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偽りの令嬢 ~下働きの娘は、消えた姫君に成り代わり冷徹な婚約者を欺き続ける~  作者: 智珠


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第四話 知らぬ約束

 あの約束は、まだ生きているか。


 問われて、わたしの頭の中は、真っ白になった。


 知らない。知りようが、ない。だが、「覚えておりませぬ」とは、口が裂けても言えなかった。姫さまなら、決して忘れぬ約束であるはずなのだ。この男が、わざわざ人払いをしてまで、声を潜めて確かめたほどの。


 沈黙が、長引けば長引くほど、疑いは濃くなる。何か、言わねば。だが、内容の知れぬ約束に、うかつな色をつければ、それが命取りになる。


 ――ならば。


 わたしは、賭けに出た。


 知らぬのなら、相手に語らせればいい。人の顔色を読んで生きてきたわたしが、いちばん得意とすること。それは、自分から手の内を晒さず、相手の口から、答えを引き出すことだった。


 わたしは、そっと睫毛を伏せた。そして、悲しみとも、含羞ともつかぬ吐息を、ひとつ、落とした。


「……そのことを、口になさいますか。いま、ここで」


 声に、かすかな咎めと、かすかな切なさを、匙加減して滲ませる。まるで、その約束があまりに胸に重いからこそ、たやすくは触れられぬ――とでも、言うように。


 賭けだった。もしこれが、他愛のない口約束であったなら、この重々しい返しは、ちぐはぐに響く。


 だが。


 冴斗の眼が、わずかに、揺れた。


 図星だった。あの約束は、この男にとっても、軽くはないのだ。わたしの思わせぶりな一言は、外れなかった。


「……いや」冴斗は、視線をわずかに逸らした。初めて見せた、迷いの色だった。「無粋であった。忘れられよ」


 彼は、そう言って、背を向けた。今度こそ、奥へと歩き出す。


 わたしは、その背を見送りながら、掌に、びっしょりと汗をかいていた。命拾いした。だが、それは同時に、恐ろしい確信を、わたしに残した。


 あの約束が何であるかを、わたしはいつか、必ず、知らねばならない。知らぬまま、いつまでも思わせぶりで、かわし続けることなど、できはしないのだから。


   *


 輿入れから三日の後、祝言《しゅうげん》の儀が、執り行われた。


 金屏風の前に、冴斗と並んで座らされ、幾度も盃を交わした。三三九度。巫女の舞。居並ぶ氷室方の親族たちの、値踏みするような視線。わたしは志乃の教えだけを頼りに、人形のように、ただ、所作を間違えぬことに、心を砕いた。


 盃を持つ手が、袖の中で震えた。この手を、指先を、誰かに間近で見られはしまいか。白粉を刷き、絹の下に隠した、この手を。


 膳が運ばれてきたとき、わたしは、危うく箸をとり違えそうになった。志乃が、末席から、目でわたしを制した。その一瞥で、辛うじて、事なきを得る。


 そして、宴のあいだじゅう、あの男――榊直茂の眼が、わたしを、追っていた。


 わたしが盃を、どう持つか。どう頭を下げるか。箸を、どちらの手でとるか。まるで、一つでも綻びを見つけようと、手ぐすねを引いているようだった。冴斗が「読む」眼なら、榊のそれは、初めから「暴く」ために光っている眼だった。


   *


 夜が更け、宴が果てて、わたしは初めて、冴斗と二人きりの座敷に、通された。


 夫婦、ということに、なる。けれど、その言葉のよそよそしさに、わたしは、身を硬くしていた。


 冴斗は、床の間を背に座り、しばらく無言で、庭の闇を眺めていた。やがて、懐から、一通の文《ふみ》を取り出した。折り目の柔らかくなった、幾度も読み返された、文だった。


「これを」と彼は言った。「そなたが、輿入れの前に寄越した文だ」


 わたしの心の臓が、嫌な音を、立てた。


 姫さまの、文。この男が、後生大事に懐へ忍ばせていた、姫さまの、手蹟《しゅせき》。


「幾度も、読んだ」冴斗の声が、ほんのわずか、和らいだ気がした。「この文が届いてから、そなたが来る日を、待っていた」


 彼は、その文を、そっとわたしの膝の前に、置いた。そして、傍らの文机に、真新しい紙と、筆と、硯を、静かに、揃えた。


「返しを、書いてはくれぬか」


 わたしは、その紙を、見つめた。


「今宵の心を。一筆で、よい。……そなたの、字で」


 そなたの、字で。


 筆が、わたしを待っていた。真っ白な紙が、わたしを待っていた。


 わたしは、筆の持ち方すら、知らない。姫さまの名の、たった一字も、書けは、しないのだ。


(つづく)

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