第二話 二日で、姫になれ
当主が去ったあと、広間に残されたのは、わたしと、あの老女――志乃だけだった。
志乃はしばらく、脇息の置かれていたあたりをじっと見つめたまま、身じろぎもしなかった。灯芯の焦げる、かすかな音だけが部屋に満ちている。やがて彼女は深く息を吐き、こちらへ膝を向けると、黙ってわたしの右手をとった。
骨ばった、けれど温かい指だった。その指が、わたしの手の甲をゆっくりとなぞる。あかぎれの裂け目、掌の胼胝、井戸水と灰汁で赤黒く荒れた皮膚――ひとつひとつを、目の見えぬ者が文字を読むように、丹念に確かめていく。
「……ひどいこと」
呟きは、わたしを憐れんでいるようでもあり、ただ途方に暮れているようでもあった。
「この手では、とても姫にはなれぬ」
わたしは、何も言えなかった。言えることなど、なかった。
志乃はわたしを立たせ、隣の一室へ連れて行った。据えられた盥には、もう湯が張られている。人払いはとうに済んでいるらしく、ほかに人の気配はなかった。
「お脱ぎなさい。何もかも」
言われるまま襤褸を脱ぐと、志乃はわたしの身体を、これもまた検分するように見た。日焼けした首筋、擦り切れた膝、薪を担いで硬くなった肩。姫君の柔肌とは、何もかもが違う。彼女の眉間の皺が、深くなっていくのがわかった。
湯をかけられ、糠袋で幾度も肌をこすられた。志乃の手つきは容赦がなく、荒れた皮膚が沁みて痛んだ。けれどわたしは、声を上げなかった。痛みを訴えれば、この人がまた一つ、途方に暮れる。それだけは、したくなかった。
肌が人心地つくまで洗われ、髪を梳かれるころには、東の障子がすっかり白んでいた。ひと晩、まんじりともしなかったことになる。
それから、地獄のような二日が始まった。
まず、歩き方だった。
「下女の歩きは、地を蹴る。姫の歩きは、地を滑る」
志乃はそう言って、自ら手本を見せた。裾の乱れぬすり足。上体は微塵も揺れず、まるで水面を氷が滑るように、音もなく畳の上を進んでいく。
「やってごらん」
やってみた。三歩で、つまずいた。膝で歩くことに慣れきった身体は、腰から下をどう使えばよいのか、まるで覚えていない。
だが――わたしには、ひとつだけ取り柄があった。
人を、見ることだ。
もう一度、志乃に歩いてもらった。今度は、足そのものではなく、その手前を見た。腰の据え方。膝の抜き方。踵から爪先へ、体の重みがどう移っていくか。裾を割る、ほんのわずかな膝の送り。叩かれる前に打ち手の眉を読み、飯を減らされる朝に女中頭の唇を読んできた、あの眼で。
三度目には、五歩、続いた。
志乃が、はっとしたように動きを止めた。
「……もう一度」
言われて、また歩いた。今度は、部屋の端まで。すり足の要領が、指先から掌へ落ちてくるように、身体に馴染んでいく。
「妙な娘だこと」志乃は低く呟いた。「一度見たものを、そのまま写しとる」
褒められたのか、気味悪がられたのか、わからなかった。ただ確かなのは、生き延びるために身につけたこの眼だけが、いまのわたしを支える、たった一本の綱だということだった。
箸の上げ下ろし。袱紗のさばき方。膝行。お辞儀の角度。「わたくし」という一人称。語尾に添える「ませ」「くださいまし」。志乃が示すそばから、わたしはそれを盗むように覚えていった。覚えなければ死ぬ。当主の言葉は、脅しではない。
夜、疲れ果てて筆を持たされたとき、初めてわたしは、越えられぬ壁にぶつかった。
「では、名を。ご自分の――姫さまの名を、書いてごらんなさい」
差し出された紙と筆を、わたしは、ただ見つめた。
「……書けませぬ」
「一字も?」
「一字も」
志乃の顔から、また血の気が引いた。今度のそれは、朝に見たものより、ずっと深かった。
彼女は筆を置き、こめかみを指で押さえて、長いこと黙っていた。
「……氷室さまは」やがて、絞り出すように言った。「姫さまと、幾度か文を交わしておられます」
わたしは、その言葉の重さを、すぐには量りかねた。
「顔合わせは、一度きり。されど、婚儀の話が調うてからは、文でのやりとりが続いておりました。氷室さまは、姫さまの手蹟を、ご存じなのです。あの、流れるような、綺麗な字を」
志乃の声が、震えた。
「輿入れの後、いずれ必ず、返しの文を求められましょう。あるいは、その場で何かを書くよう、乞われるやもしれぬ。……そのとき、あなたは」
言葉は、そこで途切れた。続きを言う必要は、なかった。
わたしは、己の掌を見た。まだ、三日月の爪痕が、うっすらと残っている。この手は、水は汲める。薪も割れる。けれど、姫さまの名の、たった一字も、書けはしないのだ。
顔が同じであることは、天が与えた僥倖だったのかもしれない。だが天は、その僥倖の裏に、こうして幾つもの罠を、そっと仕掛けていた。
二日目の夜が、更けていった。
*
出立の朝が、来た。
白粉を刷かれ、紅をさされ、幾重にも打掛を重ねられて、わたしは磨きあげられた鏡の前に座らされた。
そこに映っていたのは、わたしではなかった。
見たこともない、青ざめて美しい、姫君だった。あかぎれの手は長い袖の中に隠れ、荒れた首筋は白く塗り込められて、下女の千代は、どこにもいない。けれど、鏡の中のその人が瞬きをすると、それはやはりわたしで、わたしは、ぞっとした。この顔が、死んだ――いや、病んだはずの姫君と、寸分違わぬのだ。
輿が、庭に据えられていた。
志乃に手を取られ、わたしはその中へ乗り込んだ。狭い、薄暗い箱の中。簾が下ろされると、外の光は細く裁ち切られ、まるで世界から隔てられたようだった。
簾越しに、志乃が身をかがめて、耳元で囁いた。
「よろしいか。氷室さまの眼を、決して、まっすぐに見返してはなりませぬ。あの御方は――人の胸の裡を、瞳の底から読み取る御方。姫さまでさえ、あの眼の前では、言葉を選んでおられました」
その声が、わたしの背に、氷の刃を滑らせた。
瞳の底から、読み取る。
それは――ほかならぬ、わたしが、してきたことだ。人の顔から、隠された心を盗み見る。わたしがこれまで、生き延びるために磨いてきた、たった一つの業。
これから嫁ぐ相手は、わたしと同じ眼を持つ男だという。
輿が、ふわりと持ち上がった。担ぎ手の足並みが揃い、行列が動き出す。ぎ、ぎ、と輿の柱が軋み、簾の隙間を、朝の光が縞になって流れていった。
この輿が、次に地へ降ろされるとき。
わたしは、氷室冴斗の前に立つ。
(つづく)




