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レティシア ~小さな王女の国づくり~  作者: yurihina
2章 最初の外交
30/42

30話 牝馬ティル

 レオンの軍が王都を出てから数日が過ぎても、町の門はいつもどおり開き、朝になれば市場へ人が集まった。


 それでも、軍が使っていた場所へ行けば、何が出ていったのかはすぐに分かる。訓練場では残った兵が互いの間隔を広く取り、軍用荷車の置場には、乾いた土へ幾重もの車輪跡だけが刻まれていた。


 決算後の処理を終え、リンデへ戻る馬車と護衛馬を確かめるために王家の厩舎へ入ると、そこにも不在が音になって残っていた。


 普段なら軍馬で埋まっている馬房が何列も空き、敷き藁も飼葉桶もきれいに片づけられている。蹄が床を打つ音も、鼻を鳴らす声も少ないぶん、厩務員の足音が建物の奥まで響いていた。


 軍馬の区画に多く残っていたのは、まだ騎乗には早い幼馬、治療中の馬、長い行軍から外された老馬、繁殖のために残された馬たちだった。それぞれの区画を通り過ぎ、帰路に使う馬車馬の状態を確認していると、奥から若い馬の声が聞こえた。


「幼馬の区画も見てよいか」

「もちろんです。ただ、まだ訓練前の馬もおりますので、柵の中へは入らないでください」

「分かっておる」


 返事をしながら進むと、馬房ごとに管理札が掛けられていた。生まれた月、性別、毛色、成長記録。その下には、軍馬、馬車馬、繁殖馬のうち、将来どこへ回す予定かが書かれている。まだ確定ではなくても、ほとんどの札には何らかの行き先があった。


 一枚だけ、用途の欄が空いていた。


 レティシアが足を止めて馬房を覗くと、奥に濃い銀灰色の牝馬が立っていた。生後六か月。脚と鼻先、耳の周りは身体より色が濃く、たてがみには黒い毛が混じっている。同じ月齢の幼馬より身体は細く、背も少し低かったが、病んでいるようには見えない。


 近くで厩務員が水桶を置き直した拍子に、留め金が床へ当たって硬い音を立てた。周囲の幼馬が一斉に身体を揺らし、中には馬房の奥へ逃げるものもいたが、銀灰色の牝馬だけは四本の脚を止めたまま、耳を前へ向けて音のした場所を見ていた。


「驚いておらぬのか」

「驚いてはいます。ただ、逃げる前に何が鳴ったのか確かめるんです」


 世話役が引き綱を持ち、通路へ出るよう促した。牝馬はすぐには動かず、もう一度、今度は少し強く引かれると、前へ出るどころか四肢を踏ん張る。


 世話役は力比べをせず、引き綱を緩めて進む先から半歩退いた。牝馬は耳を左右へ動かし、通路と周囲の人間をしばらく確かめたあと、自分から一歩を出す。


 その一歩でまた止まり、次に進むかどうかを考えていた。


「頑固なのか、慎重なのか、どちらじゃ」

「扱う者によって答えが変わります。力で動かそうとすれば頑固な馬ですが、待てば自分で確かめて進みます」


 レティシアは牝馬の動きを見たあと、馬房の札へ戻った。


「この馬だけ、なぜ行き先が決まっておらぬ」


 厩舎の責任者が成長記録を開く。


「同じ月齢の馬より育ちが遅く、大型の軍馬になるほどの体格は期待しにくいんです。合図に合わせて集団で動く訓練にも向かず、強く引けば、いまのように動かなくなります」

「病ではないのじゃな」

「健康です。ただ、育てた先で何に使えるのかが、まだ見えていません」


 銀灰色の牝馬は通路へ出た一歩から進まず、こちらを見ていた。ほかの札には将来の役目が先に書かれているのに、この馬だけは、決められないことそのものが空欄になっている。


「何に使えるか分からぬのなら、まだ何にもなれぬと決まったわけではあるまい。用途を決めぬまま育てよ。わたくし付きの育成馬として様子を見る」


 責任者は記録を閉じず、確認するようにレティシアを見た。


「殿下の騎乗馬として、でしょうか」

「それを決めるには、まだ早いのであろう。用途を埋めるために引き取るのではない。空けたまま育てるのじゃ」


 責任者はすぐにうなずかず、管理を移すために必要な条件を一つずつ確かめた。


 王家の所有は変えず、レティシア付きの育成馬とすること。飼料費を別に確保し、担当の世話役を付け、成長の様子を月ごとに記録すること。まだ六か月なので騎乗を急がせず、日々の扱いは馬を知る者の判断を優先すること。


「それでよい。わたくしが付きにしたからといって、わたくしの都合で急がせるな」


 条件がまとまると、新しい管理札が運ばれてきた。書き手が所有と管理先を記し、用途の欄へ筆を移す。


「そこは空けておけ」


 筆が止まり、隣の名前欄へ移った。


「名はございますか」


 昔読んだ古い書物の中から、一本の剣を思い出した。


「ティルフィングというのはどうじゃ。聖剣の名じゃぞ」


 書き手は筆を構えたまま、名前欄の幅を見た。レティシアも同じ欄へ目をやり、最後まで入れれば文字がひどく窮屈になることに気づく。


「……長いのう。ティルでよい」


 今度は筆が動いた。


 用途の欄は空いたまま、その隣へ「ティル」と書き込まれる。新しい札が馬房へ掛けられても、銀灰色の牝馬は名前を得たことなど知らず、通路の途中から動かなかった。


 世話役から少量の飼料を受け取り、レティシアは掌へ載せてみた。


「ティル」


 呼んでも、耳がこちらへ向いただけで足は動かない。


 しばらく待つと、鼻先がわずかに伸びた。あと少しなら届くと思い、レティシアが飼料を載せた手を近づけると、その瞬間にティルの動きが止まった。


「殿下、いまは餌桶へ置いて、馬房の外まで下がってください」

「もう少しで届くぞ」

「そのもう少しを、こちらから詰めない方がよい馬です」


 レティシアは言われたとおり、飼料を餌桶へ移してから数歩下がった。ティルはすぐには近づかず、空いている馬房、世話役たち、餌桶の順に視線を動かしている。


「まだ名を気に入っておらぬのか」


 耳が一度だけ動いた。


「返事はしたようです」

「では、悪くはないな」


 レティシアは呼び直さず、手も伸ばさなかった。


 やがてティルが、自分から一歩を出す。そこでまた周囲を確かめ、次の一歩へ移るまでには、最初より長い時間がかかった。


 レティシアはもう距離を詰めず、名を得たばかりの牝馬が、自分で餌桶まで歩いてくるのを待っていた。


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