32話 助けて欲しい
王都からリンデまで、レティシアとエルンは馬を替えながら走り続けた。
休めたのは、宿場で鞍を移し、水を飲む間だけだった。会議室で見た西部の地図と、四万という数字が頭から離れない。ヴァルナ大森林で迎え撃つという場所だけは見つけたが、そこで何ができるのかは、リンデへ着かなければ決められなかった。
山を走れる者が何人いるのか。森を知る者、火を扱える者、重い物を運べる者がいるのか。集まる人数と、できることが違えば、使える策も変わる。
王女の名で人数だけを先に決め、命じて連れ出すつもりはなかった。
リンデへ着くと、鞍から下りた脚が一度だけもつれた。エルンも何も言わず、銀縁眼鏡を押し上げるより先に馬の首へ手を置いて息を整えている。
「休まれますか」
「皆が集まるまででよい。村人と山狼衆へ、話があると伝えてくれ」
報せが回る間に顔を洗い、外套の土を払ったが、王都から走ってきた疲れまでは隠せなかった。
それでも、共同倉庫の前へ出ると、戸は閉まらなかった。
畑から鍬を担いで来る者、売り台の品へ布を掛けて駆けてくる者、道仕事を切り上げ、土のついた手を上着で拭いながら加わる者がいる。共同倉庫の前だけでは収まらず、道の端や家の軒先にまで人が立った。
山狼衆も来ていた。グロムは前の方で腕を組み、その後ろには道路仕事で見た顔がいくつも並んでいる。少し離れたところには、トーマとイルゼが立っていた。
以前なら、王女が来たと聞いただけで姿を消した村だった。
今日は、何を言われるのか分からないまま、これだけの者が自分から集まっている。
最後に来た者が人の輪へ入るのを待ち、レティシアは口を開いた。
「ガルドが停戦を破り、四万の兵で西部国境を越えた。なぜ攻めてきたのかは、まだ分かっておらぬ。ルミナの主力はフェルンへ出ており、呼び戻しても間に合わず、残った兵だけでは正面から四万を止められぬ」
四万という言葉が届くと、集まった者たちの間へ声が走った。
「四万?」
「王都の軍でも止められないのか」
「主力が戻るまで、どこかで持たせられないんですか」
「橋や狭い道で遅らせる準備は始めておる。住民の避難も、主力を戻す使者も出した。それでも、必要な日までは止められぬというのが軍務の判断じゃ」
問いへ答えるほど、ざわめきは小さくなった。四万と聞いた時より、戦える兵が間に合わないと分かったあとの方が、人々の顔から声が消えていく。
村人の一人が、鍬の柄を握ったまま尋ねた。
「王都は、どうするつもりなんです」
「もう一度、停戦を結べるか交渉する。そのためには、こちらから何かを差し出さねばならぬ」
「何をです」
「まだ決まっておらぬ。土地か、物資か、人か、それすらな」
誰かが息を呑んだ。
レティシアは、その反応から目をそらさなかった。
「わたくしは、それをしたくない」
「では、どうするんです」
「戦う」
止まりかけていた声が、今度は大きく戻った。
「四万と?」
「そうじゃ」
「ここに正規兵はいませんよ」
「分かっておる」
すぐに続きが出ないまま、集まった者たちの視線だけがレティシアへ向けられた。
王女として命じれば、何人かは断れずに前へ出るかもしれない。徴発と呼べば、道具も食料も集められるだろう。
だが、それでは、リンデで作ってきたものを自分の手で壊すことになる。
レティシアは、身体の横へ下ろしていた両手を握り、もう一度開いた。
「助けてほしい」
返事はなかった。
拒まれたわけでも、受け入れられたわけでもない。鍬を持った者も、幼い子を抱く者も、山狼衆も、互いの顔を確かめるように見ている。馬を急がせてきた呼吸より、待つ間の方が長く感じられた。
それでも、考える時間まで王女の力で奪うつもりはなかった。
沈黙の中で、グロムが腕を解いた。
「具体的に、何をする」
「まだ決めきれておらぬ。四万と正面から斬り合う気はないが、十人でできることと百人でできることは違う。来てくれる人数も、その者たちが何をできるのかも分からぬまま策だけ決めれば、動かす手が足りずに終わる」
何人かが顔を見合わせた。
「作戦も決まっていないのか」
「場所の当たりはつけておる。じゃが、そこで何をするかは、使える力を見てから決める」
「勝てるのか」
今度の声がどこから出たのか、レティシアには分からなかった。
答える前に、一度だけ息を整える。
「勝つつもりでおる。勝てると分かっておるなら、最初から助けてくれとは頼まぬ」
その言葉を聞き終えると、グロムが人の列から一歩だけ前へ出た。
レティシアの横へ並ぶわけでも、何かを宣言するわけでもない。ただ前へ出た場所に立ち、そこから動かなかった。
「……来てくれるのか」
グロムは答えず、顎をわずかに上げた。
後ろにいた山狼衆の男が、その背を見て顔をしかめる。
「頭が行くなら、俺も行く」
