第十八話 聞いてしまった
氷室の若造は、まだ気づいてはおるまいな。
その一言で、わたしは悟った。冴斗は、この密事を、知らぬ。己の館の内で、己の近習が裏切っていることを、あの人は気づいていないのだ。あの、人を読む眼を持つ男さえ、欺かれている。
いや――欺かれているのではない。冴斗もまた、この者たちの、標的なのかもしれぬ。
安堵と、新たな恐怖が、同時に胸を突いた。冴斗は、味方かもしれぬ。だが、その冴斗も、危うい。
頭巾の人物の囁きが、続いた。
「それより……氷室に輿入れした、あの姫よ」
わたしの息が、止まった。
わたしの、ことだ。
「……妙だ、とは思わぬか」頭巾の声が、細く、鋭くなった。「あの姫は、確かに、離れでこと切れていた。この目で、見届けた。なのに――氷室には、生きた玲が、輿入れしてきた」
早瀬が、身じろぎする気配。
「影武者、でございましょう。琴宮が、家の面目のため、姫の死を隠し、身代わりを立てた……」
「だとしても、だ」頭巾の声が、闇に沈む。「その身代わりが、どこまで知っている? 死んだ姫の、何を引き継いだ? ……もし、あの女が、『あれ』の在り処を知っていたら」
冷たい汗が、背を伝った。
「……始末、いたしますか」早瀬の声は、恐ろしいほど静かだった。
「いや。まだ、泳がせよ」頭巾の人物は、しばし、思案するように間を置いた。「あの身代わりが、『あれ』を捜し当ててくれるやも、しれぬ。……その時が、始末の時だ」
わたしは、障子の陰で、震えていた。
泳がされて、いる。わたしは、いつか、殺される。玲さまの遺した「あれ」を、見つけたその時に。あるいは――見つけられぬと判じられた、その時に。
どちらに転んでも。この者たちは、わたしを、生かしてはおかぬ。
もう、たくさんだった。聞くべきことは、聞いた。ここに、長居は無用。一刻も早く、この場を離れねば。わたしは、そっと、障子から身を引いた。
――その拍子に。
夜着の裾が、廊下に置かれた、何かに触れた。小さな、鉄瓶。書院の火鉢に掛けるための。それが、わずかに床を擦り、
ことり、
と、微かな音を立てた。
闇の中で、その音は、雷鳴のように響いた。
書院の中の囁きが、ぴたりと止んだ。
「……誰か、いる」
頭巾の人物の、鋭い声。
わたしは、弾かれたように、身を翻した。
背後で、障子の開く音。荒々しい足音が、追ってくる。考える暇は、なかった。ただ、無我夢中で、闇の廊下を駆けた。曲がり角を、幾度も折れ。下働きの頃に覚えた、屋敷の抜け道を頼りに。心の臓が、破れそうだった。
角を曲がった、その先。
わたしは、どん、と、何かにぶつかった。
いや――誰か、に。
闇の中で、逞しい腕が、わたしの肩を掴んだ。
わたしは、悲鳴を上げそうになった。捕まった。追っ手に。もう、終わりだ――
「……こんな刻限に、何をしている」
その、低い声に。わたしは、凍りついた。
聞き慣れた、声だった。
冴斗、だった。
(つづく)




