変わる」
「帰ればいいだろ」
「国境からも帰ってくれるならな」
グロムは返事をせず、残りの干し肉を口へ放り込んだ。
昼を過ぎた頃、偵察へ出ていた男が戻ってきた。走ってきた息を整えるより先に、街道の方角を指す。
「ガルド軍は、まだカレドの先です」
「なぜ止まっておる」
「町で略奪が起きて、隊列を組み直すのに手間取っているそうです。少なくとも半日、もっと遅れるかもしれません」
カレド。
国境から近い町で、四万が通れば最初に何が起きるか、王都の地図だけでは分からなかった場所だった。
「住民の被害は」
「死者が出たという話もあります。詳しくはまだ」
レティシアは街道の先を見た。
自分たちに準備の時間をくれたのは、敵の失敗ではある。だが、その半日はカレドの人間が払った時間だった。
準備はすでに終わっている。遅れたからと仕掛けを増やせば、かえって逃げ道や合図を崩しかねない。
「班ごとの位置と退路だけ、もう一度確かめる。仕込みは増やすな」
第一班から順に回り、目印が残っているか、油壺の口が緩んでいないか、合図を送る位置から次の班が見えるかを確認した。
最後に第四班へ着くと、トーマが油壺の口を縛り直していた。
「まだ来ぬぞ」
「聞きました」
「暇か」
「かなり」
笑いながら紐を引き、緩みがないことを確かめたあと、トーマは手を離さなかった。
「殿下、イルゼのことを話しておいてもいいですか」
レティシアは足を止めた。
「イルゼのこと?」
「はい」
トーマは油壺ではなく、木々の向こうへ目を向けていた。
リンデでイルゼが王家を責めた時も、何をされたのかまでは話していない。苦しい時に何もしなかったことと、取る時だけ命令が届いたことだけでも、あれほど怒る理由には十分だと思っていた。
「イルゼの父親は、配給を隠したんです。見つかって、罪になりました」
「……それで?」
「公開処刑です。王家の命令で。イルゼは、それを見ています」
トーマの手の中で、縛り終えた紐がわずかに軋んだ。
配給をなぜ隠したのかは分からない。家族へ残すためだったのか、売るためだったのか、それとも別の理由があったのか。知らないところを都合よく埋めることはできなかった。
分かっているのは、その後だけだった。
父親は人前で殺され、イルゼはそれを見た。
イルゼにとって王家は、遠い王都で命令を出す存在ではない。父親を連れ出し、自分の目の前で殺した側だった。
知らなかった、と言っても何も変わらない。自分が命じたのではないという言葉も、イルゼが向けていた怒りへの答えにはならなかった。
トーマはレティシアの返事を待たなかった。
「それだけです。知っておいてほしかったので」
「……うむ」
ようやく出たのは、それだけだった。
トーマは油壺の紐をもう一度確かめ、第四班の持ち場へ戻っていく。
レティシアはその背中を見送りながら、リンデでイルゼが叫んだ言葉を思い出した。
みんな、こいつらがこの村で何をしてきたのか分かってる!?
あの時も答えられなかった問いに、いまも返せる言葉はなかった。




