21話 売らない
道路仕事で最初の賃金が支払われた翌日も、共同倉庫の前には品物が並んでいた。
一枚の板から始まった売り場は、伏せた籠や空箱、荷車の端まで使うほど広がり、豆の小袋、干した果物、編み直した革紐、欠けた縁を継いだ木椀が、それぞれ値札を添えて置かれている。値を尋ねる声があり、高いと笑って品を戻す者もいれば、掌の銅貨を何度も数え直した末に一枚を差し出す者もいた。
まだ市場と呼ぶには小さく、売れなければ持ち帰れるよう包みの口も解ききられていない。それでも、客が近づくたびに自分の品へ手を添え、取られまいと構える者は、もういなかった。
昨日、板の端へ三本並んだ赤い髪紐は、一本だけ減っていた。
残る二本は、老女が使う箱の上に置かれている。細く裂いた布の端は揃えられ、土と木の色が多い売り場の中で、その赤だけが日差しを拾っていた。
レティシアは道の反対側に立ち、売り場全体を眺めていた。隣のエルンは、品が売れるたびに帳面へ短く記している。
街道の方から、一人の男が歩いてきた。
昨日まで道路仕事へ入り、土を運び、石を詰めていた山狼衆の男だった。腰には作業の時に使った木札がまだ下がり、その隣には賃金を入れた革袋が結ばれている。歩くたび、中の銅貨が鈍く触れ合った。
最初に気づいた村人が、話の途中で口を閉じた。
その沈黙は隣へ移り、値を尋ねる声も、硬貨を数える音も、一つずつ消えていく。男が売り場へ着く頃には、共同倉庫の前に残っているのは、街道を通る風と腰の革袋が鳴らす音だけだった。
豆を売っていた女は、受け取りかけた銅貨を腰元へ引いた。木椀を手にしていた客も動きを止める。誰も家へ逃げ込みはしなかったが、男を客として迎える者もいない。
品物の前にいた者たちが、誰に言われるでもなく左右へ退いた。
男は空いた道を進み、周囲の顔を見ようとはしなかった。豆の袋へ目を落とし、革紐の編み目を眺め、継ぎ直された木椀の前では手を伸ばしかけたものの、触れる前に引っ込める。
やがて、赤い髪紐の前で足を止めた。
箱の向こうでは、老女が膝に載せた布へ針を通している。男が立っても顔を上げず、針先を引くたび、赤い糸だけが指の間を滑った。
「いくらだ」
返事はなかった。
男は箱の前に立てられた木札を覗き込む。
「銅貨二枚か」
腰の革袋を外して口を緩めると、節くれだった掌へ銅貨を二枚落とした。片方を親指で返し、欠けがないことを確かめてから、二枚を揃える。
「小さいのがいる。髪が邪魔だって、いつも紐で縛ってる」
誰へ聞かせるともなく言い、銅貨を箱の端へ置いた。
二枚が重なって乾いた音を立てると、老女の針が初めて止まった。
倉庫前の視線が、箱の上へ集まる。昨日、赤い髪紐の前へしゃがんでいた子供も母親の隣に立ち、銅貨と赤い布を交互に見ていた。母親はその肩へ手を置いたが、後ろへ引き寄せはしなかった。
男は髪紐へ触れず、老女の返事を待った。
老女はようやく顔を上げ、男の顔から、土のこびりついた袖、腰の木札へと目を移した。最後に箱へ置かれた銅貨を見てから、男が伸ばしかけた手より先に、二本の髪紐を自分の側へ引き寄せる。
銅貨との間に、細い木肌が現れた。
「お前には売らない」
男の手が空中で止まった。
誰も口を挟まない。レティシアも、老女と男の間へ入らなかった。
売る物も値も、売る相手も、最後に決めるのは品を作った者だった。王女が許した市場だからといって、すべての客へ売れと命じれば、決める者が王家から本人へ移ったことにはならない。
男は老女を見たあと、引き寄せられた髪紐へ目を落とした。
「分かった」
それだけ答え、銅貨を一枚ずつ拾う。髪紐には触れず、二枚を革袋へ戻して口を締めると、村人たちが空けた道をそのまま歩き始めた。
その背中へ罵りを浴びせる者はいなかった。男も、拒まれたことを責める言葉を残さない。
エルンの筆先が帳面へ下りる。
「売買拒否として――」
「その一行で閉じるな。今は見ておれ」
筆が紙へ触れる直前で止まった。
老女の手には、引き寄せた二本の髪紐が残っている。強く握った指の間で柔らかな布に皺が寄り、箱の端には、先ほどまで銅貨があった丸い跡が二つ薄く残っていた。
老女はその跡を見たあと、遠ざかる男の背中へ顔を上げた。
男は振り返らない。革袋の中で鳴る銅貨だけが、一歩ごとに小さくなっていく。
老女は手元の赤へ目を戻し、握り込んでいた指をゆっくりほどいた。
「……待て」
足音と銅貨の音が、同時に止まった。
男は背を向けたまま、すぐには振り返らない。倉庫前の誰もが次の言葉を待つ中、老女は髪紐を箱の上へ戻し、端を指で押さえた。
「銅貨二枚だ」
男が肩越しに顔を向ける。
「売らないんじゃなかったのか」
「気が変わった」
老女はそれ以上の理由を言わなかった。
男もしばらく動かず、その顔を見ていたが、やがて踵を返し、先ほど空いた道を戻ってきた。村人たちは退いた場所から動かず、その足取りを追っている。
もう一度箱の前へ立つと、男は革袋を開き、同じ銅貨を二枚取り出した。
老女が髪紐を押さえたまま言う。
「まけねえぞ」
「頼んでねえ」
二枚の銅貨が、今度は重ならずに箱の上へ並んだ。
老女は一枚ずつ指で押さえ、表と裏を確かめてから、自分の袋へしまった。それから赤い髪紐を一本だけ取り、男の前へ置く。
男はすぐには手を出さず、箱の上の赤を見つめたあと、土と石で荒れた指先でそっと持ち上げた。大きな掌へ載ると、髪紐はひどく小さく見えた。
礼も、謝罪も交わされなかった。
レティシアは口を挟まないまま、働いて得た銅貨と、老女が縫った髪紐が、互いの選んだ手へ移るところを見届けた。
男は布が折れないよう掌で形を整え、革袋とは別に上着の内側へしまうと、再び街道の方へ歩いていった。
昨日の子供が、その背中を見送っている。母親の手はまだ肩に置かれていたが、今度も後ろへ引かなかった。
老女は袋へ入れた銅貨をもう一度掌へ出し、二枚の重さを確かめるように眺めてから、指を閉じる。
止まっていた倉庫前の声が、少しずつ戻り始めた。誰かが豆の値を尋ね、別の箱では銅貨が一枚、木の上へ落ちる。
レティシアが隣を見る。
「……今じゃ。最初に断ったところから、全部残せ」
エルンの筆が動き出し、紙を擦る音が、戻ってきた市場のざわめきへ静かに溶けていった。




