第二十八話 まことの名
わたしの沈黙が、真実を告げた、その刹那。
「――斬れ」頭巾の人物が、低く命じた。「二人とも。密書を奪い、亡き者にせよ」
覆面の侍が、一斉に刀を振り上げた。
もう、終わりだ。わたしは、目を瞑った。
だが。
次の瞬間、わたしの体は、強く引き寄せられていた。冴斗の腕に。
彼はわたしを抱えるようにして、傍らの襖を蹴破り、隣室へと転がり込んだ。振り下ろされた刃が、畳を抉る。冴斗は片手でわたしを庇いながら、もう片手の脇差で、迫る侍の一人を斬り伏せた。
「――こちらへ!」
冴斗が叫んだ。わたしの手を掴み、走る。下働きの頃に覚えた、屋敷の抜け道。だが、いまは、冴斗がわたしを導いていた。
この人は――たったいま、わたしが偽者だと知ったばかりなのに。それでも、わたしの手を離さなかった。斬らせはしなかった。なぜ。
問う暇は、なかった。
背後から、追っ手が迫る。その時――館の奥から、幾つもの足音と怒号が湧き起こった。
「殿ぉ――! 御無事か!」
榊直茂だった。氷室の忠義の侍たちを率いて、駆けつけてくる。人払いされた館の異変に、気づいたのだ。
覆面の侍たちと、榊たちが乱れ合う。刃と刃が、火花を散らす。
頭巾の人物が、舌打ちをした。
「早瀬。退くぞ」
その声に、早瀬は一瞬、冴斗を――いや、冴斗の懐を睨みつけたが、やがて身を翻した。頭巾の人物と共に、闇の庭へと消えていく。
「逃すな! 追え!」榊が叫ぶ。だが賊は、夜陰に紛れ、庭の木戸から外へと走り去った。
館に静けさが戻る頃には、東の空が白み始めていた。
*
榊たちに後を任せ、冴斗は、わたしを人けのない一室へと連れていった。
二人きりになると、長い沈黙が落ちた。
障子の外が、白んでいく。その薄明かりの中で、冴斗はじっと、わたしを見つめていた。あの、読む眼で。だが、その眼には、もう疑いはなかった。ただ、深い、深い痛みだけが、あった。
わたしは、もう逃げなかった。
「……仰る通りです」わたしは両手をつき、頭を垂れた。声が震えた。「わたくしは、玲さまではありませぬ。琴宮の下働きの、千代と申します。……まことの玲さまは、あの離れで殺され、わたくしは、その顔が同じというだけで……身代わりに据えられたのです」
言葉が、堰を切ってあふれた。もう、隠すものは、何もなかった。
「字も読めませぬ。作法も知りませぬでした。何もかも、偽り。あなたに告げた身の上も。あなたと分かち合った、あの玲さまの心も。……そして、あなたの母君の死の真相を、共に悼んだあの夜も。すべて――偽りの上に、あったのです」
わたしは、額を床に擦りつけた。
「あなたを、欺いていました。あなたが命を賭けて守ってくださった、その厚意にすがりながら。……どうか、お怒りください。どのような罰でも――」
「……なぜ、言わなかった」
冴斗の声は、掠れていた。怒声ではなかった。もっと静かで、それゆえに胸を抉る響きだった。
「俺は、お前に、母のことを話した。二十年、誰にも明かさなかった、あの傷を。お前を信じて。……なのにお前は、いちばん大きなことを、隠していた」
わたしは、答えられなかった。返す言葉が、なかった。
冴斗は立ち上がり、障子の方へ歩いていった。白み始めた庭を背に、しばらく、何も言わなかった。その広い背中が、裏切られた者の孤独を語っていた。
わたしはただ俯いて、その裁きを待った。追い出されても、突き出されても、仕方がない。わたしはこの人を、いちばん深く欺いたのだから。
だが。
やがて、冴斗が口を開いた。背を向けたまま。
「……おかしなものだな」
その声は、苦い笑いを含んでいた。
「お前が玲ではないと聞かされて、俺はたしかに、頭を殴られたような心地がした。……だが、心のどこかで。妙に腑に落ちてもいるのだ」
冴斗が、振り返った。その眼が、まっすぐにわたしを見た。
「文で知ったあの姫は、もっとたおやかで、大人しい人だった。だが、俺の前に現れたお前は。庭で息が詰まると言い、荒れた手を恥じず。……いつも、俺の思うていた姫君とは、違った。俺が心を惹かれたのは、その違うところ、だったのだ」
わたしの胸が、詰まった。
「俺はずっと。文の中の玲ではなく、目の前にいるお前に。……惹かれていた。名も、素性も、知らぬままに」
冴斗はそこで、一度言葉を切った。その顔に、痛みと、何か名づけがたいものが、交錯していた。
「だが。……それとこれとは、別だ」冴斗の声が、硬くなった。「お前が俺を欺いたことは、消えぬ。母のことを話した、あの夜の俺の心を。お前は知りながら、偽っていた。……その痛みは、すぐには消えぬ」
わたしは、頷いた。当然だった。
「千代、と言ったな」冴斗が、初めて、わたしのまことの名を呼んだ。その響きに、わたしは思わず、顔を上げた。
「……この密書のことも。柏木のことも。都のあの御方のことも。もはや、後戻りはできぬ。俺とお前は、同じ船に乗ってしまった。敵は、お前が偽者だと知りながら、お前を殺しに来る。俺も諸共に。……好むと好まざるとにかかわらず、俺たちは、共に戦うほかない」
それは、赦しではなかった。だが、断絶でもなかった。
「まことのお前として」冴斗は、静かに言った。「もう一度、始めよ。……偽りは、もう、たくさんだ」
偽りは、もう、たくさんだ。
その言葉は。かつて、わたし自身が、心の中で叫んだ言葉と、同じだった。
わたしは、涙があふれるのを、こらえきれなかった。赦されたわけではない。傷は、残る。だが、この人は、偽者のわたしを突き放さず、「まことのお前として、始めよ」と言ってくれた。
仮面を脱いだ、その先に。初めて、わたしは千代として、この人の隣に立つことを、許されたのだった。
(つづく)




