33話 準備
前へ出た五十人は、並んでみても兵の列には見えなかった。
弓を背負う者もいれば、腰へ下げているのは小刀だけという者もいる。鍬を持ったまま来た者、荷車を引く時に使う厚い手袋を帯へ挟んだ者、戦いに使えそうな物を何一つ持たない者まで混じっていた。
レティシアは共同倉庫の前へ長机を出させ、一人ずつ名前と、普段している仕事を聞いていった。
山道なら夜でも歩ける。獣の跡を追える。木を切れる。重い荷を長く運べる。炭焼きの火を扱ったことがある。怪我人を背負って歩ける。
エルンの帳面には、兵種の代わりに暮らしの中で身につけたものが並んでいく。同じ人間の横へ二つ、三つと書き足されることもあれば、剣を握ったことがないという一行だけで筆が止まる者もいた。
その男は、村で荷車を引いている者だった。
「戦えぬ者は、来ても役に立たぬか」
「そんなことはない。戦わずに済むなら、その方がよい」
「四万と戦うんじゃなかったのか」
「戦うことと、五十人で四万へ斬りかかることは同じではない。お主に剣を持たせたところで、正規兵一人を倒す前にこちらが減るだけじゃ」
男は安心したような、余計に分からなくなったような顔で、自分の名の横へ「荷運び」と記されるのを見た。
最後の一人まで聞き終えると、レティシアはエルンから帳面を借り、先頭からもう一度目を通した。
軍として揃ってはいない。
だからこそ、正規軍と同じ使い方をしてはならない。
山狼衆の足、狩人の目、木こりの腕、村人が毎日扱ってきた道具と荷車。四万を正面から押し返す力にはならなくても、別の場所へ戦いを移せば使えるものはあった。
「王都から持ってきた地図を出してくれ」
エルンが書類箱から西部の地図を取り出し、長机の帳面を避けて広げる。レティシアは国境から王都へ伸びる街道を指で追い、一つの地名で止めた。
「場所を変える。ヴァルナ大森林へ行くぞ」
集まった者たちの間で声が上がった。
「国境よりずっと東だろ」
「ガルド軍が、そこを通るのか」
「今の進路を変えなければ通る。馬と荷車を連れた四万が、森の中を好きな場所から抜けることはできぬ。街道へ入ったところで迎える」
グロムが地図を覗き込み、指の先にある森と、そこまで続く道を見比べた。
「そこで五十人で止めるのか」
「五十人だからできることをする」
レティシアは帳面をエルンへ返した。
「まず、油を集めてほしい」
最初に首を傾げたのはトーマだった。
「油ですか」
「できるだけ多くじゃ。リンデだけで足りなければ、ヴァルナまでの村にも頼む」
エルンは帳面へ「油」と書き、その先へ筆を進めなかった。
「殿下、用途まで記録します。ヴァルナで、何にお使いになるおつもりですか」
問いを聞いた者たちが、レティシアへ顔を向ける。
作戦を知らないまま連れていくことはできない。前へ出た時には助けると決めていても、何をするかを知ったあとで同じ選択をするとは限らなかった。
「森に火を放つ」
共同倉庫の前から、声が消えた。
グロムが地図から顔を上げる。
「森ごと焼く気か」
「全部ではない。四万が街道へ入ったところで、複数の場所から火を出す。一か所だけなら避けられ、後ろも異変に気づいて止まれる。じゃが、離れた場所から同時に火が上がれば、前が戻ろうとしても、何が起きたか知らぬ後ろは進んでくる。あの数を、互いの動きを塞ぐ壁にする」
「混乱させて退かせるんですか」
トーマの問いに、レティシアは首を振った。
「退けという命令が全体へ届かぬところまで、軍としての形を壊す。どこへ火を置き、どこから戻るかは、森を知る者と実際に歩いてから決める」
エルンの筆は、まだ動かなかった。
「火計を用いれば、外交問題になります。ガルドが停戦を破った責任とは別に、森林へ火を放ち、多数の兵を死なせた国として扱われるでしょう。周辺諸国が、どちらが先に道理を破ったかまで公平に見てくれるとは限りません」
「先に停戦を破り、四万で国境を越えたのはガルドじゃ。何もせずに火を放つのではない」
「それでも、ガルド兵一人一人が条約を破ったわけではありません。その帰りを待つ家族もいます」
ガルド軍という一つの塊で考えていた四万が、そこで初めて、一人ずつの人間へ分かれた。
命じられて歩いている者もいるだろう。自分からルミナへ来た者もいる。その違いを、森の火が選んで燃えることはない。
レティシアはエルンから目をそらさなかった。
「……分かっておる。先に道理を破ったのがガルドであっても、火を放つと決めたのはわたくしじゃ。その責任まで、停戦違反の一言へ預けるつもりはない」
エルンはすぐには答えず、いまの言葉を帳面へ書いた。賛成の印ではない。誰が何を知ったうえで決めたのかを、消さずに残すための記録だった。
その横で、グロムが鼻を鳴らす。
「俺は構わねえ。こっちへ攻め込んできた奴が何人死のうが、知ったことじゃない」
