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レティシア ~小さな王女の国づくり~  作者: yurihina
2章 最初の外交
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26話 リンデでは儲けてよい


 アイゼンベルグの荷受け広場では、荷より先に行き先が決められていた。


 役人が工房名と倉庫番号を読み上げるたび、呼ばれた商人が指定された荷車へ向かい、帳面へ印を受ける。壁際には鉄材、炭、刃の付いていない剣が運び先ごとに積まれ、荷台が空けば次の品が載せられていく。昨日、通りから眺めていた仕組みの中へ、今日はレティシアたち自身が入ることになる。


 ルミナ第三王女の来訪が告げられると、近くの足から順に止まった。荷車のそばにいた者だけでなく、次の割り当てを待っていた商人や、帳面を抱えた者まで仕事の手を休め、広場の一角へ集まってくる。


 レオンはリンデから運んだ見本箱を下ろすと、レティシアより二歩ほど後ろへ退いた。王族が二人並べば、それだけで命令に見えるからである。そう決めていたはずなのに、視線だけは広場の向こうにある武器倉庫へ何度か流れていた。


 エルンは見本を置く布の隣へ、試行条件と、参加しなくても不利益はないことを大きく記した紙を掲げた。説明を聞いただけでは契約にならず、署名しなければリンデへ行く義務も生じない。


 それでも、商人たちが先に探したのは条件ではなく、王家から渡されるはずの品目表だった。


 布の上へ並べた乾燥薬草と干し肉、青い筋の入った石へ向く目は短く、すぐエルンの抱える書類箱へ戻ってくる。何を供給し、どれだけ運ぶよう命じられるのか、その答えが別の紙にあると思っているらしい。


 前列にいた商人が、薬草を示した。


「ルミナ王家は、こちらをドラグニアへ供給なさるのですか」

「何も指定しておらぬ。ここにあるのは、いまリンデに何があり、どのような仕事から作られたかを見てもらうための見本じゃ」


 商人は干し肉の札を読み、次に青筋石の小箱へ目を移したものの、納得した顔にはならなかった。


「では、我々は何を運べばよろしいのでしょう」

「それを決めるのは、おぬしたちじゃ」


 条件書をめくっていた指が止まり、広場の端では、別の役人が読み上げる行き先だけが途切れず続いていた。


「リンデで足りぬ物の一覧と、いま出せる物の見本は用意した。じゃが、何を選び、どれだけ積み、いくらで売るかまで、わたくしが決めるつもりはない。わたくしが持ってきたのは荷の命令ではなく、おぬしたちが自分の荷を向けてもよい場所じゃ」


 集まった者たちは、今度こそ見本ではなく、掲げられた条件書を見た。


     *


 最初に紙を手へ取った商人は、すぐ隣へ回さなかった。定められた負担をリンデへ納めた後の利益は、商売をした本人のものになる。売れ残った品を王家は引き取らず、損失も補わない。品目、数量、値段、二度目の荷を出すかどうかまで、参加者自身が決めると書かれている。


 同じ箇所を二度読み、広場の向こうへ顔を上げる。


 ちょうど別の商人が、一日の売上を記した帳面と硬貨袋を役人へ差し出していた。数字と中身を確かめられ、空になった革袋だけを腰へ戻している。


 条件書を持つ男は、その光景と紙を交互に見た。


「リンデでは、儲けてよいのですか」

「定めた負担を納めた後の利益は、おぬしのものじゃ」

「王家が認める額に、上限は?」

「設けておらぬ」


 そこで初めて、男がレティシアの顔を見た。


「では、値はいくらにすればよいのでしょう」

「売る者が決めよ。買う者も、その値で買うかを自分で決める」


 男はもう一度、売値の欄へ視線を落とした。少し離れた場所で条件書を読んでいた別の商人が、利益と損失の項目を指で押さえる。


「売れなければ王家は引き取らないが、売れた銭も取り上げない。そういうことか」


 レティシアは答えを足さなかった。条件書に書かれたことを、商人自身が一つの仕組みとして口にしたからである。


 歓声は上がらなかった。


 もう少し驚くと思っていたし、目の色くらいは変わると思っていた。実際に変わったのは、見る場所だった。


 見本へ向いていた目が条件書へ移り、やがて一人が街道図を引き寄せた。アイゼンベルグからリンデまでの線を指で追い、その隣では別の商人が、宿代と馬の飼料らしい数字を帳面へ書き始める。


