第三十八話 月の下で
決戦の日取りは、三日後と決まった。
帝が臨席され、公儀の重臣がこぞって参列する、節会。その雅やかな宴の只中で、わたしたちは御堂の罪を暴く。
早瀬が、手引きの算段を整えた。榊たちは万一に備え、密かに腕の立つ者を都に呼び寄せた。冴斗は密書の真物を幾度も確かめ、それを決して奪われぬよう、身につける工夫を凝らした。
着々と、決戦の支度は進んでいった。
その前夜。
わたしは眠れずに、隠れ家の縁に出て、月を見上げていた。あの氷室の館で、眠れぬ夜に冴斗と月を見た、あの夜のように。
と。背後に、人の気配がした。
振り返らずとも、わかった。冴斗だった。彼は、わたしの隣に腰を下ろした。
しばらく、二人、無言で月を見ていた。
「……明日、しくじれば」やがて、冴斗が静かに言った。「俺たちは御堂に捕らえられ、罪人として葬られる。……もはや、後がない賭けだ」
「はい」
「怖いか」
わたしは、少し考えて、正直に答えた。
「……怖い、です。なれど、それ以上に。……やっと、と思うています」
「やっと?」
「ずっと、俯いて生きてきました。下働きとして。叩かれ、蔑まれ、人の顔色ばかり読んで。……名もなく、声もなく」わたしは、月を見上げた。「なれど明日、わたしは。この声で、都の頂に立つ御方に、まことを突きつける。……名もなき下働きの娘が、生まれて初めて、己の声で世に抗うのです。……それが怖くて。そして、たまらなく誇らしい」
冴斗は、しばらく、わたしを見つめていた。その眼に、月明かりが宿っていた。
「……変わったな。お前は」冴斗が、ふと微笑んだ。「初めて会うたとき。俺の前で震えて、俯いていた、あの娘とは。まるで別人だ」
「あなたが……」わたしは、俯いた。「あなたが、まことのわたしを見てくださったからです。偽者のわたしを突き放さず。……千代として、生きよ、と」
沈黙が、落ちた。
やがて、冴斗が、そっとわたしの手を取った。あの、荒れた、あかぎれの手を。今度は、隠す必要もなかった。
「……千代」冴斗の声が、低くなった。「明日、生きてこれを成し遂げたら。……一つ、聞いてほしいことがある」
「……いえ」わたしは、首を振った。そして、勇気を振り絞って、顔を上げた。「明日を待たずに。……いま、聞かせてください。もし明日、どちらかが……欠けても。悔いのないように」
冴斗の眼が、揺れた。それから、彼はまっすぐにわたしを見て、言った。
「……惚れている」
わたしの胸が、熱くなった。
「玲の名を騙る、偽りに、ではない。……千代。まことのお前に。名もなく、素性もなく。ただ、俺の隣で、あの氷の館に風を通してくれた、お前に。……惚れている」
わたしは、涙があふれるのを止められなかった。
偽りの令嬢として、この人のもとに来た、わたし。だが、いま。まことのわたしとして、この人のまことの想いを、受け取っている。
「……わたしも」わたしは、震える声で言った。「わたしも……お慕いしております。冴斗さま。……初めて庭で、あなたが氷の下の孤独を見せてくださった、あの時から。ずっと」
冴斗の手が、わたしの手を固く握った。
偽りを置かぬ、と誓った二人の間に。いま、たった一つの、まことの想いだけが、あった。
月が、傾いていく。
明日。わたしたちは、二十年の闇に決着をつける。母の、祖母の、玲さまの、そして冴斗の母君の――すべての無念を、この両の手に抱えて。
勝てる保証は、どこにもなかった。相手は、天を衝く権力者。かたや、わたしたちは、追われる二人と、寝返った一人。
だが、わたしの胸に、もう迷いはなかった。
隣に、この人がいる。まことの想いで結ばれた、この人が。
それだけで。わたしは、どんな修羅の只中へも、踏み込んでいける気がした。
(つづく)




