第七話 氷の罅
あの書きかけの文のことは、志乃が固く口を閉ざした。何を訊いても、「お忘れなさい」の一点張りで、取りつく島もなかった。
だが、忘れられるはずがなかった。
姫さまは、あの夜、離れで、何かを見た。そして、その文を書いている途中で、筆を断たれた。――それからほどなくして、姫さまはこの世から消えたのだ。
偶然の、はずがない。
わたしの中で、一つの恐ろしい考えが、形を成しつつあった。姫さまは、病で亡くなったのではない。見てはならぬものを、見た。だから、消された。そして、その口を封じた者は――いまも、どこかに、いる。
わたしは、その姫さまの顔をしている。
もし、あの夜のことを、姫さまが誰かに話していたら。あるいは、消した者が、「見た娘は、まだ生きている」と思い込んでいたら――
背筋が、寒くなった。
わたしが引き受けたのは、姫さまの名だけではなかったのかもしれない。姫さまがその身に負った、死そのものを――わたしは、引き継いでしまったのかもしれない。
*
そんな折、冴斗から、庭を歩かぬか、と誘いがあった。
輿入れから、幾日か。夫婦とは名ばかりで、わたしたちはまだ、ほとんど言葉を交わしていなかった。病み上がりゆえ、と称して、わたしが人前を避けていたせいもある。
断る口実は、なかった。わたしは志乃に帯を直され、震える心を押し隠して、庭へ出た。
氷室の庭は、館と同じく、隅々まで手が入っていた。刈り込まれた植栽。据えられた石の、寸分の狂いもない配置。美しい。だが、どこか、息が詰まるほどに整いすぎていた。
冴斗は、わたしの半歩先を、ゆっくりと歩いた。しばらく、二人とも無言だった。
わたしはいつものように、この男を読もうとした。何を考えているのか。何を探ろうとしているのか。だが、その横顔からは、やはり何も読み取れなかった。
池の畔で、冴斗がふと足を止めた。
「この庭を」と、彼は言った。「どう、思う」
姫さまなら、なんと答えるだろう。美しゅうございます、とでも。当たり障りのない、褒め言葉を。わたしはそう言いかけて――ふと、口をつぐんだ。
この男は、当たり障りのない言葉を、聞きたいのだろうか。
いや。この男の眼は、そんなものを求めていない。読む眼を持つ者は、飾った言葉のうそ寒さを、いちばんよく知っている。
わたしは、正直に言ってしまった。
「……少し、息が詰まりまする」
言ってから、はっとした。しくじった。姫君の言うことでは、ない。
だが。
冴斗が、こちらを見た。初めて、その眼にはっきりとした色が浮かんだ。驚き――と、それから、かすかな、面白がるような光。
「息が、詰まる、か」
「……申し訳、ございませぬ。差し出たことを」
「いや」冴斗は、庭へ目を戻した。「同じことを、俺も思っていた」
え、と、わたしはその横顔を見上げた。
「整いすぎたものは、どこか死んでいる。この庭も。この、家も」
その声に、初めて、氷の面の下の何かが覗いた気がした。孤独、とでも呼ぶべきものが。
わたしは不覚にも、胸を突かれた。この男もまた、隙のない鎧の中に、たった一人で閉じこもっているのかもしれない。読む眼を持つ者どうし、わたしたちはどこか、似ているのかもしれなかった。
と、そのとき。
庭の入り口から、足音が近づいてきた。榊直茂だった。うやうやしく頭を下げながらも、その眼は、油断なくわたしを一瞥する。
「殿。お報せが」
榊は冴斗に、何かを耳打ちした。
冴斗の眉が、動いた。そして、こちらを振り返る。
「――よい報せだ」と、彼は言った。「そなたの旧き友が、明日、訪ねてくるそうだ」
わたしの心の臓が、嫌な音を立てた。
旧き、友。
「都におられた、綾小路の姫君だ。そなたとは、幼き頃より姉妹のように育ったと、聞いておる。輿入れを祝いに、な」
冴斗の言葉は、どこか遠くで聞こえた。
幼き頃より、姉妹のように。
――姫さまを、誰よりもよく知る人が。明日、この、わたしの前に、来る。
(つづく)