「荷車なら、途中で一度泊まる必要があるな」

「晴れならな。雨の日は、道がどこまで悪くなる?」


 エルンは資料を確かめたが、分からない項目へ都合のよい答えを入れなかった。


「雨天時の所要日数は未確認です。現時点で分かっているのは、乾いた日の旅程までです」

「未確認なら、その分を余計に見ておくか」


 商人は問いを引っ込めるのではなく、余白へ印を付けた。ほかの者もリンデで不足している品の一覧を寄せ、自分が普段扱う荷と見比べ始める。油、替え刃、紙、塩。往路へ何を積み、帰路には何を持ち帰れるのか、話題は一つずつ具体的になっていった。


 ほんの少し前まで、彼らが探していたのは王家から渡される割り当てだった。


 いまは、自分がリンデへ行くなら何を確かめ、どれほどの損なら引き受けられるのかを、それぞれ別の紙へ書いている。


 それでも、参加者欄にはまだ誰の名もなかった。


     *


「王女殿下がルミナへお戻りになった後も、この条件は変わらないのですか」


 計算していた手がいくつか止まり、条件書へ落ちていた視線が、もう一度レティシアへ集まった。


 王女本人が目の前にいる今と、遠い国へ帰った後は別である。リンデへ着いてから違う扱いを受けても、外国の商人が王家を相手に約束を守らせられるとは限らない。


「同じ契約書を、リンデ側と参加した者が一通ずつ持つ。条件を変えたなら、手元の紙と違うことを示せる」

「示したところで、荷も銭もリンデにある時なら、こちらの方が弱いでしょう」


 返された言葉はもっともだった。


 紙を二枚にすれば、書き換えを見つけることはできる。だが、見つけたあとに何ができるかまでは、それだけで保証されない。


 レティシアは一年間の試行条件へ目を落とした。


 ドラグニア王にとって、一年は制度を試す短い期間だった。商人にとっては、自分で品を選び、損まで引き受ける仕事を、知らない土地で一年続ける話に見えるのかもしれない。


 広場の中央では、木箱を数個だけ載せた一台の荷車が、出発の支度を終えようとしていた。大商隊でも、国の運搬隊でもない。日々この広場を出入りする、ごく普通の一台だった。


「一年先まで、わたくしを信じよとは申さぬ」


 レティシアは、その荷車を示した。


「最初は荷車一台、一往復だけでよい。積む物は、この広場で扱われる品の中からおぬしが選び、その一台については自分で売り方を決める。売れ残れば持ち帰り、戻ったあとで二度目を断っても不利益はない」


 商人たちの目が、条件書から荷車へ移った。


「後から、別の負担を求められることは?」

「最初に定めたもの以外は取らぬ」

「一往復を終える前に、条件が変わった場合は?」

「その時点で試行を止める。売れ残った荷を持ち帰ることも妨げぬ」


 エルンは掲げていた条件書を外し、一年間の往来許可はそのままに、商人一人が最初に負う契約範囲を、一台、一往復へ絞った。二度目の参加は別の契約とし、拒んでも不利益なし。定めた負担以外の徴収を認めず、売れ残った品は本人が持ち帰る。同じ文面を双方が持つという一行も残された。


