第九話 試す人
どちらを選んでも、破滅が待っている。
凍りついたまま、わたしは撫子さまの顔を、見た。いや――読んだ。生き延びるために磨いた、この眼で、必死に。
潤んだ瞳。懐かしげな口元。だが、その奥。まばたきの、わずかな間。わたしの答えを待つ、その視線の、ほんのかすかな、張りつめ。
――違う。これは、思い出を懐かしむ眼では、ない。
罠だ。この人は、ありもしない話を仕立てて、わたしが「ええ」と乗るか、それとも「いいえ」と忘れたふりをするか――それを、試している。
わたしの読みが正しければ。あの七夕の夜など、初めから、なかったのだ。
だが、もし読み違えていたら。……賭けだった。命を懸けた、賭け。
わたしは、選ばなかった。「ええ」も「いいえ」も、口にしなかった。
その代わりに――涙を、こぼした。
それは、作った涙では、なかった。追い詰められた恐怖。撫子さまの情を欺くうしろめたさ。そして、名も知らぬ姫君を悼む、あの夜からずっと胸に淀んでいた哀しみ。それらが、一度に、あふれ出した。
「……撫子さま」わたしは、震える声で言った。「わたくしは……わたくしは、恐ろしいのです」
撫子さまの、笑みが、止まった。
「あの病で……高い熱に、幾日も、うなされて。目が覚めたとき、わたくしの中から……いくつもの、大切な日々が、消えていたのです」
嘘と真が、綯い交ぜになって、口をついて出た。
「あなたと過ごした、かけがえのない時さえ……思い出そうとすると、霧がかかったように、おぼろで……。あなたが、こうして訪ねてくださったのに。わたくしは、その大切な思い出を、確かには、たどれない……。それが、恥ずかしくて、恐ろしくて……あなたに、見損なわれるのが、こわくて……」
顔を覆って、わたしは、泣いた。
沈黙が、落ちた。
撫子さまは、しばらく、身じろぎもせず、わたしを見つめていた。その視線の質が、少しずつ、変わっていくのを、わたしは、覆った指の隙間から、感じ取っていた。
冷たい光が、揺らいでいる。疑いが、たじろいでいる。
やがて撫子さまは、そっと、わたしの背に、手を回した。
「……ごめんなさい」
その声は、震えていた。
「ごめんなさい、玲さま。わたくしは……ひどいことを、しました」
撫子さまはわたしを抱いたまま、告白するように、囁いた。
「あの七夕の話は……嘘なのです。屋根に上ったことも、短冊を隠したことも、そんなことは、一度もなくて。……わたくしは、あなたを、試したのです」
やはり、罠だった。わたしの読みは、外れていなかった。
だが、なぜ――と問う前に、撫子さまは、続けた。
「疑って、しまったのです。あなたを。……許して。でも、どうしても、確かめずには、いられなかった」
撫子さまの腕に、力がこもった。
「だって……あなたから届いた、最後のお文。あれが……あまりに、おかしかったから」
わたしの、心の臓が、冷えた。
「いつものあなたらしくない、乱れた字で。たった、一行だけ。『わたくしに、もしものことがあれば、これを、信じて』と。……それきり、あなたからのお便りは、ぷつりと、途絶えてしまった」
撫子さまは身を離し、潤んだ瞳で、わたしをまっすぐに見た。
「玲さま。あの文は、どういう意味だったの? あなたはあのとき……何に、怯えていたの?」
わたしは、答えられなかった。
なぜなら、それは、わたしが、いちばん知りたいことでも、あったからだ。
(つづく)




