27話 300年
朝食の席へ着いた時には、レオンはもう旅支度を終えていた。
向かいの椅子へ外套姿のまま座り、足元には青筋石の小箱、卓の端には宿から工房までの道を確かめた地図が畳まれている。残っているのは、皿の上のパンを食べ終えることだけらしかった。
「兄さま、まだ朝食も終わっておらぬぞ」
「工房はもう開いている」
「聞いておらぬ。朝食の話をしておる」
レティシアは自分の皿へ残っていたパンをいつもより小さくちぎった。向かいの視線が、その一片を口まで追ってくる。
少し楽しくなり、残りをさらに半分へ割る。
「わざとだろう」
「何のことじゃ」
ゆっくり噛んで飲み込み、茶へ手を伸ばすと、今度は杯まで見られていた。レオンは急かす言葉こそ口にしなかったが、膝の横に置いた小箱へすぐ手を伸ばせる姿勢を崩していない。
最後の一口を飲み込むのと、向かいの椅子が引かれる音はほとんど同時だった。青筋石の小箱まで、もう兄の腕へ収まっている。
「まだ、ごちそうさまを申しておらぬ」
レオンは立ったまま待った。
「……ごちそうさまでした」
「行くぞ」
「兄さまが工房へ行く話になっておらぬか?」
返事はなかった。
*
工房通りへ入ると、建物ごとに違う槌音が幾重にも重なり、石壁の間を途切れず行き交っていた。
低く腹へ響く音のあとを、高く澄んだ一打が追い、その隙間へ別の工房の音が入り込む。隣を歩くレオンの足も、音が増えるほどわずかに速くなった。レティシアが袖を引くたび半歩だけ戻るものの、視線はすぐ次の開いた戸や、軒下へ並ぶ金属へ向いてしまう。
「朝食の席で急かしておった程度では済まなかったのう」
「歩くのが遅い」
「兄さまが速いのじゃ」
目的の工房は、通りへ向けて大きく戸を開いていた。
中から熱気と鉄の匂いが流れ、職人たちは赤く焼けた鉄を炉から運び、金床へ置き、槌を打ってはまた火へ戻している。壁際には長さの違う鉄材が分けて積まれ、その隣には、まだ刃になる前の細長い金属が何十本も並んでいた。
ルミナ第三王女の来訪が告げられると、入口に近い槌から一つずつ音が止まった。最後の一打が落ちたあとには、炉の燃える音と、熱した金属がわずかに鳴る音だけが残る。
奥から現れた親方は、革の前掛けを着けた大柄な男だった。腕には古い火傷の跡が重なり、太い指の節には黒い汚れが染みついている。礼は取ったが、歓迎の言葉は足さなかった。
エルンが青筋石の小箱を差し出し、リンデで見つかったものの用途は分からず、金属に関わる可能性があるため調べてほしいと伝える。製作の依頼ではなく、結果が出る期限も定めないこと、必要なら切断や加熱を行い、そのために石の一部が失われても構わないことまで、用意した紙に記されていた。
親方は石を一つ摘み、掌の上で転がした。青い筋へ親指を当て、金床の端へ置いて小槌で叩く。硬い音を聞いて向きを変え、もう一度打ったあと、欠けた面を炉の明かりへかざした。
「わからん」
石は返されず、作業台の端へ置かれた。そこには削りかけの鉱石や、用途の札がまだ付いていない金属片がいくつも並んでいる。
親方はエルンから調査条件の紙を受け取り、上から順に読んでいった。期限を求めないという一行では止まらなかったが、調べ方や工房の技法をルミナ王家へ明かす義務はない、という箇所で太い指が止まる。
同じ一行をもう一度読み、初めて紙から顔を上げた。
「使い道だけ分かればよいのか」
「うむ。どうやって調べたかまで、わたくしのものにする気はない」
親方は礼も礼賛も返さず、紙をエルンへ戻した。それから作業台の端に置いた青筋石を取り上げ、今度は自分の道具が並ぶ側へ移す。
残った石の入った小箱をレオンが持ち上げたところで、その手が止まった。
兄が見ていたのは、壁際に掛けられた一本の剣だった。
*
豪奢な飾りも、名工の銘もなかった。
ほかの剣と同じ壁へ掛けられているのに、レオンの視線だけがそこから離れない。刃は薄く、根元から切っ先へ向かう線に余計な膨らみがなく、鍔も柄も飾るためではなく、握った手と刃の重さを支える形へ収まっていた。
レオンは触れずに横へ回り、刃の厚みを見たあと、柄と切っ先の釣り合いを確かめる。
「この剣は、誰が作った」
親方は短く答えた。
「三百年だ」
レオンの眉が寄る。
「年数を聞いたのではない。誰が打ったのかを聞いている」
答えたのは親方ではなく、近くの金床へ鉄を置いていた若い職人だった。火箸で向きを整えながら、手を止めずに口を開く。
「だから三百年なんだ。刃を薄くして折った者がいて、火の入れ方を変えて今度は曲げた者がいる。柄を短くした者も、重さを移した者も、そのせいで別のところを壊した者もいた。何が駄目だったかを残し、次の者がそこからやり直して、ようやく今の形になった。そいつは誰か一人が作った剣じゃない。この工房が三百年かけて作った剣だ」
