34話 カレド
カレドは、ルミナ西部の国境から内陸へ続く主街道沿いにある町だった。停戦を破って越境したガルド軍四万が、このまま東へ進むなら避けては通れない。
カレドの屋根が丘の向こうへ現れた頃、ガルド軍四万の総司令官ディートリヒは前方ではなく、背後の街道を振り返った。
兵と馬と荷車が道を埋め、列は地形に沿って曲がりながら見える範囲の外まで続いている。先頭が止まれば、何が起きたのかを後ろへ伝えるだけで時間がかかり、荷車が一台横を向けば、その先では事情を知らない兵まで足を止める。四万という数が強さになることは疑いなかったが、同じ数を一つの軍として動かす難しさは、国境を越えてから日ごとに重くなっていた。
それでも、ルミナが正面から迎え撃てる兵を揃えられないことも分かっている。国境を越えて以来、行軍を止める軍はまだ一度も現れていなかった。
「父上」
前方から戻ってきた息子のフランツが、馬を並べた。
「先遣から報告です。カレドにまとまった守備兵はおらず、門も閉じていません。ただ、住民はかなり残っているそうです」
ディートリヒは町の屋根と、その周囲へ広がる畑を見た。
四万の軍が何をしに来たのか、知らない者はいないだろう。それでも、家も畑も家畜も置いて逃げられる者ばかりではない。逃げる先を持たない者もいれば、歩けない家族を残せない者もいる。
「徴発は命じた範囲だけに限る。食料、家畜、長く保存できる物資を優先し、家や倉へ入る時は必ず士官を付けろ。勝手に持ち出した者は処罰すると、兵へもう一度伝えよ」
「分かっています」
フランツはうなずいたものの、前方の部隊へは戻らなかった。
「父上は、まだ反対ですか」
「停戦を破ったことか」
「はい」
「反対している。だが、俺が反対したからといって、四万の軍が国境の向こうへ戻るわけではない」
フランツも町へ顔を向けた。
「何もしなければ、ガルドで人が死にます」
「分かっている。だから、こちらから奪いに来た」
「徴発です」
「軍の命令ではな。カレドの者にとって呼び名など関係ない。冬のために積んだ麦も、育てた家畜も、外国の兵へ持っていかれることは同じだ」
冬までに足りなくなる物があるのは事実だった。王都だけではなく、地方からも同じ報告が上がっている。何もせずにいれば、ガルドで飢える者が出る。
その命を救うため、別の国から食料を奪う。
言葉を整えても、行っていることの形までは変わらなかった。
「それでも、こちらへ来るしかなかったと思っています」
フランツの声に迷いはなかった。
「そうか」
「怒らないんですか」
「意見が違うたびに怒っていたら、親子などやっていられん」
フランツは少しだけ笑った。
その顔を見て、ディートリヒは先ほどから考えていたことを口にした。
「前衛から外れろ」
笑みが消える。
「嫌です」
「今の話を聞いて、その返事か」
「父上の息子だから後ろへ置かれたと思われる方が困ります。俺も王命に従って、ここまで来た兵の一人です」
何度言っても変わらない。王命に従うことも、危険な位置へ立つことも、本人が選んでいる。その選択まで父親の立場で奪うつもりはなかった。
「命令系統から外れるな。独断で先へ出ることも許さん」
「はい」
今度こそフランツは馬首を返し、前衛へ戻っていった。
*
カレドの門は、ガルド軍が着く前から開いていた。
戦うためではない。町側の者たちは武器を持たず、両手が見えるよう道の端へ並んでいる。その前へ士官が進み、徴発する物と量を読み上げた。
最初は、命令どおりに進んだ。
町の倉から穀物が運び出され、家畜が集められ、保存食の樽が部隊ごとの荷車へ積まれていく。持ち出した量はその場で記録し、兵が勝手に持ち去らないよう、倉と集積場所の両方へ士官を立たせた。
ディートリヒは馬を進めながら、その作業を確かめた。
穀物袋を抱えた兵の横で、年老いた女が倉の戸口へ立ち、荷車へ積まれるたびに唇だけを動かして数えている。家畜を引かれていく男は、手綱を離したあとも空いた拳を閉じたままだった。家の前では子供が泣き、母親がその顔を胸へ押しつけている。
命じた量だけを取っている。
士官も付いている。
それでも町の者から見れば、冬を越すために残した物を奪われていることに変わりはなかった。
ガルドでは、この食料を待つ者がいる。
