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偽りの令嬢 ~下働きの娘は、消えた姫君に成り代わり冷徹な婚約者を欺き続ける~  作者: 智珠


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第一話 顔だけが、同じだった

 井戸から汲みあげた水は、指の節を刻むほど冷たかった。


 まだ夜は明けきらない。東の山際がわずかに白んでいるきりで、庭も井戸端も、薄墨を流したような闇に沈んでいる。千代は桶の縁を握りしめ、かじかんだ手に息を吹きかけた。甲にはあかぎれが幾筋も走り、冬のあいだじゅう治る暇もない。この手がやわらかかったことなど、物心ついてから一度もなかった。


 桶を提げて勝手口へ回りながら、千代はさっきから胸の底に居座る妙な重さを持て余していた。


 いつもと、違う。


 昨夜遅く、幾つもの馬蹄が門をくぐったのだ。本邸から、お屋形さまが供を連れて着いた――それも、供触れもなく夜半にである。年に一度、顔を見せるかどうかの当主だった。その人が真夜中に別邸へ乗りつけるなど、千代がこの屋敷に拾われて十六年、ただの一度もなかったことだ。


 勝手口をくぐると、屋敷じゅうが息をひそめているのが肌でわかった。


 女中頭は血の気の失せた顔で廊下を小走りに行き交い、下男たちは柱の陰で額を寄せ、声にならぬ声で何かを囁き合っている。誰ひとり、何が起きたのかを口にしない。けれど、人の顔つきというのは言葉よりずっと雄弁だ。


 怯えている。誰も彼も、腹の底から怯えきっている。


 千代は幼いころから、人の顔色を読むことだけは得意だった。叩かれる前には、打つ者の眉間に必ず皺が寄る。飯を減らされる朝は、女中頭の唇の端がわずかに下がる。そういう小さな翳りを読み違えれば、この身がそのぶん痛い目を見る。だから覚えた。生き延びるために、覚えるほかなかったのだ。


 その眼が、今朝ははっきりと告げていた。この屋敷では、取り返しのつかない何かが起きた、と。


 姫さまがこの別邸へ下ってこられたのは、半月前のことだった。輿入れを控え、身を清めるために都から遠く離れたこの地へ移られたのだと、そう聞いている。けれど奥向きは、下働きの千代など足を踏み入れることも許されぬ場所だ。姫さまの顔も、声も、千代はついぞ知らぬままだった。


「――そこの娘」


 背後から鋭く呼び止められ、千代は思わず桶を取り落としそうになった。


 振り返ると、奥仕えの老女が立っていた。玲姫さまの乳母だと噂に聞く、志乃という名の女だ。夜通し眠っていないのだろう、目の縁が赤く腫れ、白髪の乱れた鬢が手燭の炎に照らされて震えている。


「湯を、奥まで運びなさい。ほかの者は手が離せぬ。……早く」


 奥へ、と言われて千代は凍りついた。下働きが奥の敷居をまたぐことなど、平時ならば鞭打ちものだ。けれど老女の声には、逆らうことを許さぬ切迫があった。断れば、この人が咎めを受ける――そう直感して、千代は言われるまま湯桶を提げ、初めて奥へと続く長い廊下を歩いた。


 板の間は氷のように冷たく、素足の裏を刺した。


 角を折れたところで、廊下の手燭が、正面から千代の顔を照らした。


 志乃の足が、止まった。


 手燭を掲げたまま、老女は棒立ちになっていた。見開いた目が、千代の顔の上をゆっくりと這う。額から、眉、目、鼻筋、唇――まるで一枚の絵を検分するように、一寸ずつ、食い入るように。その顔から、みるみる血の気が引いていく。


「……顔を、上げてごらん」


 かすれた声だった。千代がおずおずと顔を上げると、志乃の唇がわなないた。手燭を持つ手が震え、床に蝋が一滴、白く垂れて固まる。


「そんな……そんなことが……仏さまは、まだこの家を……」


 言葉は途中で崩れ、老女はよろめくように壁へ手をついた。何が起きているのか、千代にはまるで飲み込めなかった。ただ、この老女が自分の顔に「見てはならぬもの」を見たのだということだけは、痛いほど伝わってきた。


