20話 杭の先と売り物
畑の端には、初めてここへ来た日と同じ杭が立っていた。
日に焼けた木肌へ乾いた土がこびりつき、農民に割り当てられた畑と、その先を分けている。以前は、その杭の手前で鍬の跡が途切れ、向こう側には草と、土に塞がれた水路だけが残っていた。
農民は今日も、割り当てられた畝を端まで耕した。鍬を振り下ろして土を返し、刃に残った塊を足で崩す。最後の一振りを終えると身体を起こし、肩へ担いだ鍬の先から土を落とした。
あとは畑を出るだけだった。
向きかけた足が、水路の前で止まる。
杭の向こうでは、崩れた土が細い溝を塞いだまま乾いている。試行では、共用水路の流れを変えたり他人の畑を傷めたりしない軽微な補修に限り、役務の割り当てを待たずに行えるようにしていた。農民はその詰まりを見下ろし、次に畦へ止めた荷車を振り返った。荷台には、共同倉庫から持ち帰った麦袋が載っている。
しばらく袋を見ていた男は、肩から鍬を下ろした。
杭をまたぎ、乾いた土へ刃を入れる。
レティシアは畦道から、その一連の動きを黙って見ていた。命じた者はいない。水路を直した者へ褒美を出すとも、次の割り当てを軽くするとも告げていない。
隣でエルンが帳面を開いた。
「水路の修復を命じた記録はありません」
「命じておらぬ。ならば、見たことだけを書け」
鍬の刃が溝の底で石を弾き、乾いた音を畑へ響かせた。農民は屈んで石を拾うと畦の外へ投げ、また刃を入れる。崩れた土が少しずつ取り除かれ、その下から湿った色が現れた。
隣の畑で働いていた男が、手を止めた。
「そこまでやるのか」
「水が流れなきゃ、次も増えねえ」
「来年、また取られるかもしれんぞ」
鍬が一度だけ止まり、農民の目が荷車の麦袋へ向いた。
「今年は取られなかった」
それだけ答えると、再び土を掘り始めた。
隣の男はしばらく手元を見ていたが、やがて自分の鍬へ目を落とした。柄と刃をつなぐ革紐は毛羽立ち、次に強く振れば切れてもおかしくないほど擦れている。
*
その日の夕方、旧役宅へ戻る道で、レティシアは同じ男が家の前へ腰を下ろしているのを見つけた。
その日の仕事はもう終わっている。それでも鍬を納屋へ放り込まず、古い革紐をすべて外し、余っていた革を水で濡らして刃に沿う長さへ切っていた。間に合わせに短い紐を巻き足すのではなく、明日からも使えるよう、最初から結び直している。
通りかかった村人が足を止めた。
「今日はもう使わぬのでは?」
男は刃に残った土を布で拭い、磨いた金属へ新しい革を当てながら答えた。
「明日も使う」
レティシアは声をかけず、その横を通り過ぎた。
畑の方角から、かすかな水音が届いている。掘り直された溝を進んだ水は杭の先へ流れ込み、乾いていた土の色を、ゆっくりと深くしていた。
*
共同倉庫の前に用意された売り場は、低い脚を付けた板が一枚だけだった。
倉の壁とは人一人が通れるほど離し、道を歩く者から品が見える向きに置いてある。人が二人並べば、それだけで前は狭い。屋根も看板もなく、初めは売り物さえなかった。
レティシアは少し離れた場所に立ち、何も載っていない板を見ていた。
「場所は作った。じゃが、まだ成果の欄へ入れるでないぞ」
「板を置いた事実は記録できます」
「板を置くことが目的なら、大工へ褒美を出して終わりじゃ」
通りを行く村人は板へ一度目を向けても、足を止めずに通り過ぎていく。
売ってよいとは決めた。何を売り、いくらにするかも本人が決めてよい。それでも、最初の一人が品を置くところまでは命じられない。
呼びかけたくなるたび、レティシアは口を閉じた。王女が売れと言えば、置かれた品が本人の選択だったのか分からなくなる。
やがて、燻した肉の匂いが通りの向こうから近づいてきた。
トーマが両手に五つの布包みを抱えている。板の上へ同じ向きで並べると、最後に小さな木札を立てた。札には文字を一度削った跡があり、その上から「銅貨一枚」と書き直されていた。
「迷ったのか?」
「少し。厚みは揃えたんですけど、端の包みだけ肉が多く見えまして」
「値を決めるとは、そこまで難しいのじゃな」
「王女様が決めてくださるなら楽ですけど」
「それでは、そなたが売ったことにならぬ」
トーマは木札と五つの包みをもう一度見比べたが、値を書き直さなかった。
「家で食べる分は残しておるのか?」