 一年間の往来制度の中に、目の前の一人が一度だけ行って帰るための約束が切り出されていく。


「信じてほしいのではない。一度だけ、小さく試してほしいのじゃ」


 すぐに返事をする者はいなかった。


 その代わり、一人が不足品の一覧を引き寄せ、自分の扱う品を横へ書いた。別の商人は一台へ積める量と宿代を並べ、売れ残った場合に持ち帰る重さまで計算し始める。


「油だけでは重いな。替え刃を混ぜるか」

「帰りに薬草を積めるなら、空荷にはならない」


 誰かへ割り当てを求める声ではなかった。自分なら何を積むかを、隣の者と相談している。


 参加者欄は白いままだったが、条件書を閉じて広場を去る者も、まだ一人もいなかった。


     *


 説明を終えると、商人たちは少しずつ元の仕事へ戻っていった。役人に名を呼ばれた荷車へ向かう者、途中まで書いた計算を帳面へ挟む者、条件書をもう一度読んでから手を離す者。広場には、レティシアたちが来る前から続いていた荷の音が戻り始める。


 その中で、一人だけ不足品の一覧の前へ残った男がいた。


 ほかの商人より簡素な上着を着て、腰へ下げた帳面も角が擦り切れている。大商会の者たちの輪へ加わることなく、白い参加者欄と、自分の名を書く場所を何度も見比べていた。


「私のような者でも、この契約へ名前を書けるのですか」


 レティシアは、そこで初めて男の名を尋ねた。


「ヴィクトルと申します」

「大きな商会だけのために作った契約ではない。自分で一度試すと決めた者なら、誰でも名を書ける」


 ヴィクトルは不足品の一覧から見本へ視線を移し、最後に青筋石の小箱で止めた。


「王女殿下は、来てほしいとはおっしゃらないのですか」


 来いとは命じられない。


 だが、来てほしくないわけではなかった。むしろ、誰か一人でもその場で名を書いてほしいと思っている。


「……来てほしい。じゃが、来るかどうかを決めるのはおぬしじゃ。願うくらいは、わたくしの勝手であろう」


 ヴィクトルはレティシアと条件書を見比べたあと、契約書ではなく、用意されていた写しへ手を伸ばした。


「考えます」


 紙を丁寧に折り、使い込まれた帳面の間へ挟んでから、広場の人の流れへ戻っていく。


 署名は、最後まで残らなかった。


     *


 見本を箱へ戻し終えると、エルンは試行契約書を持ち上げた。


 参加者欄だけが白い。


「少しくらいは、その場で名を書く者がおると思っておった」


 レティシアは、来た時と同じ数だけ残った薬草と干し肉を見た。


「いきなり信じよという方が無理なのは分かる。じゃが、リンデへ戻れば皆に見せられる成果が、一つくらい欲しかったのじゃ」


 レオンは閉じかけていた見本箱から手を離した。


「お前は昨日、許可だけでは商人は動かないと言っていた。今日、お前の言葉だけで荷を積まないのも同じだろう。約束が明日も変わらないと分かって、ようやく信用になる」


 間違ってはいない。


 だからこそ、欲しかった慰めにはならなかった。


 エルンの帳面には、一年間の往来条件を説明したこと、一台、一往復へ試行範囲を狭めたこと、条件書の写しを持ち帰った者が一人いたことまでが記されている。


 署名者、零名。


 その下には、別の未確認が残っていた。


 青筋石――用途不明。


 レオンが小箱を帰り荷の側へ移そうとしたところで、レティシアは蓋へ手を置いた。


 広場の向こうでは、鉄材を積んだ荷車が武器倉庫へ入り、その先から朝から途切れない槌音が聞こえてくる。


「参加者は、今日ここで決められなんだ。ならば、分からぬものを一つ減らしてから帰る」


 小箱を帰り荷から外し、翌日使う荷の側へ置く。


「明日は、この石を工房へ持っていくぞ」


 エルンが帳面の最後へ、次の行き先を書き加えた。


 アイゼンベルグの工房。


 顔を上げると、レオンはもう青筋石の小箱を抱えていた。


「兄さま。まだ明日じゃぞ」

「工房の場所だけ確認する」

「そのまま今日行く顔をしておる」

「気のせいだ」


 広場ではまた新しい荷札が読み上げられ、商人たちは決められた荷車へ向かって歩き出していた。

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