第三話 見透かす眼
輿に揺られていたのが、半日だったか、丸一日だったか、わたしにはもう、わからなかった。
薄暗い箱の中で、わたしはただ、志乃に叩き込まれた作法を、頭の中で幾度も繰り返していた。歩き方。お辞儀。「わたくし」。語尾の「ませ」。忘れれば、死ぬ。念仏のように、それを唱え続けた。
やがて、行列の足が緩んだ。人のざわめきが、簾の外に満ちる。門をくぐる気配。石畳を渡る、担ぎ手の足音が変わった。
輿が、静かに、地へ降ろされた。
――来て、しまった。
簾が上げられ、真昼の光がどっと差し込んで、わたしは思わず目を細めた。
差し伸べられた侍女の手を借りて、輿を出る。顔を上げて、わたしは、息を呑んだ。
氷室の館は、琴宮のそれとは、何もかもが違っていた。
琴宮の別邸が、苔むした古木のように朽ちかけていたのに比べ、氷室の館は、研ぎ澄まされた刃のようだった。白壁は染みひとつなく、玉砂利は掃き清められて筋が通り、居並ぶ家士たちの背は、みな一様に、まっすぐだった。塵も、緩みも、どこにもない。
家は、主を映す。荒れた家には荒れた心が、整うた家には――底冷えするほど整うた心が、住まう。
まだ見ぬその人の姿が、この白い庭を見ただけで、わたしの中で、うっすらと像を結び始めていた。
玉砂利を踏む音がして、家士たちが、波の引くように左右へ退いた。
その奥から、一人の男が、歩いてくる。
背が高く、無駄のない痩身。濃い藍の羽織を、寸分の乱れもなく着こなしている。年の頃は、二十をいくつか出たばかりだろうか。だが、その面には、若さに似合わぬ酷薄さが、刷かれていた。
氷室冴斗。
説明されずとも、わかった。この庭のすべてが、この男から発しているのだと。
わたしは、志乃の教えを守って、視線を落とした。まっすぐ見てはならぬ。あの眼は、瞳の底から人を読む。
だが、伏せた睫毛の隙間から、わたしはやはり、その人を盗み見ずにはいられなかった。それが、わたしの業だからだ。
冴斗は、わたしの前で、足を止めた。
そして――見た。
挨拶の言葉より先に、その眼が、わたしを検分し始めた。額から、眉、目、頬、唇。志乃がしたように、当主がしたように。けれど、この男の視線は、そのどちらとも、違った。顔かたちを検めているのではない。もっと奥――皮膚の下、瞳の裏側にあるものを、覗き込もうとしている。
背筋が、粟立った。
見られている、のではない。読まれている。
「……遠路、大儀であった」
低い、静かな声だった。感情の温度が、まるで読めない。
わたしは、教えられた通りに、深く頭を下げた。
「もったいのう、ございます」
声が、震えなかっただろうか。語尾は、正しかっただろうか。頭を下げたまま、わたしは全身を耳にして、男の気配を探った。
沈黙が、あった。
わたしの挨拶を、量っている。その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「面を、上げられよ」
言われて、ゆっくりと顔を上げた。だが、眼は合わせない。彼の胸元、羽織の紋のあたりに、視線を留める。
冴斗は、しばらく、わたしを見つめていた。そして、ふと、こう言った。
「……痩せられたか」
心の臓が、跳ねた。
痩せた、と彼は言った。つまり、この男は、以前の姫さまの姿を、覚えているのだ。一度きりの顔合わせで。その体つきまで。
罠だ。うかつな相槌ひとつが、命取りになる。
わたしは、とっさに視線を伏せ、袖で口元を隠すようにして、消え入る声で言った。
「……長の患いを、しておりましたゆえ」
病み上がり。それだけが、わたしのすべての綻びを覆い隠す、たった一枚の薄布だった。痩せたのも、顔つきが変わったのも、声の調子が違うのも――みな、病のせいに、できる。志乃が、そして当主が、辛うじて残してくれた逃げ道だった。
冴斗の眉が、かすかに、動いた。
その微細な動きを、わたしは、見逃さなかった。納得――ではない。かといって、疑い切ってもいない。宙ぶらりんの、値踏みするような色。
この男は、わたしの言葉を、鵜呑みにはしていない。
冴斗の背後には、もう一人、侍が控えていた。三十半ばの、目つきの鋭い男だ。榊直茂――のちに、そう知る、氷室家の用人だった。その眼は、冴斗のそれとは、また別の意味で、剣呑だった。冴斗が「読む」眼なら、榊のそれは「疑う」眼だった。輿を降りたときから、その視線が、わたしの一挙一動に、ぴたりと貼りついて、離れない。
二つの眼に晒されながら、わたしは、たった一枚の薄布を頼りに、そこに立っていた。
「奥へ、ご案内いたす」
冴斗はそう言って、背を向けかけた。助かった――そう思って、わたしが、詰めていた息を、そっと吐こうとした、その刹那だった。
男が、ふと、足を止めた。そして、半歩、こちらへ戻ってくる。
周りの家士には聞こえぬほどの、低い声で、彼は言った。
「――あの約束は」
わたしの、息が、止まった。
「あの日、交わした約束は。……まだ、生きておりますか」
その眼が、まっすぐに、わたしの眼を覗き込んでいた。志乃の戒めも忘れ、わたしは思わず、その視線を、受けてしまった。
約束。
あの日、交わした――何を?
わたしは、知らない。姫さまと、この男が、一度きりの顔合わせで、何を語り、何を誓ったのか。志乃さえ、その部屋にはいなかったのだ。
答えを、待たれている。
この男の眼が、わたしの喉元に、見えぬ刃を、突きつけていた。
(つづく)