 その騒ぎを聞きつけて、廊下の奥から男が二人、足早に近づいてきた。屈強な体つきの、見覚えのない侍だ。本邸から従ってきた者たちに違いない。


「志乃どの、いかがなされた」


「――お屋形さまを」志乃は喘ぐように言った。「お屋形さまを、お呼びして。この娘を、いますぐ」


 抗う間もなかった。両脇を侍に固められ、千代は湯桶を取り上げられて、そのまま奥の一室へと引き立てられていった。


 通されたのは、灯りの絞られた広間だった。


 部屋の奥に、一人の男が脇息にもたれて座っていた。旅装のままの、疲れ果てた横顔。だが両脇を固められて引き据えられた千代を見た瞬間、その男の目つきが変わった。だるげだった眼差しが、刃のように鋭く尖る。


 お屋形さま――琴宮 影虎。


 当主は音もなく立ち上がると、千代の前まで歩み寄り、その顎に指をかけて、ぐいと上向かせた。冷たい指だった。千代の顔を、蝋燭の炎に晒すように傾け、まじまじと見つめる。左から、右から。眉のかたち、目尻の切れ、唇の薄さ。


 長い、長い沈黙だった。


 やがて影虎の口から、深い、深い吐息が漏れた。何かに追い詰められた獣が、ようやく逃げ道を見つけたような――そんな、ぞっとする響きの息だった。


「……できすぎている」


 男は低く呟いた。千代にではなく、己に言い聞かせるように。


「玲は、病を得た」


 唐突にそう告げられて、千代はぽかんと当主を見返した。


「重い病だ。もはや人前に出られぬ。だが、輿入れの日は動かせぬ。一日たりとも、延ばすわけにはいかぬのだ」


 言いながら、影虎の視線は千代の顔に貼りついたまま離れない。まるで、そこに姫さまの面影を探し当てようとするかのように。


 ――嘘だ。


 千代の胸の底で、冷たい声がそう告げた。


 病、と当主は言った。けれど、この人の目は病人を案じる兄の目ではない。もっと後ろ暗い、取り返しのつかぬものを塗り込めようとする者の目だ。廊下で崩れ落ちた志乃の嗚咽。屋敷じゅうに満ちた葬列のような静けさ。奥の間に微かに漂う、白檀の香――あれは、病人を寝かせる部屋の匂いではない。


 姫さまの身に起きたのは、病などではない。


 悟った途端、背筋を氷の手で撫でられた心地がした。けれど当主の前で、それを面に出すほど千代は迂闊ではなかった。俯き、震える指で己の掌に爪を食い込ませて、こみ上げるものを押し殺す。


「今日この時より」影虎の声が、頭上から降ってきた。「お前は琴宮 玲だ。下働きの千代という娘は、もうどこにもおらぬ。よいな」


「……お、恐れながら」声が掠れた。「わたくしは、字も、作法も、何ひとつ……姫さまの真似など、できようはずも――」


「できねば、死ぬ」


 言葉は、刃物のように短かった。


「お前だけではない。この屋敷の者は、一人残らず口を封じねばならぬ。お前が仕損じれば、皆それに巻き添えを食う。……逆に、うまく果たせば」影虎はわずかに声を落とした。「琴宮の家は救われ、お前も生涯、姫として遇される。今日かぎり、あかぎれの手で水を汲む暮らしとは縁が切れるのだ」


 救いのように差し出されたその言葉が、千代にはかえって恐ろしかった。逃げ道など、初めから塞がれている。頷いても地獄、拒んでも死。当主はそれを承知の上で、選ばせる素振りだけをしてみせているのだ。


 千代は震える唇を噛んだ。


 この顔――ただ、この顔が姫さまと同じだったというだけで。わたしは千代であることをやめ、死んだように生きて、生きているはずの姫君の名を騙る。


(生きている、はず――?)


 己の思いに、ぞくりとした。姫さまは病だと、当主はそう言ったばかりではないか。なのになぜ、胸の奥のもう一人の自分は、姫さまをとうに亡き人のように数えているのだろう。


「明後日には、輿入れの行列を出す」


 影虎は千代の惑いを断ち切るように告げ、脇息のほうへ背を向けた。


「嫁ぐ先は氷室 冴斗――氷室家の若き当主だ。よく覚えておけ。あの男は、人の心の裏まで見透かす。ひとつでも綻びを見せれば、その場でお前の首は飛ぶと思え」


 人の心の裏まで、見透かす。


 その一言が、千代の耳の奥で幾重にも谺した。


 顔色を読むことだけを頼りに生きてきた自分が、これから対峙するのは、自分と同じ眼を持つ男だという。俯いた千代の掌には、爪の痕が三日月の形に食い込んで、うっすらと血が滲んでいた。


(つづく)

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