カレドでは、これを失う者がいる。
どちらか一方だけを見れば、命令は簡単だった。
「閣下!」
通りの奥から兵が駆けてきた。
「南の区画で、住民と兵が揉めています。食料の徴発を拒み、倉へ入れないと」
「士官は付いているのか」
「おります。ただ、住民が集まり始めていて――」
「行くぞ」
馬首を南へ向けたところへ、別の兵が反対側から走り込んできた。顔色を見ただけで、先ほどの報告とは違うと分かった。
「閣下」
一度息を吸ってから、兵は続けた。
「住民が一人、死にました」
*
南の区画へ着く前から、人の集まっている場所は分かった。
通りを塞ぐように兵と住民が向かい合い、その中央へ一人の男が倒れている。腹の下に広がった血は、踏み荒らされた土へ吸い込まれきれず、靴跡の間へ細い筋を残していた。
ディートリヒは馬を降り、遺体のそばへ進んだ。
「何があった」
監督していた士官が答える。
「指定された兵糧を出すよう求めましたが、家の者が拒みました。倉へ入ろうとした兵を止めようとして、腕をつかみ――」
「誰が斬った」
一人の兵が前へ出る。抜いたままの剣には、まだ血が付いていた。
「襲われました」
「何をされた」
「腕をつかまれ、押されました」
ディートリヒは倒れた男の周囲を見た。武器らしい物はなく、握っている手も空だった。
「それで斬ったのか」
兵は答えなかった。
処罰を命じることはできる。この一人についてなら、そうするべきだった。
だが、その背後では別の兵が家の戸を開け、穀物袋を運び出している。死んだ男が守ろうとした物を、今度は軍の命令として持っていくためだった。
「剣を預かれ。連れていけ。処分は後で決める」
兵が両側から押さえられ、通りの奥へ下がっていく。
それで終わりにはならなかった。
死者が出たという報せは、士官の命令より早く町へ広がった。
別の通りでは住民が倉の戸を内側から塞ぎ、兵がこじ開けた。家畜へ家族がしがみつき、引き離された者が石を投げる。額へ石を受けた兵が怒鳴り返し、今度は指定されていない家へ踏み込んだ。
「そこは徴発対象ではない! 戻れ!」
士官の声が飛んでも、兵は手にした布袋を放さない。
ディートリヒは人の間を抜け、兵の前へ立った。
「戻せ」
「ですが、閣下。こいつらは対象の物も隠しています。あの家だけではありません」
「だから何だ。命じた物以外を持ち出すなと言った」
兵は袋を抱えたまま口を閉じた。
線は引いていた。
食料、家畜、保存物資。必要な分だけ。士官の監督下で。
だが、その線はガルド軍の側が、自分たちの都合で引いたものだった。家の者から見れば、許可された徴発も、命じられていない略奪も、外国兵が自分たちの物を持っていくという一点で同じだった。
最初の死者が、その違いをさらに見えなくした。
一か所を止める間に別の通りで騒ぎが起き、別の通りへ兵を回せば、今度は集積場所へ戻らない者が出た。勝手に持ち出した荷を部隊の荷へ紛れ込ませる者、家の裏へ隠す者、見つけた酒をその場で飲み始める者までいる。
士官を増やし、処罰を告げ、部隊ごとに点呼を取らせた。
命令は出せる。
だが、四万の軍を動かしながら町で徴発を進める状況では、一つの命令が届くより早く、別の場所で違反が増えていった。
*
日が傾く頃、本来ならさらに先へ進んでいるはずの先頭部隊は、まだカレドを抜けた先で待っていた。
街道へ並んだ兵と荷車は動かず、その後ろには、町の中で何が起きているかも知らない部隊が延々と続いている。新しく積まれた食料を数える者のそばで、行方の分からない兵の名が点呼表へ増えていた。
「再編にどれだけかかる」
副官は部隊ごとの報告を見比べた。
「少なくとも今夜いっぱいは。勝手に持ち出した荷を回収し、点呼を終えなければ、行軍列へ戻せません」
ディートリヒは、カレドを抜けた先の街道へ目を向けた。
失ったのは半日だった。
しかし、四万を動かす軍にとって、半日はその場だけで終わらない。今日着くはずだった場所へ着けなければ、明日の出発も、次の兵糧も、後ろから続く荷車の位置もすべてずれる。一度崩れた列を、翌朝になっただけで元へ戻すことはできなかった。
町の中では、まだ怒鳴り声が続いている。
食料を積んだ荷車は増えた。
その食料で養うはずの四万は、カレドを出られないまま、夜を迎えようとしていた。




