第二十九話 まことのお前
看破の夜が明けても、館は、何事もなかったかのように動いていた。
いや――動かして、いた。
賊の襲撃は、榊が「夜盗の類が忍び込んだ」と家士たちに触れを出し、収めた。まことの子細を知るのは、冴斗と、榊と、忠義の侍の幾人か。そして――わたしが玲さまではないという、そのいちばんの真実を知るのは、この世でただ、冴斗一人だけだった。
だから、わたしは、変わらず玲を演じ続けねばならなかった。
だが、冴斗と二人きりになると、もう繕う必要はなかった。
その日の昼下がり。人払いをした私室で、冴斗はわたしに向き合って言った。
「……表向きは、これまで通り、玲として振る舞ってもらう。榊にも、家中の者にも、悟らせるわけにはいかぬ。お前が偽者だと知れれば……琴宮も、氷室も、面目を失い、つけ込む隙を与える」
「……はい。心得ております」
わたしは、俯いた。
偽りを続けよ、と、この人は言う。だが、その言葉の意味は、以前とはまるで違っていた。かつては、この人を欺くための偽りだった。いまは――この人と共に、世を欺くための偽り。わたしとこの人を隔てていたその嘘が、いまは、二人を繋ぐ糸になっていた。
「顔を、上げよ」冴斗が言った。
わたしがおずおずと顔を上げると、冴斗はしばらくわたしを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……妙な心地だ。お前が、俺の前で俯くのを見るのは。玲であったお前は、いつもそうして俯いていた。だが、まことのお前は――どうなのだ」
「……え」
「俺は、まことのお前を知らぬ」冴斗は静かに言った。「千代。お前は、どういう女子なのだ。何が好きで、何を恐れ、どのように生きてきた。……俺は、それを知りたい」
わたしは、胸を突かれた。
この人は、仮面を剥がされたわたしを突き放すのではなく、その下の、まことのわたしを知ろうとしてくれている。傷つきながらも。
わたしは、たどたどしく語り始めた。まことの、わたしのことを。
物心ついた時には、琴宮の下働きだったこと。親の顔も、名も知らぬこと。捨て子だったのか、売られたのか、それすらわからぬこと。読み書きも習わず、ただ水を汲み、薪を割り、叩かれぬように、人の顔色ばかりを読んで生きてきたこと。
冴斗は、黙って聞いていた。時折、その眼に、痛ましげな色がよぎった。
「……親を、知らぬのか」やがて、冴斗が呟いた。「では、お前は。なぜ玲と、瓜二つなのだ」
その問いに、わたしは、はっとした。
そうだ。それは――わたし自身が、ずっと考えぬようにしてきた問いだった。
顔が、同じ。ただそれだけの理由で、わたしは玲の身代わりに据えられた。だが、なぜ、赤の他人の下働きの娘が、名門の姫君と寸分違わぬ顔を持っているのか。
偶然で片づけるには、あまりにできすぎていた。
「……偶然では、あるまい」冴斗が、低く言った。その眼が、鋭くなる。「これほど似た顔が、血の繋がりもなく生まれるものか」
血の、繋がり。
その一言が、わたしの胸に、冷たく落ちた。
わたしと玲さまが、血で繋がっている、というのか。ならば――わたしは、何者なのだ。琴宮の下働きと思い込んで生きてきた、このわたしは。まことは――
考えれば考えるほど、足元が崩れていく心地がした。
「……知りたいのか」冴斗が、わたしを見た。「お前が、まことは何者なのか」
わたしは、しばらく俯いていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……知りとうございます」声が、震えた。「恐ろしくとも。……もう、目を背けるのは、たくさんなのです」
その答えを聞いて、冴斗が、微かに口元を緩めた。あの夜、わたしが言った言葉を、この人は覚えていたのだ。
「ならば」冴斗は言った。「一つ、心当たりがある。……お前の素性を、知っているかもしれぬ者が、この館にいる」
わたしの心の臓が、跳ねた。
「志乃だ」
(つづく)




