第十九話 闇の中で
冴斗、だった。
闇の中で、その眼が、わたしを見下ろしている。何が起きているのか、と問うように。
背後からは、なおも、追っ手の足音が近づいてくる。あの者たちが、この角を曲がれば。冴斗と、鉢合わせる。そうなれば――どうなる。冴斗は、味方かもしれぬ。だが、確証はない。この人が真実を知れば。わたしが偽者だと知れば。すべてが、崩れる。
どちらに転んでも、破滅。わたしは、板挟みのただ中に、いた。
わたしは、とっさに、冴斗の袖を掴んだ。そして、追っ手の来る方を、目で示した。声には出せぬ。ただ、必死の目で訴えた。誰かが、来る、と。
冴斗の眼が、鋭く細まった。廊下の奥から迫る足音を、一瞬で聞き取ったのだ。
次の刹那。冴斗は、わたしの腕を強く引き、傍らの暗がりへと、身を滑らせた。柱と壁の作る、影の窪み。二人、身を寄せ合うように、そこへ潜む。
冴斗の腕が、わたしを庇うように、抱き込んでいた。彼の胸の鼓動が、すぐ間近で聞こえる。わたしは、息を殺した。
足音が、角を曲がって、来た。
追っ手は――早瀬だった。刀の柄に手をかけ、辺りを油断なくうかがっている。その眼が、わたしたちの潜む暗がりを、掠めた。
見つかる。
わたしは、思わず、目を瞑った。
だが、その時。
冴斗が、わたしを背に庇って、暗がりから、すっと立ち上がった。
「――こんな夜更けに、抜き身の柄に手をかけ、何をしておる」
冴斗の声が、廊下の闇を、鋭く切り裂いた。
早瀬が、びくりと身を強張らせ、慌てて片膝をつく。
「と、殿……! こ、これは……曲者の気配がいたしましたゆえ。お館の警固を」
「曲者?」冴斗の声は、氷のように冷たかった。「俺の館に、曲者が忍び込んだと? ……面妖な。それとも、そのほうが、曲者のまねごとでも、しておったか」
「めっ、滅相もございませぬ……!」
「見回りは、もうよい。下がれ」
冴斗の、有無を言わさぬ一喝に。早瀬は、深々と頭を垂れ、後ずさるように、闇へと退いていった。その背が消えるまで。冴斗は、じっと、鋭い眼で見送っていた。
わたしは、冴斗の背後で、へたり込みそうな膝を、必死に支えていた。
助かった。この人が――冴斗が、追っ手を退けてくれた。何も知らぬまま。ただ、わたしを庇って。
早瀬が去ると。冴斗は、ゆっくりと、わたしを振り返った。
その眼が、わたしをまっすぐに射た。もう、暗がりに隠れることは、できない。
「……さて」冴斗は、低く言った。「今度は、そなたが話す番だ。なぜ、こんな刻限に、供も連れず、館を駆けていた。何から、逃げていた」
わたしは、答えられなかった。
まことのことを言えば。玲さまの死を探っていたこと。柏木の密事を、聞いてしまったこと。そして――わたしが偽者だということ。すべてが、明るみに出る。
だが、嘘を、この人に見抜かれれば。それも、また、命取りだ。
わたしが、言葉に詰まっていると。
冴斗が、ふと、廊下の奥――早瀬の消えた方へと、目をやった。そして、独り言のように、低く言った。
「……あの男の様子が、近ごろおかしいとは。俺も、感じていた」
わたしは、はっと、顔を上げた。
「近習でありながら、時折、姿を消す。夜半に、館の奥をうろつく。……主の目を盗んで、何かを企んでいる。そんな匂いがな」冴斗の眼が、再び、わたしを捉えた。その奥に、鋭い光が宿っていた。「そなたが逃げていたのは。あの男から、ではないのか」
わたしの心の臓が、跳ねた。
この人も――気づいていた。己のすぐ隣の、裏切りに。
あの、頭巾の者は、侮っていた。「氷室の若造は、まだ気づいておるまい」と。だが、違う。この人の読む眼は。とうに、闇の匂いを、嗅ぎ取っていたのだ。
冴斗が、一歩、わたしに近づいた。
「話してくれ」その声には、いつもの酷薄さは、なかった。ただ、静かな覚悟だけが、あった。「この館で、何が起きている。……そなたは、何を知っている」
わたしは、闇の中で、この人の眼を、見返した。
いま、この人に、どこまでを打ち明けるか。それが――わたしの行く末を、そして、この人との行く末を、決めるのだと。わたしには、わかっていた。
(つづく)