「お前は勝手についてくんな」
「じゃあ残るのか?」
「そうは言ってねえだろ」
張りつめていた人の輪から、小さな笑いが漏れた。
それをきっかけに、山狼衆からもう一人が前へ出る。村人の側でも、道路仕事で何度か見た男が足を進めた。隣の者が反射的に腕をつかんだが、二人が短く言葉を交わすと、その手は離された。
一人が動くたび、次の一人が自分の足元を見る。
エルンは誰にも署名を求めず、前へ出た者の名だけを帳面へ記し始めた。五人になり、八人になり、十二人を越える。王都で聞いた四万は、どれだけ考えても減らなかったが、リンデでは反対側の数が一人ずつ増えていった。
二十人へ届く少し前で、その流れが止まる。
「俺も行きます」
列の後ろからトーマが出てきた。
穏やかな顔はいつもと変わらず、そのままグロムたちの側へ立つ。
「トーマ」
「俺にできることがあるなら、力を貸します」
「待って」
鋭い声が人の間を割った。
イルゼがトーマの後ろから前へ出る。向けられた目はレティシアではなく、すでに足を踏み出した村人たちへ向いていた。
「みんな、こいつらがこの村で何をしてきたか分かってるの? 食べる物がなくても、病人が出ても、王都から助けになんて来なかった。リンデがどうなっても放っておいて、取る時だけ命令を寄越した王家が、自分たちが困った途端に助けてくれって言ってるんだよ!」
笑いの名残が消えた。
前へ出た者たちの何人かが、レティシアから顔をそらす。残っていた者の中には、深くうなずく者もいた。
イルゼの言葉は、初めてリンデへ来た日に閉ざされた戸と同じ場所から出ていた。道を直し、働いた者へ賃金を払い、売り物を本人のものにしたところで、それ以前に王家が何をしてきたかまで消えるわけではない。
自分が変えたものを並べれば、反論はできる。
だが、その反論で昔の王家まで正しくなることはなかった。
「イルゼ」
トーマが呼ぶ。
「何よ」
「俺も王家を良く思ってるわけじゃないし、イルゼの言ってることも間違ってない。でも、レティシア王女はいい奴だと思う。だから俺は、王家に命じられたんじゃなく、この人に力を貸したい」
トーマはそれ以上、王家を庇わなかった。
イルゼはすぐには返さず、唇を強く結んだままレティシアを見る。やがて顔を背けると、人の輪を抜けて道の向こうへ歩いていった。
誰も追わなかった。
レティシアも呼び止めない。
その姿が家の陰へ消えてからも、すぐに話す者はいなかった。前へ出た者と残った者が、先ほどまでとは違う顔で互いを見ている。
イルゼの言ったことは間違っていない。
それを認めたまま、レティシアはもう一度、集まった者たちへ向き直った。
「……それでも、助けてほしい」
最初より小さな声だったが、今度は誰一人として聞き逃さなかった。
「行くよ」
村人の中から、一人の女が前へ出た。
隣にいた男が驚いて、その袖をつかむ。
「お前、子供はどうする」
「姉に頼む。あんたは?」
「俺は……」
男は残った者たちを一度振り返り、しばらく迷ったあと、女の隣へ並んだ。
「じゃあ、俺も行く」
「夫婦で来る必要はないぞ」
グロムが言うと、女はすぐに睨み返した。
「あんたに決められたくないね」
「好きにしろ」
また一人が増えた。
止まっていた流れは、今度はゆっくりと動き出した。誰かにつられて飛び出すのではなく、隣の者と話してから前へ出る者、足を踏み出しかけて元の場所へ戻る者、家の方角を見て最後まで残る者がいる。
それでよかった。
レティシアは、来ない者の顔を数えなかった。断ることも含めて、自分で決めてもらうために頼んだのだ。
前へ出た者が三十を越え、四十へ届くと、また動きが鈍くなった。
山狼衆の一人が後ろを振り返る。
「お前、来ねえのか」
「俺は弓なんて引けねえよ」
「俺も下手だ」
「お前と一緒にするな」
言い返した男は、しばらくその場へ残ったあと、悪態の続きを飲み込むように前へ出た。
四十を越えても、同じように一人ずつ増えていく。最後には、道の端で長く迷っていた若い男が、両手を握りしめたまま列へ加わった。
エルンが名前を確認し、頁の下へ人数を書き込む。
およそ五十人。
四万と並べれば、数え間違いのように小さい。
だが、王都を出た時には一人もいなかった。ここにいる者たちは、命じられて並んだ兵ではなく、まず力を貸す意思を自分で示した者たちだった。何をするのかを知ったあとで、それでも残るかは、もう一度自分で決めてもらえばよい。
レティシアは五十人ほどになった列を端から見直した。
「来てくれた者が、何をできるのか聞かせてほしい。そこから五十人でできることを考える」
グロムが片眉を上げた。
「そこからか」
「そこからじゃ」
「四万相手に?」
「四万相手にじゃ」
声にすると、数の差は何一つ縮まらなかった。
それでも、今度は誰も笑わなかった。




