第三十四話 仇の名
「……囲まれた」
冴斗の鋭い囁きに、わたしは身を硬くした。
庵の外。闇の中に、幾つもの殺気が、じわりと立ち込めている。足音はしない。だが、確かに――囲まれていた。早瀬たちだ。わたしたちを都まで尾け、この庵を突き止めたのだ。いや。あるいは――この老女こそが、監視されていたのかもしれぬ。黒幕の正体を知る、最後の生き証人として。
冴斗が、脇差の柄に手をかけ、わたしを背に庇った。
「ご老女」冴斗が鋭く言った。「時がない。……黒幕の名を。早く」
老女は、迫り来る気配を感じ取り、恐怖に震えながらも、決然と口を開いた。
「……御堂」
その一言が、庵の静寂を切り裂いた。
「御堂の内府。あのお方こそが……二十年前、柏木を陥れ……琴宮の先代に罪を着せる絵図を描いた張本人。都で飛ぶ鳥を落とす権勢を誇る……あの御堂の……!」
御堂の、内府。
都でも指折りの権力者。帝の覚えめでたく、公儀を意のままに動かすと噂される、あの――。
その名を聞いた瞬間、冴斗の顔が、蒼白になった。
「……御堂……」冴斗が呻いた。「まさか。あのお方が……母を……」
その時だった。
庵の戸が、外から蹴破られた。
闇の中から、覆面の刺客が雪崩れ込んでくる。
「――逃げよ、千代!」
冴斗が叫び、抜刀した。迫る刺客の刃を受け、弾き返す。狭い庵の中で、火花が散った。
わたしは、老女の手を掴んだ。
「ご老女! 共に――!」
だが。
覆面の一人が放った刃が、老女の胸を貫いていた。
「……!」
老女は、声もなく崩れ落ちた。わたしの腕の中に。その落ちくぼんだ目が、最期にわたしを見上げ、微かに微笑んだ。
「……小夜に……よう、似て……」
それきり、老女の目から、光が消えた。
わたしの腕の中で。ただ一人の肉親が――会えたばかりの祖母が、事切れていた。
「千代!」
冴斗が刺客を斬り伏せ、わたしの手を掴んだ。榊たちが異変に気づき、外から駆けつけてくる喊声が聞こえた。乱戦の隙を突いて、冴斗はわたしを抱えるように、庵の裏手から闇へと走り出た。
どこをどう走ったのか、わからなかった。
気づけば、わたしたちは、鴨川の河原の葦の茂みに、身を潜めていた。追っ手の気配は遠のいている。榊たちが、しんがりで食い止めてくれたのだろう。
わたしは、震えていた。祖母の血が、わたしの手を濡らしていた。会えたばかりの、たった一人の肉親を、またしても、あの者たちに奪われた。
冴斗が、わたしの肩をそっと抱いた。
「……よく聞け、千代」冴斗の声は、低く押し殺されていた。「敵の正体は、わかった。御堂の内府。……だが、それは同時に、俺たちがいかに恐ろしい相手を敵に回したかを意味する」
冴斗の眼が、闇の中で光った。
「御堂は、この公儀の頂に近い男だ。その気になれば、俺たちなど罪人に仕立て、闇に葬ることなど造作もない。……この密書一つで、あのお方を討つのは、並大抵のことではないぞ」
わたしは、血に濡れた手を握りしめた。
母の仇。祖母の仇。玲さまの仇。そして、冴斗の母君の仇。すべての糸が、御堂という一つの名に繋がった。
だが、その相手は、都の天を衝く権力者。かたや、わたしたちは、追われる身の若き当主と……名もなき下働きの娘。
――それでも。
わたしは、顔を上げた。血に濡れた目で。
やらねばならぬ。この命に代えても。
(つづく)




