第三十七話 寝返る刃
早瀬は、長いこと、地に伏して泣いていた。
わたしは、ただ待った。この男の中で、二十年築かれたすべてが崩れ、そして――新しい何かが形を成すのを。
やがて、早瀬は、涙に濡れた顔を上げた。その目には、もう、あの冷たい殺気はなかった。代わりに、深い悔恨と――そして、新たな烈しい光が、宿っていた。
「……教えてくれ」早瀬は、掠れた声で言った。「その密書。まことに、御堂の花押が」
「まことです。真物は、氷室の当主が守っております。……疑うなら、あなた自身の目で確かめればよい」
早瀬は、しばらく、その写しを見つめていた。そして、ぎり、と歯を食いしばった。
「……御堂……! おのれ……! 我らを滅ぼし……我らをいいように使い……!」
その声は、憎悪に震えていた。だが、その憎悪の矛先は、もはや琴宮ではなかった。
「早瀬」わたしは言った。「あなたに頼みがあります。……いえ。共に戦ってほしいのです。まことの仇――御堂を討つために」
早瀬は、顔を上げた。そして、ゆっくりと頷いた。
「……この命。二十年、仇のために使うてしまった。ならば残りは、まことの仇を討つために。柏木の無念と……俺が手にかけた、玲どのの御霊に、詫びるために」
早瀬は、語り始めた。御堂のこと。柏木の残党のこと。
柏木の残党を束ね、御堂と繋いでいたのは、頭巾のあの人物。早瀬たちの頭領だった。
「あれは」早瀬が、苦々しく言った。「柏木の古い家臣の一人。生き残りを糾合し、我らを率いてきた。……だが、いまにして思えば。あの御方は、初めから御堂と通じていた。我らに真実を隠し、御堂の指図を、柏木の悲願と偽って伝えていたのだ」
柏木の頭領もまた、御堂に飼われた犬だったのだ。二重の裏切り。
「頭領は、知っていた」早瀬の声が震えた。「御堂こそが真の仇だと。知りながら、己の保身のために、同胞を欺き、御堂の手駒として差し出してきた……!」
「御堂を討つ手立ては」冴斗が――いつのまにか榊と共に、廃寺に現れ、話を聞いていた――静かに問うた。
早瀬は、警戒するように冴斗を見たが、やがて口を開いた。
「……密書だけでは、足りませぬ」早瀬は言った。「御堂は公儀の頂。並の訴えなど、揉み消される。……なれど。一つ、道があるやも」
早瀬の眼が、光った。
「近く、帝の御前で、公儀の重臣が居並ぶ、大きな儀がある。御堂も列する。……その公の場で。帝と、万座の前で、密書を突きつければ。さすがの御堂も、揉み消すことはできぬ」
「なれど」榊が眉を寄せた。「そのような場に、我らがどうやって近づく。追われる身だぞ」
「手引きいたす」早瀬が言った。「御堂の手の者として、俺はまだ内に通じている。その伝手を使えば……儀の場へ忍び込む道は、ある」
わたしと冴斗は、顔を見合わせた。
帝の御前。万座の中で、都の頂点に立つ御堂に。追われる二人と、寝返った一人の刺客が、二十年の闇を暴くただ一つの証を、突きつける。
無謀だった。だが――それは、たった一つ、残された道でもあった。
「……一つ、聞かせてほしい」冴斗が、早瀬をまっすぐに見て言った。「なぜ、俺たちがお前を信じられる。つい先日まで、お前は我らの命を狙っていた」
早瀬は、しばらく黙っていた。そして、腰の脇差を抜き――冴斗の足元に置いた。
「信じよとは言わぬ」早瀬は言った。「なれど、俺にはもう、この命を賭けるほかに、玲どのに詫びる術がない。……疑うなら、いつでもこの首を刎ねられよ」
その目に、偽りはなかった。わたしの読む眼が、そう告げていた。
こうして、奇妙な盟が結ばれた。追われる当主と、名もなき下働きの娘と、そして寝返った柏木の刺客と。
標的は、都の天を衝く権力者。決戦の場は――帝の御前。
二十年の闇に決着をつける時が、近づいていた。
(つづく)




