↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レティシア ~小さな王女の国づくり~  作者: yurihina
2章 最初の外交
28/42

28話 変わり始めた村

 九月に入っても、リンデの昼には夏の名残があった。


 土の道は陽が高くなるほど乾き、荷車が通れば細かな砂が舞い上がる。畑では収穫を待つ作物が風に揺れていたが、豊作と呼べるほどには実っておらず、傾いた柵も、補修の終わらない家も、閉じたままの戸も残っている。


 アイゼンベルグから戻って、二か月近くが過ぎていた。


 村の景色は急には変わらない。それでも共同倉庫の前には、六月にはなかった朝の音が増えている。


「先月より高いな」


 売り台の前で、干し肉を二包み持った男が値札を見直した。


「前の値だと、塩と薪を引いたら俺たちの取り分がほとんど残らなかったんです」


 トーマは値を下げず、男の返事を待った。


 男は二包みを掌で量り、片方を台へ戻すと、一包み分の銅貨だけを差し出した。トーマも残された品を勧め直さず、受け取った硬貨の表裏を確かめてから腰袋へ収め、売れた数を手元の小片へ一本記す。


 レティシアは二人のすぐ脇を通り、共同倉庫へ入った。


 以前なら、値が変わったと聞けば理由を尋ね、いくらなら売れるかまで口を出していたかもしれない。いまはトーマが自分で費用を数え、買う側も高いと思えば一つだけを選ぶ。王女が横を通っても、二人の商売は止まらなかった。


 売り場も、最初の一枚板だけでは足りなくなっている。空箱や伏せた籠、荷車の端まで使って、乾燥薬草、削った農具の柄、継ぎ直した木椀が並び、それぞれに値札と、品ができるまでの仕事を記した札が付いていた。


 王女が来たからといって家へ引っ込む者はいない。歓迎の声が上がるわけでもなく、目が合えば短く頭を下げる者が増えた程度だったが、それで十分だった。


     *


 倉の長机には、六月から八月までの帳面が積まれていた。


 何度も開かれた頁の端は丸まり、訂正線の脇へ違う墨で数字を書き足したところもあれば、余白を埋めるように原因と直し方が残されている。


 最初の月は、売れると思って干し肉を作りすぎた。次の月は値を下げすぎ、塩と薪を引くと加工した者の取り分がほとんどなくなった。薬草では、乾燥させる前と後の重さを同じものとして扱ったせいで、帳面上の量が合わなくなっている。農具の貸し出しでは、借りた者の名を書かなかった鍬が一本、まだ戻っていなかった。


 帳面を整理していた男が、訂正の多い頁を持ち上げる。


「この頁は、もう使わない方が見やすいんじゃないでしょうか。正しい数字だけ、次へ書き直せます」

「間違えたところを消せば、次に同じ数字が合わなくなった時、何を直したのか分からぬ。正しい額だけではなく、なぜ違ったのかまで残せ」


 アイゼンベルグの工房で見た、折れた剣と古びた札が浮かんだ。


 三百年分の失敗は、すぐには持てない。それでも、最初の失敗を捨てずに次へ渡すことなら、今日からできる。


 男は頁を破らず、訂正理由の横へ確認済みの印を加えた。


 奥の机で別の帳面を見ていたエルンが、最後の頁を閉じる。


「八月分までの照合が終わりました。品を渡した後の記入漏れが三件ありますが、担当した者が相手と数量を確認中です。明日までに再照合する予定になっています」

「誰を呼べばよい」

「すでに担当者が動いております」


 レティシアが開きかけた口を閉じる間にも、問題の頁は確認を担当する者へ渡され、帳面は次の机へ移っていった。


 数字が合わないと聞けば、以前なら自分で事情を聞き、誰がどこを直すかまで決めようとしただろう。いまは間違いが見つかったあとに誰が確かめ、いつまでに戻すかまで、レティシアが口を挟む前に決まっていた。


 少しだけ手持ち無沙汰になり、別の帳面を引き寄せる。


 売買とは違う支払いが一つ混じっていた。


 石運び――四人。


 作業時間と、一人ずつへ渡した額は書かれているが、何のために石を運んだのかがない。


「この石運びは、何の仕事じゃ」


 帳面を受け取りに来た男が振り返った。


「西の道の穴を埋めました。雨が降るたび荷車が沈むので、使う者同士で、毎回押し上げるより直した方が早いだろうって話になって」

「誰が直せと決めた」

「道を使う者たちです」

「費用は?」

「荷車を出す者と、倉へ品を運ぶ者で出しました。石を運んだ四人には、そこから払っています」


 男は説明を終えると、許可を求めるでも、褒められるのを待つでもなく、帳面を抱えて出口へ向かった。


「……わたくしには聞かなかったのか」


 足だけが止まる。


「使う者で決めました」


 悪びれた様子もなく答え、今度こそ倉を出ていった。


 何も決めることが残っていない。


 そうなるように作ったはずなのに、少しだけ面白くなかった。


     *


 倉の外へ出ると、西の道では、何人かが砕いた石の上へ土をならしていた。


 空になった籠を下ろした者が作業札へ印を受け、その場で硬貨を受け取る。その横では、次の石を積んだ籠がもう運ばれていた。


 レティシアが窪みへ近づくと、土をならしていた男が顔を上げる。


「殿下、そこはまだ踏まないでください。下が固まってません」

「う、うむ」


 一歩退く。


 男はすぐ作業へ戻り、どこへ石を足すか、次に誰が土を運ぶかを仲間へ伝えた。レティシアへ判断を求める者はいない。


 六月には、新しいことが起きるたび、誰かが王女の判断を待っていた。いまは許可を求める言葉より、こうしたいという相談の方が増えている。何人必要か、いくらかかるか、誰が負担するか。うまくいかなければ、次はどこを直すか。


