31話 4万
リンデから王都へ戻るたび、レティシアの机には本が増えた。
街道を直せば流通を知らなければならず、物を売れるようにすれば税と備蓄が気になり、国境を越えて商人を呼べば、今度は条約と外交まで読まなければならない。一つ分かると、その向こうへ知らないことが二つ現れるため、読み終えた本より、次に読む本の方が早く積み上がっていった。
その日の午後も、前の頁にあった数字と新しい表を見比べていると、扉を叩く音がした。
「殿下」
エルンの声と重なるように扉が開く。
返事を待たずに入ってきたことだけで、いつもの報告ではないと分かった。銀縁眼鏡の奥に焦りは見えなかったが、書類箱を抱える腕には、走ってきた名残がわずかに残っている。
「ガルド軍が西部国境を越えました」
レティシアは開いていた本から顔を上げた。
「ガルドが? 停戦中じゃぞ」
「先方から破棄の通告はありません。国境守備隊から第一報が届いたあと、別の経路でも越境が確認されました。行き違いや、少数部隊の誤進入ではありません」
約束が残ったまま、兵だけが国境を越えている。
「なぜじゃ」
「分かっていません。緊急会議が招集されています」
栞を挟そうと伸ばした指を止め、レティシアは本を閉じた。どこまで読んだかは、戻ってから探せばよい。
「行こう」
*
会議室には、すでに二十人近い者が集まっていた。
財務、内務、軍務の三大臣だけでなく、国境守備、外交、輸送に関わる者まで長卓を囲み、普段なら空いている壁際にも補助の机が出されている。中央にはルミナ西部の地図が広げられ、西の国境から王都へ続く街道沿いへ、急いで置かれた小札がいくつも並んでいた。
レティシアが席へ着いたあとも報告書が運び込まれ、最後に王が入ると、椅子を引く音まで一斉に止まった。
「始める。報告を」
軍務大臣が立ち、最初の書状を開いた。
「本日、ガルド軍が西部国境を越えました。複数の守備隊から同様の報告を受けており、組織的な侵攻であることは間違いありません」
「兵数は」
「現時点の推定で、四万です」
長卓のどこかで椅子が鳴った。
地図へ向いていた顔が一斉に上がり、低く聞き返す声と、息を呑む音が重なる。軍務官が国境沿いへ置いた小札は、地図の上では指先ほどの印にしか見えない。それが四万人の足と武器へ変わるまでには、想像が追いつかなかった。
王は周囲のざわめきが収まるのを待たずに尋ねる。
「先遣だけの数か」
「後続まで含めた推定です。多少の増減はあるでしょうが、規模そのものが変わるほどではありません」
「停戦破棄の通告は」
「届いておりません」
理由も告げず、四万を揃えて国境を越えた。交渉の手順を誤ったという数ではなく、最初からルミナへ入るために動かしてきた数だった。
「こちらは、どれだけ出せる」
軍務大臣が別の紙を開き、王都守備、近隣の駐屯地、短期間で招集できる地方兵を順に読み上げる。数字は足されるたびに増えていったが、最後まで四万には届かなかった。
「各地の守りを削れば」
「削っても、正面から当てられる数にはなりません。ほかの国境と王都を無防備にしてもです」
答えは早かった。
数字を軽く見せる男でも、恐怖を煽るために重くする男でもない。その軍務大臣が迷わず否定したことで、会議室から最初のざわめきが消えた。
「フェルンへ出した主力を戻せ」
「使者は直ちに出します」
軍務大臣は北へ置かれていた主力の札から、王都へ戻る道を指でなぞった。
「ただし、命令が届き、軍をまとめ、こちらへ戻るまでには日数が必要です。その間もガルド軍は進みます」
「どちらが早い」
「ガルドです」
主力が失われたわけではない。戦える兵はいる。
ただ、間に合わない。
王は地図を自分の側へ引き寄せた。
「ならば、戻るまで持たせる」
軍務大臣は街道沿いにある橋、狭路、城塞へ順に指を置き、細い札で守る線を作っていった。
「兵を分散させず、進路を絞れる場所だけを守れば、進軍を遅らせることはできます」
「何日だ」
軍務大臣は、すぐには答えなかった。地図上の距離と、手元の兵数をもう一度確かめてから、守りの札を一つずつ戻していく。
「主力の帰還まで保たせることはできません」
王の指が、街道の途中で止まった。
内務大臣が、引かれた防衛線の外側へ残る町の名を読み上げた。
「守る地点を絞れば、線の外へ置かれる町と村が出ます。避難は直ちに始めますが、兵が退く速さで住民全員を動かすことはできません」
「歩ける者から先に逃がせ」
「その手配は進めます。ただ、病人、怪我人、幼い子を連れた家族、家財を捨てなければ動けない者もおります。町は、地図の線と同じ速さでは移りません」
内務大臣は防衛を否定したのではない。できる避難は始める。そのうえで、守る線を引けば何が外へ残るかを、消さずに卓上へ置いている。
財務大臣が兵糧と輸送の表を広げた。
「防衛線を維持するための食料は、短期間なら王都と周辺の備蓄から回せます。ただし、その分は別の土地の倉から抜くことになり、運ぶ荷車にも護衛が要ります。街道を一つ失うたび、届けられる量は減ります」
「金は出せるか」
「金は後から補えます。食料も平時なら買えるでしょう。しかし、必要な場所へ必要な日までに届かなければ、帳簿に残っていても無いのと同じです」
軍務大臣が、防衛線の札へ手を添えた。
