23話 ドラグニアとの話し合い
「ドラグニアが、この協定を結ぶ利は何だ」
長卓に広げられた地図の上で、リンデは指先ほどの大きさしかなかった。
ドラグニア王の前には、リンデまでの一本の街道を正規の交易路として定め、一年間だけ商人の往来を認めてもらうための条件書が置かれている。何を扱い、どれだけ運ぶかは商人自身が決め、王命で参加を強いることはしない。売れ残った品を国が買い取ることもなく、武器と製法は最初から対象の外へ置いていた。
数日かけて一項目ずつ詰めた条件には、もう新しい異論が出ていない。王の問いは、その紙をドラグニアが認める理由だけを求めていた。
レティシアは乾いた喉を一度だけ鳴らした。長い交渉と旅の疲れは脚へ残り、革靴の中では足の指まで痛んでいる。それでも、十歳の身体が疲れていることと、提案の価値は別だった。
「リンデで採れる薬草や樹脂は、ドラグニアにとって新しい仕入れ先になり得ます。反対に、こちらの道具や保存食は、物の足りないリンデで売れるでしょう」
用意してきた答えを口にすると、王は地図へ目を落とし、小さく記された村の名を指先で押さえた。
「その市場が、この国に新しい取り決めを作らせるほど大きいのか」
返す言葉はすぐには出なかった。
薬草も樹脂も、価値がないわけではない。だが、隣に置いた目録には品名こそ並んでいても、毎月どれだけ出せるかまでは書けていない。道具や保存食を欲しがる者がいるとしても、リンデの人口はドラグニアの主要都市と比べるまでもなく少なかった。
いつか大きくなる、と言うことならできる。道が整えば人も品も増えるかもしれない。しかし、まだ起きていない未来を、すでにある利益のように差し出せば、その場を取り繕うだけになる。
王の前にある条件書へ目を戻した。
ドラグニアが商人へ荷を持たせるわけではない。売れ残りを引き取る義務も、リンデのために品を用意する負担もない。価値があると思った者だけが、自分の荷と金で試し、そう思わなければ誰も行かない。
それなら、ここで売るべきものはリンデの大きさではなかった。
「ドラグニアに、リンデを選べと申し上げているのではありません。選んでもよい場所を、一つ増やしていただきたいのです」
王の傍らで待っていた記録役が、初めて筆を紙へ下ろした。
「誰かが価値を見つけた時だけ、その道を使えるようにする。誰も選ばなければ、ドラグニアは何も出さずに済むということか」
「はい」
「道は遠く、市場は小さい。商人が失敗した時、その損は誰が負う」
「商売を選んだ者です。王家が利益を奪わぬ代わりに、損も埋めませぬ。売れなければ持ち帰り、二度目は行かないと決めることもできます」
王は条件書の端を持ち上げ、途中で問題が起きた場合の停止条項を確かめた。
「誰も行かなかった場合は?」
「困ります」
口にしたあとで、もう少し外交らしい答えがあった気もした。しかし、困らないはずがない。何日もかけて許可だけを持ち帰り、リンデを選ぶ商人が一人もいなければ、待っている者たちへそのまま伝えなければならない。
今ここで一人くらい決めてもらいたい。ドラグニア王が命じれば、荷車の一台や二台は動くだろう。
けれど、それを頼んだ瞬間、リンデで作った仕組みの意味がなくなる。
「ですが、命じて行かせることはいたしませぬ。誰も選ばないなら、その結果を持ち帰ります。道が悪いのか、見せられる品が足りないのか、小さすぎて商売にならないのかをリンデで確かめ、変えられるものから変えます」
エルンの筆が、今の答えを控えへ加えていく。王はその音が止むまで条件書を見ていたが、やがて最後の頁を閉じ、記録役へ新しい紙を出すよう命じた。
「一年、試させよう」
胸の奥で押さえていた息が、危うく声になって出るところだった。
レティシアはどうにか礼を崩さず頭を下げた。長く王女をしてきた成果ということにしておく。卓の下では、旅のあいだから革靴に押し込められていた足の指が、ようやく伸びていた。
*
許可書の清書と王印を待つために謁見の間を出ると、閉じた扉の向こうへ張りつめていた空気が残り、レティシアの歩幅だけがひとつ大きくなった。意識して戻しても、口元までは言うことを聞かない。