 失敗がなくなったわけではない。値札を置いても一つも売れなかった品があり、相談せず始めた仕事が材料不足で止まった日もある。それでも、何か一つ失敗するたびに、村全体が命令待ちへ戻ることはなかった。


「わたくしが決めずとも、進むようになったのじゃな」

「殿下が決めた範囲の中で、皆が続きを決めています」


 エルンは道路仕事の記録へ目を通したまま答えた。


 嬉しいはずだった。


 自分がいなくても動く仕組みを作ろうとしていたのだから、望んだ通りである。朝食を取っている間にも品が売れ、倉で帳面を読んでいる間にも道が直る。


 望んだ通りなのに、何も聞かれないことが少しだけ寂しい。


 街道の先から車輪の音が聞こえ、考えるより先に顔が上がった。


 アイゼンベルグの方角から荷車が来るたび、この二か月、同じことをしている。ヴィクトルは来るとは言わなかった。「考えます」と条件書の写しを持ち帰っただけで、手紙一つ届いていない。


 乾いた道の向こうに現れた荷車には、刈り取った草が山のように積まれていた。


 御者はレティシアへ短く頭を下げ、補修中の場所を避けて倉の裏へ回っていく。


 レティシアは何もなかったように帳面へ目を戻した。


 エルンも、顔を上げた理由を記録しなかった。


 九月になっても、アイゼンベルグから商人は一人も来ていなかった。


     *


 それから数日後、昼前になって、見張り台から荷車の到着が告げられた。


「アイゼンベルグ方面から一台。王家の旗はなく、護衛もおりません。御者台に一人、荷台には布を掛けた木箱が積まれています」


 報告を聞いた村人たちは、王都から塩か紙が届いたのだろうと話していた。この二か月で、リンデへ入る荷車は少しずつ増えている。その多くは王家が手配した不足品だった。


 レティシアも、すぐには商人だと思わないようにした。


 期待して、違ったことはもう何度もある。


 それでも共同倉庫の前へ出る足は、いつもより少し速かった。


 トーマは売り台の布を直しており、狩りから戻ったばかりらしいイルゼも、弓を肩へ掛けたまま街道の先を見ている。


 やがて乾いた道の向こうから馬の頭が現れ、続いて一台の荷車が姿を見せた。


 村へ入る手前で車輪が揺れる。


 以前なら、深い穴へ落ちて止まっていた場所だった。


 荷車は埋め直された石の上を越え、少しだけ車体を傾けただけで、そのままリンデへ入ってくる。


 荷台は大きくない。長旅に慣れた商隊の列でも、国から派遣された運搬隊でもなかった。


 あの広場で示した通りの、荷車一台だった。


 御者台の男が手綱を引く。


 使い込まれた上着。腰へ下げた、角の擦り切れた帳面。


 顔が分かる距離まで近づき、ようやく見間違いではないと分かった。


 ヴィクトルだった。


     *


 荷車は、売り台の少し手前で止まった。


 ヴィクトルは御者台から降りると、まず馬の首へ触れ、蹄と車輪を確かめてから手綱をまとめた。長い道を一人で越えてきた者の動きで、誰かに迎えられる前に、自分の荷を最後まで見ている。


 レティシアは気づけば一歩前へ出ていた。


「本当に来たのじゃな」

「一往復だけです」


 二か月前と同じ、慎重な返事だった。


 ヴィクトルは腰の帳面を開いた。アイゼンベルグで持ち帰った条件書の写しが挟まれ、紙の端は何度も開かれたせいで柔らかくなっている。


 往復にかかる日数、馬の飼料、宿代、荷車一台へ積める量。何か所も線が引かれ、その脇で数字が書き直されていた。


 エルンが荷札を確かめる。


 荷台へ積まれているのは、ドラグニアの管理下にある品から、ヴィクトル自身が選んだ一台分だった。王家が割り当てた品目表はなく、数量も組み合わせも、帳面の計算から本人が決めたものだった。


 二か月前に渡した一枚の紙へ、あの時にはなかった折り目と数字が増え、いま一台の荷車になってリンデへ着いている。


 何を積んできたのか尋ねようとした時、ヴィクトルの視線がレティシアを越えた。


 売り台に並ぶ値札。


 人が出入りする共同倉庫。


 自分の荷車が止まらず通れた、埋め直された道。


 王女の説明ではなく、これから自分が商売をする場所を、自分の目で確かめている。


 やがてヴィクトルは帳面を閉じ、レティシアへ向き直った。


「商売をしに来ました」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。