「先に分けています。イルゼが仕留めて、俺が保存用に燻した肉です。ここへ持ってきたのは余った分だけ」
「ならば、その五つはそなたたちのものじゃ。売れなければ持って帰ればよい」
「今夜の食卓が、少し豪華になるだけですね」
そう言って笑ったものの、トーマは包みから離れず、板の倉側へ立った。買う者と売る者の場所だけが、ようやくそこへできた。
エルンの筆が紙へ触れる。
「燻製肉五包み。一包み銅貨一枚。売買開始――」
「まだじゃ。物を置いただけでは売買にならぬ。買う者が自分で選び、トーマがその値で渡すと決め、銭と品が互いの手へ移るまで待て」
「では、販売準備として記録します」
「それならよい」
燻製肉の匂いに引かれたのは、倉の警備へ交代に来た護衛だった。五つの包みと値札を見比べ、一番端を持ち上げると、指で厚みを確かめ、結び目へ鼻を近づける。
腹が小さく鳴った。
「二つ買うなら、少し安くならないか」
トーマは残りの包みを見たあと、首を振った。
「値は同じです。その値で売れなければ、今日は家で食べますから」
「初めての客だぞ」
「初めてだから安くする、という決まりも聞いていません」
護衛が、助けを求めるようにレティシアへ顔を向けた。
値を下げれば二つ売れる。最初の商売としては、その方が景気よく見えるかもしれない。けれど、その判断を王女がしてしまえば、木札の値は最初からトーマのものではなかったことになる。
レティシアは削り跡の残る文字を見たまま、何も言わなかった。
「王女様に聞いても、たぶん答えてくれませんよ」
「よく分かったな」
「さっきから、答えたそうな顔だけはしていますので」
「余計なところまで見るでない」
護衛は包みを掌で一度量り直し、二つ目へ伸ばしかけた手を引いた。
「なら、一つだけもらう」
「銅貨一枚です」
腰袋から出された硬貨が、トーマの掌へ落ちた。
小さな金属音が鳴る。
トーマは表と裏を返し、縁の欠けまで確かめてから包みを一つ渡し、値札の脇に置いた小片へ短い線を引いた。五つあった包みは四つになり、硬貨は誰の手も挟まず、トーマの腰袋へ収まった。
袋の中で銅貨がもう一度鳴ってから、トーマはようやく息を吐いた。
エルンの筆が動く。
「燻製肉一包み。銅貨一枚。売り手本人が価格を定め、買い手が同意して購入」
「今のは残してよい」
「売買成立として記録します」
護衛は包みを持って持ち場へ戻った。歩きながら結び目を解こうとして、後ろの騎士に手を払われる。
「交代が終わるまで待て」
「匂いだけで腹が減るんだ」
「それも記録するか?」
「不要です」
エルンの返答に低い笑いが漏れ、その声に振り向いた村人が、板の上の四つの包みとトーマの腰袋を見た。
革紐の束を腕へ掛けた男だった。
自分の品へ目を落とし、しばらく迷ったあと、一本だけ板の端へ置く。
「これも、ここに並べてよいのか」
「売るつもりで持ってきたのならな。値はそなたが決めよ」
男は編み目を指で確かめ、値を書いた小片を隣へ置いた。売れなければすぐ持ち帰れるよう、残りの束は腕から外さない。
それを見ていた女が家へ駆け戻り、干した果物を載せた浅い籠を抱えて戻ってくる。欠けた縁を継いだ木椀も二つ加わり、空だった板の上へ、別々の家から来た品が少しずつ場所を作った。
まだ客を呼ぶ声はなく、板の半分さえ埋まっていない。品を置いた者たちも一か所へ固まらず、自分の物が見える距離で様子をうかがっている。
通りの向こうから、赤い布が揺れた。
老女は細長く裂いた布を指へ巻き、三本の髪紐にして板へ並べた。一番端の赤だけが、風を受けてふわりと浮く。
母親と歩いていた子供が、その色に気づいた。
レティシアが初めてリンデへ来た日、馬車へ声をかけ、すぐに家の中へ引き戻された子だった。
子供は母親の袖を引く。
握られていた手は、すぐには離れなかった。母親の目が板の上の品をたどり、トーマの腰袋へ移り、最後に少し離れて立つレティシアへ向く。
レティシアは呼びかけず、笑いかけもしなかった。
やがて母親の指がほどける。
「触るんじゃないよ」
子供は駆け出さず、ゆっくり板へ近づくと、赤い髪紐の前へしゃがみ込んだ。
「これ、売り物?」
「買う人がいればね」
老女は手元の布を縫いながら答えた。
子供の指は髪紐へ触れる直前で止まり、母親はもう、その身体を後ろへ引かなかった。




