第六話 亡き人の手習い
翌朝、人払いをした奥の間で、わたしは志乃に、昨夜のことを残らず話した。
筆が持てなかったこと。病み上がりを装って、切り抜けたこと。そして、冴斗のあの去り際の言葉を。
志乃は聞き終えると、長いこと黙り込んだ。
「……よう、凌がれました」やがて、そう言った。「だが、その手は、二度は使えませぬ。病は、いつか癒える。癒えてなお字が書けねば、こたびこそ、疑いは確信に変わりましょう」
わかっている。わたしにも、それはわかっていた。
「志乃」わたしは思い切って言った。「わたしに、字を教えてください」
志乃が、顔を上げた。
「せめて――姫さまの、お名前だけでも。文の、真似事だけでも。書けねば、わたしはいずれ死ぬ。あなたも、この家の皆も」
志乃はわたしの覚悟を、量るように見つめていた。そして、深く頷いた。
「……お教えいたしましょう。ですが、内密に。誰にも、悟られてはなりませぬ」
その日から、夜ごと、密かな手習いが始まった。
志乃がどこからか、古い紙の束を持ってきた。黄ばんで、端の擦り切れた、手習いの紙だった。
「これは……?」
「姫さまの」志乃の声が、ふと湿った。「幼き日の、お手習いにございます」
わたしはその紙を、そっと手に取った。
たどたどしい、幼い筆跡だった。「いろは」を幾度も幾度も、書き連ねてある。大きくはみ出し、墨を撥ねさせ、けれど一枚ごとに、少しずつ形が整っていく。同じ字を、百も、二百も。この字を書いた童女が、やがて、あの流れるような手蹟の姫君になったのだ。
一枚の隅に、稚い字で、こう書いてあった。「志乃、みてください」と。
志乃がその一行を見て、袖で口元を押さえた。
わたしは、胸を締めつけられた。
この紙を書いた娘は、もういない。わたしは、その娘の顔をして、その娘の名を騙り、その娘の許嫁の妻になった。憎まれ役として消されたのでも、恨みを買ったのでもない。ただ、生きて、笑って、志乃に字を見てもらいたがった一人の娘が――誰かの手によって、この世から消された。
わたしはいつのまにか、玲さまを、亡き人として悼んでいた。
筆を、教えられた通りに握る。三本の指で、軽く。わたしの節くれだった指は、その繊細な力加減を、なかなか覚えなかった。力を入れすぎては墨を撥ね、抜きすぎては、線がかすれる。
だが、わたしには、あの眼があった。
志乃の手本を、指の運びを、筆の傾きを、穴のあくほど見つめた。墨の含ませ方。とめ、はね、はらい。一画ごとの、息の使い方。見て、写して、また見て、写す。あかぎれの手で、わたしは、亡き人の字をなぞり続けた。
夜が、更けていった。
幾晩目かの夜だった。
志乃が持ってきた紙の束を繰っていたとき、その一番下に、ほかとは違う紙が一枚、紛れ込んでいるのに気づいた。
手習いの紙では、なかった。それは、文の書きかけだった。大人の――流れるような、姫さまの手蹟。だが、途中でぷつりと、途切れている。
そこには、こう記されていた。
『わたくしは、見てしまいました。あの夜、離れで――』
文字はそこで、乱れて、消えていた。まるで、書いている途中で、誰かに見咎められでもしたかのように。
わたしの指が、止まった。
あの夜。離れで。姫さまは、何を見たのだろう。
「志乃」わたしはその紙を差し出した。「これは……姫さまは、何を……」
志乃の顔から、さっと血の気が引いた。
わたしの手からその紙を奪うように取り上げると、志乃は、震える声で言った。
「……これは、何でもありませぬ。お忘れなさい」
その眼は、わたしを見なかった。
(つづく)