「まだ王印は下りておりません」
「分かっておる。じゃが、王が一年試すと申したのじゃぞ。今さら全部なかったことにはなるまい」
エルンは返事の代わりに帳面へ一行を書いた。
横から覗くと、許可成立ではなく、成立見込みと記されている。
「見込みでは弱い」
「王印の前ですので」
「そなたの帳面は、喜ぶ時まで慎重じゃな」
言い返そうとしたエルンの視線が、回廊の先へ移った。
王家の飾りを胸につけた少年が、数人の近侍を従えて歩いてくる。年はレティシアより二つほど上だろう。磨かれた留め金のついた上着をまとい、広い回廊の中央を譲る気もなく、そのまま二人の前で足を止めた。
近侍の一人が小さく第四王子殿下と呼んだため、名乗りを待つ必要はなかった。
「お前がルミナの王女か。父上に何を持ち込んだ」
「リンデとドラグニアを結ぶ、一年間の貿易を提案しに来たのじゃ」
正式な許可はまだでも、つい先ほど王から認められたばかりである。少しくらい胸を張ってもよいはずだった。
「貿易?」
第四王子は、その言葉だけを拾って笑った。
「お前の国では、王女を外交の道具にすることまで貿易と呼ぶのか」
何の話をしているのか分からず、レティシアは眉を寄せた。先ほどまで話していたのは、品と商人の往来である。
「フェルンだったか」
第四王子は、思い出したように指を鳴らした。
「お前の姉が売られた先は。小国は、生き残るためなら王女まで差し出すらしいな」
売られた。
その言葉がフェルンへ嫁いだ姉の姿へ結びつくまでに、ほんの一拍かかった。
旅立つ朝、姉はいつもと同じように笑っていた。泣いている者を慰め、幼い妹の髪まで整えてから馬車へ乗った。あの笑顔がどこまで本心だったのか、レティシアにも分からない。それでも、この少年が勝手に値をつけてよいはずはなかった。
回廊へ、何かが落ちる鈍い音が響いた。
自分の腕から書類箱が消えていると気づいた時には、両手の中で第四王子の襟が歪んでいた。
「姉を売り物のように言うな」
引き寄せられた身体が半歩よろめき、少年の顔から笑いが消えた。近侍が前へ出かけると、第四王子は片手で制し、乱れた襟のまま顎を上げる。
「離せ。お前も、いずれ同じだ」
「黙れ」
指へ力が入った。
姉が何を思ってフェルンへ向かったのか、この少年は何も知らない。レティシアだって、すべてを知っているわけではない。笑っていたから平気だったとも、国のために喜んで嫁いだとも決められないからこそ、知らない者がその人生を売買の言葉で片づけることだけは許せなかった。
いつの間にか、回廊を行き交っていた足音が止まっている。
エルンは床へ散った地図と条件書を拾っていた。その向こうでは、清書した許可書を運ぶ記録役が立ち止まり、まだ王印のない紙を収めた箱を抱えている。
このまま衛兵に押さえられれば、あの紙は印章のある部屋まで進まない。
姉への言葉を許したわけではなかった。それでもレティシアは、自分から手を離した。
*
第四王子は二歩下がり、自分で襟の留め金を掛け直した。赤くなった首元を隠しきれないままレティシアを睨んだが、もう言葉は重ねなかった。
衛兵が二人の間へ入り、第四王子と近侍を回廊の奥へ導いていく。制止されたわけでもないのに、レティシアの側にも、その場から動いてよい空気はなかった。
許可書を運んでいた記録役は、紙に折れや汚れがないことを確かめて箱へ戻し、蓋を閉じた。
「許可書は、陛下の再確認へ戻します」
来た時とは逆の向きへ、書類箱が運ばれていく。王印を受ける場所ではなく、つい先ほど出てきた謁見の間へ、何日もかけて整えた条件ごと引き返していった。
衛兵の一人に案内され、レティシアとエルンは王城内の控え室へ入った。宿へ戻って待つのではない。王の判断が出るまで、城を離れるなということだった。
今日のうちに許可書を受け取り、明朝には発つ予定だった。荷も護衛も整い、リンデでは交渉の結果を待つ者たちがいる。その予定を止めたのは、第四王子の言葉だけではなかった。
エルンは窓際の机へ散った書類を並べ、折れた端を伸ばし、頁番号を一枚ずつ確かめたあと、別の帳面を開いた。