「時間は稼げます。ですが、必要な時間までは稼げません」
一つの案が出るたび、別の者が、その案で守れないものを卓上へ置いた。
兵を集める。主力を戻す。橋や狭路で遅らせる。住民を逃がし、兵糧を運ぶ。
どれも実行する。どれも間違ってはいない。
それでも、すべてを足したあとに四万が残った。
王はしばらく地図を見たまま黙り、やがて低く口を開いた。
「……再停戦は」
財務大臣が答える。
「交渉は試みるべきです」
「条約を破った相手だぞ」
「信用するためではありません。四万と戦う以外の道が残っているか、確かめるためです」
それならレティシアにも分かった。話し合えるかを確かめることと、相手を信じることは違う。
「何を条件にする」
王の問いに、財務大臣の返事がわずかに遅れた。
「こちらから何も出さず、ガルドが兵を退くとは考えにくいでしょう」
その一言だけで、胸の奥へ嫌なものが引っかかった。
内務大臣が、先に口を開く。
「何を差し出すにしても、一つの地方だけへ負担を押しつける形にはできません。土地であれ物資であれ、人であれ、失った後に暮らしを戻せるかまで見なければ」
「承知しています。だからこそ、まだこちらで選べるうちに、失う範囲を定めるのです。四万と戦い、どこから何を失うかさえ分からなくなるより、その条件で侵攻を止められるのであれば――賢明な譲歩が必要です」
「……また、それか」
静まり返った会議室へ、レティシアの声が思った以上に通った。
学習室の教本にも、父が頭を下げた日の記録にも、遠い国へ嫁いだ姉の婚姻にも、いつも同じ言葉が正しい顔で添えられていた。
財務大臣が口を閉じる。
レティシアは椅子から立ち、長卓の向こうを見た。
「いつまで、差し出すことで国を守ったことにするつもりじゃ!」
怒鳴り返す者はいなかった。
財務大臣は手元の紙を閉じ、内務大臣も防衛線の外へ残る町から目をそらさない。誰も好きで差し出そうとしているわけではなく、四万を止める兵がいないから、残された損失を選ぼうとしていることくらい分かっていた。
それでも、危機が来るたび、何を守るかより先に、何なら失ってよいかを決める国であり続けることだけは受け入れられなかった。
「ならば、どうする」
王の声は静かだった。
「差し出さぬと言うなら、その四万をどう止める」
軍務大臣も続ける。
「殿下には、何か策がおありですかな」
責める口調ではない。本当にあるなら出せ、と求めている。
レティシアはすぐには答えず、卓上の地図へ目を落とした。
西部国境から王都へ向かう街道、その途中にある町と川、橋、山。軍務大臣が守れる場所として置いた札も、防衛線の外へ残る町も、まだそこにある。
四万を四万のまま受ければ、どこでも足りない。
視線が、一つの地名で止まった。
ヴァルナ大森林。
王都の地図では、街道を覆う緑の帯にしか見えない。だが、馬と荷車を連れた四万なら、まず街道を使うはずだ。もし森の中で横へ広がれない場所があるなら、先頭が止まっても後ろまで同時には止まれず、前が戻ろうとする時にも、後ろは何が起きたか知らないまま進んでくる。
正面で受ければ、四万は力になる。
狭い道へ入れば、同じ四万が互いの動きを塞ぐかもしれない。
まだ足りない。森の中が実際にどうなっているかも、必要な人数も、その人数で何ができるかも分からない。地図の上だけで作戦を完成させれば、リンデへ行く前に帳簿だけで村を分かったつもりになった時と同じになる。
それでも、正面から戦う以外の場所は見つかった。
そこで迎え撃つと決めれば、失敗したあとに譲歩へ戻ることはできない。周辺国も見るだろうし、使う手によっては、勝ってもルミナへ別の傷が残る。
次はないかもしれない。
そこまで考えても、地図から目は離れなかった。
「……ある」
声は、自分の耳へ届くほどしか出なかった。
軍務大臣は何も返さない。聞こえていなかった。
レティシアも、形になっていない策を会議の勢いだけで言い直そうとはしなかった。
*
会議は、主力へ帰還命令を出し、住民の避難を始め、防衛線の準備と再停戦の使者を同時に進めることを決めて終わった。
レティシアは席を立つと、そのまま廊下を進んだ。後ろからエルンが追いついてくる。
「どちらへ向かわれますか」
「リンデじゃ」
「会議でお考えになっていた策と関係が?」
足を止め、エルンへ向き直る。
ヴァルナで迎えるという場所だけは見えた。だが、何人が力を貸してくれるのかも、山を走れる者が何人いるのかも、森を知る者や、重い物を運べる者がいるのかも分からない。先に作戦を決めても、それを動かす手がなければ意味はなかった。
「皆の力を借りに行く。来てくれる者と、できることを見てから、四万を止める形を決める」
「王命は」
「作戦もまだ決まっておらぬのに、許可を求めるものがない。父上にはリンデへ向かうことだけ伝える。待っておれば、ガルドの方が先にヴァルナへ着く」
エルンは反対を口にせず、抱えていた帳面を開いた。
「出発時刻を記録します」
その日のうちに馬が用意された。
西部へ向けて動き始めた防衛の人と荷を横目に、レティシアとエルンは王都を出る。四万を止める策はまだ紙にも書けず、力を貸してくれる者も一人も決まっていなかった。
それでも、必要な答えが王都の長卓にはないことだけは分かっていた。




