第八話 姉妹のごとく
その晩、志乃は一睡もせず、わたしに綾小路の姫君のことを語り聞かせた。
名は、撫子。都でも指折りの、綾小路家の一の姫。齢は玲さまと同じ十七。二つの家は古くからの誼で、二人は幼き頃より、実の姉妹のように育ったという。文のやりとりも、絶えたことがない。
「されど――」志乃の声が、曇った。「幼き日に、お二人だけで交わした睦言や、内緒事までは、この志乃も存じませぬ。閨の外の乳母に、姫君がたが、何もかもを明かすはずもなく」
つまり、公に知られたことは、備えられる。だが、二人だけの秘密が持ち出されたら――そこに、逃げ場はない。
わたしは闇の中で、拳を握った。この夜が明ければ、玲さまを誰よりよく知る人と、向き合わねばならない。冴斗の読む眼よりも、なお恐ろしい相手と。
*
翌る昼、綾小路撫子は、供を連れて、氷室の館へやってきた。
通された座敷で待つわたしの前へ、その人は、衣擦れの音も高く、駆けるように現れた。
華やかな、けれどどこか勝気な面立ちの姫君だった。大きな瞳が、わたしを見た途端、みるみる潤んでいく。
「玲さま……!」
撫子さまは、膝をつくのも忘れたように、わたしの両手を、ぎゅっと握りしめた。
――手。
わたしは、ひやりとした。絹の下に隠したこの手を、この人は握っている。だが幸い、撫子さまは、わたしの手のひらまでは検めなかった。ただ、再会の喜びに、震えているだけだった。
「お便りが途絶えて、どれほど案じたか……! ご病気と伺って、いても立ってもおられず……ああ、でも、こうしてお会いできて」
言葉が、涙に崩れる。
その飾りのない情の深さに、わたしは、胸を衝かれた。この人は、心から、玲さまを――いや、玲さまだと信じているこのわたしを、案じ、慕っている。わたしは、その情を、欺こうとしている。
罪の意識が、ちくりと、胸を刺した。だが、ひるんではいられない。ひるめば、死ぬ。
「ねえ、玲さま」撫子さまは涙を拭って、悪戯っぽく笑った。「まだ、覚えていて? わたくしのこと、なんとお呼びくださったか」
心の臓が、跳ねた。
呼び名。二人だけの、呼び名。志乃も知らぬ、それを。
わからない。何と呼んでいたのか、知りようもない。
わたしはとっさに、袖で口元を覆い、目を伏せた。そして、消え入るような声で言った。
「……いけずな人。会うて早々、わたくしを、困らせるのですか」
答えを、はぐらかす。名を呼ばず、じゃれ合いの気配だけを、返す。賭けだった。
撫子さまは、一瞬、きょとんとした。それから、ふふ、と笑った。
「相変わらず。恥ずかしがりなのだから」
――抜けた。
わたしはひそかに、息を吐いた。だが、汗が、背を伝っていた。こんな綱渡りが、あと幾度、続くのか。
しばらく、二人で語らった。撫子さまは、次から次へと、思い出を繰り出してくる。都で見た花火。分け合った菓子。詠み交わした歌。その多くは、志乃から聞かされた公の事柄で、わたしはなんとか、相槌を打つことができた。
だが。
語らううちに、わたしは、あることに気づき始めた。
撫子さまの、眼だ。
言葉は、あくまで柔らかい。涙も、笑みも、本物だ。だが、その瞳の奥に、時折、すっと、冷たい光がよぎる。わたしの一挙一動を、確かめるような。値踏みするような。――試すような。
叩かれる前に打ち手の眉を読み、飯を減らされる朝に女中頭の唇を読んできた、あの眼が、告げていた。
この人は、疑っている。
情に篤い、涙もろい姫君の顔の下で、綾小路撫子は、冷徹に、わたしを見定めようとしている。
やがて撫子さまは、ふと、声を落とした。そして、いかにも懐かしげに、こう言った。
「ねえ、玲さま。覚えていて? あの年の、七夕の夜。二人で、あなたのお邸の、離れの屋根に上って……願い事を書いた短冊を、そっと、軒の梁に、隠したでしょう。……あれ、まだ、あるかしら」
わたしの、息が、止まった。
離れ。
その言葉に、全身の血が、逆流した。
だが、それどころではない。撫子さまは、いま、決定的な問いを投げてきたのだ。七夕。屋根。隠した短冊。二人だけの、思い出。――知るはずも、ない。
「ええ」と、答えれば。もしそれが撫子さまの作り話であったなら、その瞬間、わたしの化けの皮は、剥がれる。
「いいえ」と、答えれば。もしそれが本当の思い出であったなら、玲さまが忘れるはずのないそれを忘れたことで、疑いは、確信に変わる。
どちらを、選んでも。
撫子さまの、潤んだ、けれど底の冷えた瞳が、わたしの答えを、待っていた。
(つづく)




