第二十二話 闇を、共に
闇の中で、冴斗が、わたしを、長持の陰へと引き寄せた。二人、身をひそめる。
納戸の戸が、静かに開いた。
差し込む、燭の灯り。畳を踏む足音は――二つ。一つは、間違いない。早瀬だ。もう一つは、あの、頭巾の――いや。今度は、頭巾を、していない。
わたしは、長持の陰から、そっとうかがった。
早瀬と共にいたのは、こちらに背を向けた、羽織姿の人物だった。顔は、見えぬ。だが、その落ち着き払った佇まいから、早瀬が頭を低くして、指図を仰いでいるのが、わかる。この者が――早瀬の上に立つ者。頭巾の、あの声の主だ。
「この納戸は、一度、検めたな」その人物の、低い声。やはり、昨夜のあの声だった。
「は。なれど、姫の日記から、危うい件は、破り取り、始末いたしました」早瀬が、答える。「肝心の『あれ』は、荷の中には、ございませんでした」
「では、やはり……姫が、どこか別の場所に、隠したか」声が、思案する。「厄介な。……だが、焦ることは、ない。都の、あの御方も、機が熟すのを、待っておられる。二十年、待ったのだ。あと幾月、待てぬことは、あるまい」
都の、あの御方。
わたしの背が、凍った。この陰謀は――柏木の残党、だけではないのだ。都に、それを、後ろで操る、大きな者が、いる。
「……ん?」
ふいに、早瀬が、声を上げた。彼の眼が、わたしたちのひそむ、長持の陰の方を、向いた。
「いかがした」
「いえ……何やら、香が。……真新しい、灯りの匂いが、するような」
わたしは、息を止めた。冴斗が吹き消した、灯り。その燃えさしの匂いが、まだ、残っていたのだ。早瀬が、燭を掲げ、ゆっくりと、こちらへ歩み寄ってくる。一歩。二歩。
見つかる。
冴斗の手が、わたしの手を、固く握った。もう一方の手が、そっと、己の脇差の柄にかかるのが、闇の中で、見えた。この人は、いざとなれば――斬る、つもりだ。わたしを、守るために。
早瀬の足が、長持のすぐ手前で、止まった。
燭の灯りが、わたしたちの隠れる、その際を照らし――
「――早瀬」
背後から、あの人物の声が、飛んだ。
「何をしておる。長居は無用だ。行くぞ」
早瀬は、なおも訝しげに、闇をうかがっていたが、やがて、主の声に従い、燭を引いた。
「……は。御意」
二つの足音が、遠ざかり、納戸の戸が、閉まる。
わたしと冴斗は、闇の中で、長いこと、抱き合うように、身をひそめたまま、動けずにいた。互いの、荒い息づかいだけが、聞こえていた。
危機が去っても。冴斗の腕は、しばらく、わたしを離さなかった。
闇の中で、その鼓動が。わたしの鼓動と、重なっていた。生きている。二人、共に。その実感だけが、いま、確かだった。
やがて、冴斗が、低く囁いた。
「……都の、あの御方、と。あの者は、言ったな」
「はい」
「柏木の残党を、裏で操る者。……二十年前の真実を握り、それを闇に葬ろうとする者が。都の高みに、いる」冴斗の声が、硬くなった。「これは、俺が思うていたより、ずっと、根の深い話だ」
わたしは、闇の中で頷いた。そして、あの、日記の断片を思い返した。
父上が、柏木になさったこと。それは罪だ――と、玲さまは書いていた。無実の罪では、なく、まことに犯された罪、だと。
わたしが成り代わっている、この、琴宮の姫は。まことは、罪ある家の娘だったのかもしれぬ。そして、その罪を暴こうとした者たちに、殺された。わたしは、その、罪ある家の名を背負って、罪を暴こうとする者から、逃げ、隠れている。
――何が、正しいのか。もう、わからなかった。
だが、一つだけ。確かなことが、あった。
わたしは、冴斗の胸から、そっと顔を上げた。闇に慣れた目に、この人のまなざしが、すぐ間近にあった。
「……冴斗さま」初めて、わたしは、この人の名を呼んだ。「わたくしは、真実が知りたい。たとえ、それが……わたくしの家の罪を、暴くことになろうとも」
冴斗の眼が、わずかに見開かれた。それから、ふっと和んだ。
「……そなたは、変わっているな。己の家が、傷つくやもしれぬというのに」
「傷つくのが恐ろしくて、目を背けていては。玲――いえ、」
わたしは、危うく口を滑らせかけて、飲み込んだ。
「……いえ。ただ、恐ろしいことから目を背けて生きるのは。もう、たくさんなのです」
それは、まことの、わたしの言葉だった。下働きとして、虐げられ、俯いて生きてきた、千代の。
冴斗は、しばらく、わたしを見つめていた。そして、ゆっくりと手を伸ばし、わたしの頬を包んだ。
「……ならば、共に暴こう。この館の闇も。都の闇も。……二人で」
闇の中で、その温もりだけが。まことのものだった。
(第一部・了)