第四王子と遭遇したこと。第一王女の婚姻について発言があったこと。レティシアが書類箱を落とし、両手で胸倉をつかんだこと。自ら手を離したこと。そして、許可手続きが停止されたこと。
筆先は、レティシアのために順番を変えず、都合のよい言葉にも置き換えなかった。姉を侮辱されたことが記されても、自分が手を出した事実は消えず、どちらも同じ墨で帳面へ残っていく。
責められた方が、まだ楽だったかもしれない。
レティシアは膝の上で両手を重ねた。指には、つい先ほどまで握っていた布の硬さが残っている。
許可が取り消されても、王が悪いとは言えなかった。何日もかけて積み上げた交渉を止めたのは、自分の手でもあった。
どれほど待ったのか分からなくなった頃、控え室の外で衛兵の足音が止まり、ドラグニア王からの呼び出しが告げられた。
レティシアは立ち上がり、乱れていない袖口を一度だけ整えた。
許可を得るために入った扉が、今度は自分のしたことへ答えるために開いていた。
*
謁見の間から、リンデの地図は片づけられていた。
長卓に残っているのは、王印を受ける直前で止められた許可書と、回廊で起きたことを記した報告書だけだった。二枚は重ねられず、少し離して置かれている。
王は報告書から顔を上げた。
「息子の胸倉をつかんだというのは事実か」
「事実です。手を出したことを、お詫びいたします」
レティシアは理由を話す前に頭を下げた。
姉を侮辱されたのだと先に訴えれば、事情があったと思ってもらえるかもしれない。許可を残してもらえる可能性も上がるだろう。
だが、そのために姉の名を使えば、自分のしたことを軽くする道具として、もう一度姉を差し出すことになる。手を出したのは自分だった。その事実だけは、先に認めなければならない。
王は謝罪を受けたとも、許したとも言わなかった。
「息子は、何と言った」
レティシアは顔を上げ、第四王子の言葉をそのまま伝えた。
「姉を、国のために売られた王女と申されました」
記録役の筆が紙を擦る。
「それで、胸倉をつかんだのか」
「はい。その言葉への抗議は取り下げませぬ。ですが、手を出したことは、わたくしの非です」
王はしばらくレティシアを見たあと、報告書を閉じた。
「息子の発言については、余が本人へ確認する。お前は、手を出したことを本人へ謝罪せよ」
レティシアは深く頭を下げた。
王の手が、もう一枚の紙へ移る。
交易の許可書だった。
回廊での件が決着しても、協定まで有効になるとは限らない。レティシアは口を挟まず、王が最初の行から読み直すのを待った。
商人の参加を王命で強いないこと。利益は商売を選んだ本人のものとし、損失も本人が負うこと。問題が起きれば、一年を待たず往来を止められること。
王は最後の行まで確かめ、報告書と許可書を並べたまま、どちらも重ねなかった。
やがて記録役が印章と赤い封蝋を運んでくる。
「一年だけだ」
印章が紙へ下り、持ち上げられた跡にドラグニア王家の紋が残った。
回廊で止まったものが、ようやく先へ進む。
正式な許可書を受け取ると、条件は何一つ変わっていないのに、紙は最初に見た時より重かった。レティシアは両手で抱え、王へ深く礼をした。
*
命じられた謝罪を終え、王城を出る頃には、陽が西へ傾いていた。
予定していた出立には、もう間に合わない。それでもエルンの書類箱には王印のある許可書が収まり、回廊へ散った地図と条件書も、一枚残らず元の順へ戻っていた。
城門を抜けたところで、エルンが帳面を開く。
「一年間の試験的往来は、正式に認められました」
レティシアの歩調が少しだけ軽くなる。
「参加する商人は、現在零名です」
すぐに元へ戻った。
「分かっておる。選ぶ自由を求めたのじゃから、許可が下りただけで誰かが動くはずもない」
口ではそう答えながら、できるなら一人くらい、その場で名乗り出てほしかったとは思う。
レティシアはエルンの書類箱を開け、王印のある許可書ではなく、リンデから持参した品の目録を抜き取った。
「許可で作れたのは、選んでもよい場所だけじゃ。ならば次は、選ぶ理由を見せるぞ」
目録を開き、最初の品名へ指を置く。
「リンデへ戻る前に、持っていく物を選ぶ」




