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偽りの令嬢 ~下働きの娘は、消えた姫君に成り代わり冷徹な婚約者を欺き続ける~  作者: 智珠


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第五話 書けぬ手

 筆が、わたしを待っていた。


 冴斗の視線が、わたしの横顔にじっと注がれている。逃げ場はなかった。書けと言われて、書けぬと言えば、それで終わる。この座敷を出ることは、二度とできなくなる。


 わたしは震える指を、硯《すずり》の墨へ伸ばした。


 筆を、とる。だが――どう握ればよいのか、わからない。薪を握り、桶を提げてきたこの手は、細い軸をどう支えればよいのかを、まるで知らないのだ。指の間で、筆はぐらぐらと頼りなく揺れた。


 これを、冴斗に見られている。


 背に、冷たい汗が伝った。人の顔色を読む眼が、いまばかりは何の役にも立たない。読んだところで、書けぬものは、書けぬ。


 ――ならば。


 わたしは、覚悟を決めた。


 下手に取り繕おうとするから、ぼろが出る。ならばいっそ、この震えを、そのまま使えばいい。病み上がりの、この手を。


 わたしはあえて筆先を紙に落とし、一画、線を引いた。墨はぶれて、かすれて、みみずの這うような、無様な線になった。


 己の書いた線を見て、わたしはわっと顔を覆った。


「……いや、いやでございます」


 声を、震わせた。恥じ入るように。打ちひしがれるように。


「このような……このような手で。わたくしの字は、こんな、こんなものでは……」


 それは、半分は芝居だった。だが、もう半分は、本当だった。姫さまの、あの流れるような字を、わたしは書けない。似ても似つかぬ、この無様な線しか、引けない。その事実が、芝居の涙に、本物の悔しさを滲ませた。


 冴斗が、わずかに身を乗り出した。


「……手が、震えておるな」


 低い声だった。わたしは顔を覆ったまま、こくりと頷いた。


「患いが、癒えきらぬのでございます。筆を持つと、指が言うことをきかず……以前のようには、とても……」


 言葉尻が、涙に溶けた。


 沈黙。


 わたしは指の隙間から、冴斗の顔を盗み見た。読まねばならない。この芝居を、この男がどう受け取ったのかを。


 冴斗はじっと、わたしの手を見ていた。震える指を。無様な線を。その眼から感情を読み取ろうとして――わたしは、ぞっとした。


 読めない。


 この男の内心が、まるで読めないのだ。信じているのか、疑っているのか。憐れんでいるのか、見透かしているのか。氷の面《おもて》の底は深く沈んで、底が見えない。わたしの業が、初めて通じなかった。


 やがて冴斗は、静かに筆を取り上げた。わたしの手から、そっと。


「よい」


 その一言に、わたしは詰めていた息を、危うく漏らしそうになった。


「無理をさせた。手が癒えてから、書いてくれればよい」


 助かった。膝の上で握った拳の中が、汗でぬるついていた。


 冴斗は玲さまの文を、懐へ戻した。あの、幾度も読み返された文を。そして静かに立ち上がった。


 襖に手をかけたところで、冴斗はふと足を止めた。


 背を向けたまま、独り言のように、彼は言った。


「……病というのは、不思議なものだな」


 わたしの心の臓が、跳ねた。


「人を、これほどまでに変えるものか。手蹟《しゅせき》も、声も。面差しの、その奥まで」


 その声には、感傷とも疑念ともつかぬ、名づけようのない色が滲んでいた。


 冴斗は、こちらを振り返らなかった。振り返らぬまま、襖を開けて、出て行った。


 残されたわたしは、畳の上で、ただ凍りついていた。


 あの男は――どこまで、気づいているのだろう。


(つづく)

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