「俺は、そうは言えないな」
トーマだった。
「敵でも、死んで構わないとは思えません。でも、レティシア王女だけに決めさせて、あとから全部この人のせいにするつもりもない。俺は知ったうえで手を貸します」
二人の考えは同じではなかった。
それでも、グロムもトーマも前へ出た場所から退かなかった。
レティシアは五十人を見渡す。
「ここまで聞いて、降りる者を責めぬ。来ないと決めた者を参加者として扱わず、不利益も与えぬ。知らずに選んだ時とは、話が違うからの」
すぐに声を上げる者はいなかった。
家の方角を見る者、隣に立つ者と短く言葉を交わす者、腰の道具へ手を置く者がいる。それでも、やがて顔がレティシアへ戻ってきても、列から離れる者はいなかった。
最後にエルンを見る。
「おぬしは?」
筆先は止まりかけたが、今度は紙から離れなかった。
「私は記録します。賛成したとも、反対を取り下げたとも書きません。ただ、殿下が何を命じ、誰が知ったうえで同行したかを残します」
「それでよい」
同じ場所へ行く者が、同じ考えになる必要はなかった。
レティシアは地図を畳み、油を記した頁へ手を置く。
「では集める。出発の準備をせよ。ただし、冬まで使う分、仕事に必要な分、家で暮らすために残す分へは手をつけるな。余っている量を、出してもよいと思う者からだけ受け取る」
「そんな悠長なことで足りるのか」
グロムが聞いた。
「足りぬなら、途中の村へ頼む」
「断られたら?」
「次へ行く。困った時だけ王家の命令で取り上げれば、イルゼが申したことを、わたくしがそのまま繰り返すことになる」
集まっていた者たちは、それぞれの家や仕事へ戻っていった。
*
最初の油壺を持ってきたのは、五十人の列へ加わらなかった男だった。
両腕で抱えた壺を共同倉庫の前へ置くと、底が板へ当たって低い音を立てた。
「うちに一壺ある。全部は無理だが、半分なら出せる」
「おぬしは来ぬと申しておったな」
「行かないよ。四万なんて聞いたら足が動かん」
男は壺の口を押さえた布を確かめ、少しだけ肩をすくめた。
「でも、これくらいなら出せる」
戦いに行かないことと、何もしないことは同じではなかった。
レティシアは壺と男を見比べる。
「……借りるぞ」
「返ってくるのか?」
「使えば返せぬ」
「じゃあ借りるじゃないだろ」
周囲に残っていた者から笑いが起きた。
レティシアも別の言葉を探したが、見つからない。
「では、もらう」
「最初からそう言え」
その半壺を始まりに、油が少しずつ集まった。
料理用の油を小瓶へ移してきた女は、冬まで残す分をエルンと確かめてから置いた。灯り用の油を持ってきた老人は、夜の仕事へ必要な量だけを別の器へ戻した。道具の手入れに使う油は、仕事が止まらない範囲だけ分けられた。
エルンは持ち主、用途、受け取った量を一つずつ記し、暮らしへ必要な分を出させていないか、その場で確かめていく。
五十人と一緒に行く者だけが、戦いを支えているのではなかった。
油を出す者がいる。荷を整える者がいる。残る家族や子供、畑や倉を引き受ける者がいる。誰かが村へ残るからこそ、前へ出た五十人はリンデを離れられる。
夕方には、大きさも形も違う壺が荷車の周りへ並んだ。
レティシアは一つずつ数え、最後まで来ると首を傾げた。
「……少ないな」
「余ってる分だけでいいって、お前が言ったんだろ」
グロムに返される。
「言ったが、もう少しあると思っておった」
「村を何だと思ってんだ」
「油の多い村ではないことは分かった」
「今さらかよ」
トーマは笑いながら、運ぶ途中で漏れないよう壺の口へ布を重ねていた。
「途中の村でも頼むんですよね」
「うむ。全部をリンデから出すより、その方がよい。必要なのは森を油で満たす量ではない。火を置く場所へ、確実に移すための分じゃ」
どこへ置くかは、まだ決められない。ヴァルナの森を知る者へ聞き、自分たちで歩かなければならなかった。
*
翌朝、油壺を積んだ荷車が共同倉庫の前へ出された。
山道を歩く者は荷を軽くし、木こりは斧を、狩人は弓を、火を扱う者は布と火口を確かめる。剣や鎧を揃えた軍ではなく、それぞれが普段使ってきた道具を持つ五十人だった。
見送りに来た者は多かったが、歓声はなかった。何をしに行くのか、もう全員が知っている。
レティシアは馬上から人の間を見た。
イルゼの姿はない。
探さなかった。来るかどうかを自分で決めてほしいと言ったのは、レティシア自身だった。
トーマは列の中にいる。腰の荷を締め直し、村の方へ一度だけ目を向けてから前へ戻した。
レティシアも街道の先を見る。
「行くぞ」
荷車の車輪が動き、積まれた油壺が布越しに低く鳴った。その後ろへ山狼衆と村人たちが続き、四万を迎え撃つために、ヴァルナ大森林へ向かった。




