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レティシア ~小さな王女の国づくり~  作者: yurihina
1章 最初の改革
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16話 1日だけの契約

 王印のある許可書を持って戻っても、山狼衆の谷は前に来た時と変わっていなかった。


 岩壁へ寄り添う粗末な小屋の前では、老人が傷んだ道具へ革を巻き、継ぎはぎの布の下では大鍋が細い湯気を上げている。煮える匂いは谷の入口まで届かず、鍋のそばにいた子供は、母親の服を握ったままこちらを見ていた。


 変わったのは、レティシアの手にあるものだけだった。


 谷へ入ると話し声が途切れ、子供を背へ隠す者、刃の柄へ手を置く者、小屋の陰で弓を取る者が一斉に動いた。護衛は目の届く距離に控えさせ、焚き火の前まで進んだのはレティシアとエルンだけだった。


 火の向こうに立つ頭領が、二人の足元から革の書類入れへ視線を移す。


「帰れと言ったはずだ」

「うむ。帰った。今度は、谷へ置いていけるものを持ってきた」

「何をだ」

「わたくしが失えば困るものじゃ」


 エルンから書類入れを受け取り、王印の押された許可書を粗い卓へ置く。風に紙の端が持ち上がり、赤い印だけが焚き火の色を返した。


「王印か。王家が自分で押した印を、王家を信じろという証にするのか」

「信用の証には使わぬ」


 周囲から漏れかけた乾いた笑いが止まった。


 エルンは同じ文面の約書を二枚広げ、その横へ小さな革袋を置いた。袋の中で貨幣が触れ合うと、谷の視線は王印よりも先に、そちらへ集まった。


「明日の朝から、リンデへ続く街道を一日だけ直す。作業を始める前に、どこを直し、何をもって終わりとするか、認められた仕事へいくら払うかまで示す。日暮れまでに認められた分は、その場で貨幣を払い、頭領でも家族でもなく、働いた本人へ直接渡す」


 頭領は約書へ触れず、革袋を見たまま尋ねた。


「一日だけと言ったな。次の日はどうする」

「もう一度来るかは本人が決める。来ぬ者を追わせず、働きに来たことを捕らえる理由にも使わせぬ」

「谷から下ろしたところを兵に囲み、罪人を捕らえたと言い張るつもりではないのか」


 エルンが二枚の約書を頭領の方へ向ける。


「約書の末尾には、こうあります」


 そう前置きして、エルンは文面を読み上げた。


「参加を理由とする拘束、賃金の不払い、翌日以降の就労強制が一つでも確認された場合、公共事業の試行は停止され、記録はレティシア殿下を経由せず、王と三省へ送られます。殿下お一人の命令では再開できません」


 頭領の目が、約書からレティシアへ移る。


「お前が続けろと命じてもか」

「止まる。お主らを騙して一人を働かせれば、この仕事の試しは止まる。そのために、父上と三人の大臣へ、わたくしの命令まで止める権限を渡してきた」


 頭領はようやく一枚を手に取った。


「最初から読め」


 エルンは頷き、約書の冒頭へ目を戻した。


 どこを直すのか。何をもって仕事を終えたと認めるのか。いくら払うのか。誰へ払うのか。参加したことを理由に捕らえないこと。翌日も働けと強制しないこと。


 エルンが一つずつ読み上げるあいだ、頭領は紙を持ったまま黙って聞いていた。


 最後まで聞き終えると、紙を卓へ戻す。


「日が暮れても、その袋が閉じたままなら」

「そこで終わる」

「たった一人分の銭で、仕事を止めるのか」

「一人分すら払えぬ仕事を、続けさせる方が危うい」


 頭領は紙を卓へ戻したものの、指はその端から離れなかった。


「街道を直させ、村を襲った分まで返させるつもりか」

「違う。働いた分は、働いた者へ払う。襲った責任は、それとは別に問う」

「同じ人間の話を、都合よく二つに裂くのか」

「混ぜる方が、王家には都合がよい。償いだと申せば、罪人をただで働かせられる。働いたから赦すと申せば、襲われた者へ向き合わずに済む。ゆえに、罪は罪として残し、働きは働きとして報いる。どちらかを、もう片方の言い訳にはさせぬ」


 焚き火が爆ぜ、舞い上がった火の粉をエルンが片手で遮った。その間に頭領は二枚の約書を重ね、端を揃えた。


「同じものが二枚あるのは、なぜだ」

「一枚は王家が持ち、もう一枚は働く者が持つ。あとからこちらの紙だけを書き換えても、お主の手元に残った約束までは変えられぬ」


 レティシアはエルンから筆を受け取り、二枚の署名欄へ順に名を記した。書き終えた約書の下へ王印のある許可書を重ね、まだ湿りの残る自分の名から手を離す。


「先に、こちらを縛った。この印は、お主らを従わせるためではない。王家が約束を曲げようとした時、その手を止めるための印じゃ」


 頭領は何も答えなかった。


 卓の周りには、人一人が踏み込めるほどの空きが残っている。その向こうには中身の乏しい鍋を囲む家族がいて、傷んだ道具を直す手も、子供を抱く腕も止まったままだった。


 レティシアは頭領だけではなく、その場にいる者たちへ顔を向けた。


「王家を信じてくれとは申さぬ。許さずとも、疑ったままでもよい。ただ、一日だけ見に来てくれ。働いた者が、その日のうちに働いた分を受け取るところを」


 沈黙の中で、鍋の蓋が湯気に押されて小さく鳴った。


 壁際にいた若い男が、やがて背を離す。


「頭領、俺が行って、銭が本当に出るか見て――」

「それを、なぜ頭領に訊く」


 レティシアに遮られ、若い男は口を閉じた。


「……頭領が決めることですから」

「道へ出るのも、働くのも、お主じゃ。ならば行くかどうかも自分で決めよ。ほかの者も同じじゃ。その答えを、頭領にも、わたくしにも預けるな」


 若い男の視線が、いつもの癖で頭領へ向かいかけ、途中で卓の上の筆へ落ちた。


「なら、俺は――」

「待て」


 頭領の腕が、若い男の前へ伸びる。


「止めるんですか」

「お前の答えを奪う気はねえ。だが、王家の紙を、お前の身体で最初に試させる気もねえ。俺が先に行く」


 腕が下りると、誰も口を挟まなかった。


 頭領は卓までの空きを越え、レティシアが置いた筆を取った。鍬を握ってできた古いまめと、刃に裂かれた新しい傷が同じ手に残っている。


 エルンが二枚の約書の末尾を順に指した。


 筆先が白い欄へ触れる。


 太く、ところどころ滲む線が、ゆっくりと名の形になっていく。一枚目を書き終えた手が、もう一枚にも同じ名を置いた。


 最後の線を引き、頭領は筆を置いた。


 レティシアは二枚に並んだ名を見つめ、初めてその男を名で呼んだ。


「……グロム」

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