説明を終えると、若い職人は槌を振り下ろした。
金床へ落ちた音を合図にするように、止まっていた工房の仕事が少しずつ戻り始める。
レティシアは剣の奥へ目を移した。
壁に残されているのは完成品だけではない。途中で折れた刃、火を入れすぎて歪んだ金属、柄の付け根から割れたものまで掛けられ、それぞれに札が結ばれている。古びて文字の薄くなった札もあれば、何度も追記されて紙の色が変わったものもあった。
その中に、折れ口のまだ白い一本がある。
結ばれた札の墨は、乾ききっていなかった。
古い失敗の隣へ、今日の失敗が同じように残されている。最初に形を考えた者も、途中で折った者も、もうこの工房にはいないのだろう。それでも次の職人は、前の者が止まった場所を知らされ、同じ失敗から始めずに済む。
リンデで作り始めた札は、まだ誰が何をしたのかを残しているだけだった。間違えた数字を消さず、なぜ違ったかを書き足すようになったのも、ほんの最近である。
この工房には、その先が三百年分あった。
年月は命じて集められない。明日から三百年分の記録を用意せよと言っても、紙の束だけが増えるだけだ。
けれど、今日の失敗を今日のうちに残すことなら、リンデでも始められる。
隣では、レオンがまだ同じ剣を見ていた。
「これは売り物か?」
兄妹の声が重なった。
親方は無言で剣を壁から外し、二人から遠い位置へ掛け直した。レティシアとレオンの顔が、剣を追って同じ方向へ動く。
「兄さまが欲しがるから、聞いてやっただけじゃ」
「俺は頼んでいない」
「では、今のは聞かなかったことにせよ」
親方は何も言わず、剣をさらに一段奥へ移した。
「兄さまの顔が信用されておらぬぞ」
「お前も同時に聞いただろう」
「わたくしは値を知りたかっただけじゃ」
「同じだ」
親方はもう二人を見ず、青筋石の前へ新しい札を置いた。
用途不明。
その横へ、調査中の二文字が加えられた。
*
工房を出る頃には、通りへ夕日の色が落ち始めていた。
レオンはしばらく無言で歩いていたが、やがて空いた手を腰へ添え、先ほどの剣を抜くような動きをした。
「売らぬということは、分かったであろう」
「分かっている」
返事のわりに、指は柄の太さを確かめるようにもう一度動く。
「まだしておる」
「重さを考えていただけだ」
「持ってもおらぬのに分かるものか」
今度こそ手が下りたので、レティシアも追及をやめた。
三人で宿へ戻る道は、朝とは違う流れになっていた。店先の品へ布を掛ける者がいる一方で、夜まで炉を使う工房には新しい炭が運び込まれ、荷車の車輪が夕暮れの石道を絶えず軋ませている。
建物の壁には古い石と新しい石が入り交じり、角の欠けた場所だけが違う色で継ぎ直されていた。路面もすべて敷き直すのではなく、沈んだところへ新しい石を足し、周囲へ馴染ませながら使われている。
「工房だけではないのじゃな。この町には、古いものがずいぶん残っておる」
レオンも継ぎ目のある壁へ目を向けた。
「残しているだけじゃない。壊れたところを直しながら、使い続けている」
「失敗したものまで、次へ渡しておった」
折れ口の白い刃と、まだ乾いていなかった札の墨が浮かんだ。
「ルミナには、こうして積み上げた三百年分がない」
口にすると、思っていたよりも重かった。
隣からすぐに返事は来なかった。空になった荷車が二人の横を通り過ぎ、倉庫の並ぶ通りへ曲がっていく。その車輪の音が遠ざかってから、レオンが前を向いたまま答える。
「俺たちは、三百年を持てない。だが、三百年後に残る最初の一年なら作れる」
レティシアは兄を見上げた。
「お前は前に、ルミナを変えたいと言っていたな。俺は、敵を退け、国がなくならないよう守れれば、それでいいと思っていた」
少し高い通りへ出ると、夕日を受けた屋根の間から、工房の煙が何本も立ち上っていた。荷受け広場では最後の荷が倉へ運ばれ、朝から動いていた町が、少しずつ夜の形へ変わり始めている。
「だが、この町を見ていると、守るだけでは足りない気がする。俺たちの代から、次の者が続きを始められるものを残したい」
同じ町を見て、兄は兄の答えを見つけたらしい。
レティシアの考えへ賛成してくれたことより、自分の願いとして口にしたことの方が、ずっとうれしかった。
「では、兄さまも最初の一年じゃな」
「お前より先に生まれているが」
「始めたのは、わたくしが先じゃ」
「そこを競うのか?」
「大事なところじゃ」
「三百年後には、誰も覚えていないぞ」
「ならば、きちんと記録へ残す」
少し後ろで、帳面を開く音がした。
レオンが振り返る。
「今のも書くのか?」
「殿下が記録を望まれましたので」
「兄さまが、わたくしより遅れて始めたと書いておけ」
「それは書かなくていい」
先に歩き出すと、すぐ隣へ同じ足音が並んだ。
夕暮れの町の向こうで、工房の槌音はまだ途切れなかった。




