第十話 もしものことが
撫子さまは、日が傾くまで、館に留まった。
別れ際、玄関先で、撫子さまはふと、懐から一通の文を取り出した。折り皺の寄った、古い文だった。
「これを……お返しします」撫子さまは、それをわたしの手に、そっと握らせた。「あなたから届いた、最後のお文。ずっと、肌身離さず、持っておりました。……あなたの身に、何かあったのではと、案じて」
わたしは、その文を、受け取った。指先が、震えた。
「もし、いつか」撫子さまは、潤んだ瞳で微笑んだ。「霧が晴れて、あのときのことを、思い出されたなら。……どうか、文をください。此度は、まことの、お返事を」
まことの、お返事を。
その一言が、また新たな枷となって、わたしの首にかかった。この人は、いつか、わたしの書いた文を待っている。玲さまの、あの流れるような字を。
撫子さまの乗物が、門を出ていくのを、わたしは、いつまでも見送っていた。心を、揺さぶられていた。あの人の情は、本物だった。わたしは、その本物の情を欺いて、切り抜けた。勝った、とは、少しも思えなかった。
*
その夜。
わたしは、志乃を部屋に呼んだ。そして、撫子さまから渡された文を、その前に置いた。
「志乃。読んでください」
わたしには、読めぬ。それが、口惜しかった。志乃は文を開き、目を落とした。そして――その顔が、こわばった。
「……この、字」
「見覚えが、ありますね」わたしは、静かに言った。「あの書きかけの文と、同じ。乱れた、玲さまの手」
志乃は、答えなかった。だが、その沈黙が、答えだった。
「志乃」わたしは、その目をまっすぐに見据えた。「もう、はぐらかさないでください。撫子さまは、仰いました。玲さまの最後の文は、何かに怯えていた、と。『もしものことがあれば、これを信じて』と。……そして、あの書きかけの文には、『あの夜、離れで、見てしまった』と、ありました」
わたしは、一息に言い切った。
「玲さまは、病で亡くなったのでは、ありませんね」
志乃の、肩が、震えた。皺だらけの手が、口元を覆う。老女の目から、堪えきれぬものが、あふれ出した。
長い、長い、嗚咽のあとで。志乃はようやく、掠れた声を絞り出した。
「……あの夜」
声が、震えていた。
「あの夜。わたくしは、姫さまのお姿が見えぬことに気づいて、離れへ、捜しに参りました。そうして……」
志乃の顔から、血の気が失せていく。
「離れの、庭で。姫さまは……もう、こと切れて、おられました。冷たい、雨の中で」
わたしは、息を、呑んだ。
「わたくしは、悲鳴を上げようとしました。けれど――そのとき。離れの木戸から、一つの人影が出ていくのが、見えたのです。闇に紛れて、足早に」
志乃の指が、わたしの腕を掴んだ。
「その者の、着物の肩に……月明かりで、家紋が、一瞬、浮かびました。わたくしは、それを、確かに……」
「――志乃どの。こちらにおられたか」
襖の外から、声がした。榊直茂だった。
志乃の口が、ぴたりと閉じた。顔から、すっと、表情が消える。
「殿が、奥方さまを、お呼びです。夕餉を、共に、と」
襖越しの、榊の声。だが、わたしの背には、氷の汗が伝っていた。
いま、志乃は、何を言いかけた。あの夜、離れから消えた者の、家紋を。
そして――その榊の声は、いつから、襖の外に、あったのだろう。
(つづく)




